DAWN FANTASY

4章:一つの解、全ての鍵 - 2 -

 崩れ落ちる巖の破片を、豊かな樹冠が防いでくれる。
 七海とランティスの掴まっている枝は、もはや巨木になって、うねうねと壁伝いに、時折豪快に壁を破壊しながら枝を這わせていき、ついには二人をがらんとした部屋まで運んだ。
 枝の成長が止まったのを見て、七海はランティスを支えながら、恐る恐る石床におりた。
「ランティスさん!」
 脚がついた途端に、彼はがくりと膝をついた。意識は殆ど落ちているが、七海に体重をかけまいとする配慮が窺えた。
「大丈夫、私に掴まって」
「ソムニア……」
 七海は一瞬、言葉の意味を考えた。たまに耳にする言葉の意味が、ようやく判った。逆は多々あれど、彼に感謝されることは滅多にないから。
どういたしましてエフリハーノ。よし……いきますよ」
 なるべく彼の躰を支えて脚を踏みだした。ゆっくり歩いて、壁の前で立ち止まる。
よくできましたラーチェ、ここに座って」
 ランティスは億劫そうに壁にもたれた。顔色は病的なほど白蝋はくろうめいて、七海は不安になった。
「どうしよう、真っ青……靴、脱がせていいですか?」
 返事はない。とうとう意識が落ちたのだ。
 靴のベルトを緩めて、そっと脱がせた七海は、叫ばぬよう唇をきつく噛み締めた。
 足頸の骨が、皮膚を突き破っている。
 心臓は恐怖に波打ち始め、視界が潤むのを感じた。泣いたってどうにもならないと判っていても、絶望感を拭えない。どう治療すればいいかも判らぬ重症だ。
 意識が落ちていて幸いしたかもしれない。七転八倒の激痛のはずだ。頸からさげたペンダントを握りしめて、清めの魔法スプールを唱えてみたが、七海が身綺麗になっただけで、ランティスには効かなかった。
「っ……ごめんなさい、こんな酷い怪我を……っ」
 くぐもった嗚咽を漏らすと、慰めるように、涼風が頬を撫でた。顔をあげると、力なく目を閉じているランティスを、仄青い光が照らしていた。
 七海は、涙に濡れた目で宇宙樹ユグドラシルを見た。
「彼を、助けて、あげられますか……っ?」
 嗚咽まじりに哀願すると、肯定したかのように、細い枝が伸びて、緑の新芽が彼の足頸に触れた。
 固唾を呑んで見守っていると、骨はぐぐ……っと皮膚のなかに戻っていき、えぐれた肉も塞がり始めた。
 十数秒のうちに、傷は綺麗に癒えた。
 七海は感極まって、宇宙樹ユグドラシルの枝をそっと撫でた。
「ぁ、ありがとう……ありがとうソムニア……」
 鼻をすすりながら、ランティスの頬を撫でた。
「ランティスさん、宇宙樹ユグドラシルが怪我を治してくれましたよ」
 さらに神秘の枝は七海にも近づいてきて、血の流れでる大腿に触れた。
「あ……ありがとうソムニア……」
 既視感のある温もりが肌に伝わってくる。たちまち、流血の傷を癒やしてくれた。
 ふぅっとランティスの意識は戻った。
「****……七海」
「ランティスさん、大丈夫ですか?」
 傷は癒えたはずだが、彼は躰を折り曲げ、苦しげに喘ぎ始めた。
「ランティスさん!」
 七海は、彼の苦痛が少しでも和らぐように、何度も背中を擦ってやった。
「*****……」
 彼が苦しげに何か呟いたが、うまく聞き取れなかった。
 生存本能を燃焼するかのように、淡い光を全身にまとっている。長いまつ毛の影をなめらかな肌に落とし、低く呻く姿は、痛々しくて艶かしく、儚くも美しかった。
「ランティスさん、大丈夫?」
 七海が腕をさすると、ランティスは顔をあげた。彼の目を見た瞬間、七海は戦慄せんりつした。
 黒く塗りこめた凶々まがまがしい双眸のなか、かがや臙脂べに色の瞳孔が縦に伸びている。
 魔性に憑依されてしまったのだろうか。美しい碧氷の輝きは喪われてしまった。
「ランティスさん……?」
 彼が手を伸ばすのを見て、逃げるつもりはないのに、躰が勝手におののいた。けれども、後ろは壁で、これ以上はさがれない。顔の横に手を置かれて、腕のなかに囲われてしまう。俯きそうになると、顎にそっと手をかけられた。
 はっとしたように、彼は瞳を瞬いた。転瞬、瞳に理性的な光を取り戻した。
 薄闇のなか、蒼氷の虹彩が鮮烈に、どこか緊張を帯びて、眩く映えている。
「大丈夫ですか?」
 彼の頬に手を伸ばそうとしたら、その手をとられた。
「*****」
 その声には切迫した響きがあった。離れなさい、というようにランティスは七海の肩を掴んで離した。
「痛い? どこが痛い?」
 七海は心配げに訊ねた。
危険ヤドラ離れてクォーツ……」
 ランティスは、再び壁を背にしてもたれた。苦しげな様子で目を閉じている。
離れてクォーツ!」
 その声がいつになく厳しくて、七海はびくっとなる。
「でも」
 七海はもどかしげに、ランティスと世界樹ユグドラシルを交互に見比べた。彼の身に恐ろしいことが起きている。助けたいのに、その方法が判らない。
 ランティスは苦しげに呻き、震える手で、七海の腕を掴んだ。
 どこか獣じみた眸に射抜かれ、背筋にぞくっと震えが走る。瑠璃のように濃い瞳のなかに、熾火おきびのように燻っている飢渇きかつが感じられた。
 どうすれば――言葉を発せないまま、思いがけない力で顎を掴まれ、唇を奪われた。
「んぅっ」
 こんな時だというのに、甘い吐息に目眩を覚えた。だめだと思うのに、唇を開こうとする力に抗えない。優しく、だが有無をいわせぬ力で舌が挿入はいってくる。
「んっ……ふ、ぅ……」
 蠱毒か媚薬のような唇に、なすがままだ。口腔を刺激され、逃げ惑う舌を優しく搦め捕られ吸われてしまう。
 甘く貪られて、躰の奥がとろりと潤う。だけど――彼の意志ではない気がして、七海は腕を突きだして距離をとった。
「ランティスさん、どうしちゃったんですか?」
 彼は答えず、七海の腰を抱き寄せ、押し倒した。
 えっ? と目を瞠る七海の躰を服のうえから撫でまわし、胸の膨らみを揉みしだく。
「っ、あのっ?」
 腕を突っ張ろうとするが、彼の腕のなかでは、どんなに頑張っても身動きがとれない。
「ん、待って……ちょっと……っ」
 胸郭が圧迫されて苦しい。圧倒的な膂力りょりょくの差を思い知らされる。こんなことをする人ではないことは、判っている。彼の身に何かが起きているのだ。
「あっ、だめっ」
 服をたくしあげられ、下着が覗いた。絹地をずらされて、こぼれた乳房を乱暴に鷲掴まれた。
「ランティスさんッ」
 先端を親指の腹でこすられて、七海の腰は妖しく波打った。
「ぁっ」
 そんな場合じゃないのに、思わず高い声が漏れてしまい、慌てて唇を噛みしめた。
 恥じ入る七海を、ランティスは食い入るように見つめている。顔をさげると、唇を開いて――見ていらなくて、七海は目を瞑った。
「あぁっ」
 突起を口に含まれて、ちゅぅっと吸われた瞬間、躰の芯がとろりと潤うのを感じた。赤子が乳を吸う姿に似ているが、成人した男性の強さで吸ってくる。
 右を吸われながら、左を指でくにくにと愛撫されると、無意識に脚を擦りあわせてしまう。展開についていけない。たが、内腿を撫であげられると、意識が冴えた。
「やめて、ランティスさんッ」
 ぴたっと動きを止めたランティスは、目を瞬き、七海を見て愕然となった。さっと躰を離すと、左手を床に這わせ、右手に短剣を掴んで勢いよく振りおろした。
「ひッ」
 七海は悲鳴をあげた。
 白く美しい左手に、剣が深く突き刺さっている。相当な痛みのはずなのに、ランティスはかすかに呻き声をこぼしただけだった。
「何してるのッ!?」
 我に返った七海は、上衣をはだけさせたまま、ランティスに詰め寄った。
「七海、*****」
 彼は右手を伸ばし、着衣の乱れを直しなさい、というように七海の袖を軽く引っ張った。七海は急いで釦を留めながら、ランティスを見つめた。
「どうして、こんなっ? これは、血? ……ぁ、待って、ナイフ! 抜かないと……っ」
 傷口から、きらきらと銀色の体液が流れでている。
 混乱を極める七海と違って、ランティスは、苦痛に眉を寄せているものの冷静に見えた。正気を失ってこんなことをしたのではない。逆だ。正気を取り戻すために、彼は自らを傷つけたのだ。
 ――何から正気を取り戻すために?
 この時、七海の脳裡に一つの仮説が閃いた。
 地獄の裂け目に堕ちた七海を――魔性に呑みこまれかけた七海を、ランティスは、身を挺してかばってくれた。
 その代償として、彼が悪しきものにかれたのではないだろうか?
 めまぐるしく思考を働かせる七海の前で、ランティスは、右手で上着の内側をさぐり、硝子の小瓶をとりだした。口で蓋をあけて、なかに入っている透明な液体を、剣が刺さったままの左手にふりかけた。
「ぐ……っ」
 ランティスが苦しげに呻く。表面の皮膚が爛れるのを見て、七海は涙声でいった。
「やめて、い、傷めつけないで……っ」
 ランティスの左手から腕にかけて、なめらかな顔の皮膚に白刃で裂いたような痛々しい創痕そうこんが走り、銀色の光が流れでた。
「いやああぁっ、ランティスさんッ!」
 極度の恐怖と畏懼いくとに、七海は絶叫した。
 不可視の刃がランティスに襲いかかる。悪疫あくえきの仕業だ。うちなる暗黒が憂鬱の放射となって、精神界と物質界とに影響を及ぼしているのだ。
 常人ならば発狂する痛みのなか、彼は懸命に耐えていた。
 命懸けて抗おうとする姿を目の当たりにし、七海の胸に、強烈な、耐え難いほどの恐怖と畏怖の念が沸き起こった。
 なんとかして彼を助けたい。どうにかしなければ。何かできることはないのか。
(このままでは彼が死んでしまうっ!!!)
 はっと彗星のように閃いた。
 肉体と精神の乖離かいりにより、七海がこわれかけた時、ランティスは、唇で魔法をかけてくれた。
 彼うちに潜む悪霊と戦っているのなら、七海を繋ぎ留めるために彼がしてくれたことが、彼に対しても有効かもしれない。
 その思いつきを実行するには、一瞬の覚悟が必要だった。
(――できる。私はランティスさんに何度も助けられてきた。今度は私が助けるのよ)
 彼を救いたいという強烈な意志が膨れあがった。
 瞳に決意を灯して、七海はランティスの顔を覗きこむと、白皙はくせきの頬を両掌で包みこんだ。
「ランティスさん、もしかしたら助けられるかもしれない……だから、私とキスしましょうモア ティナ?」