DAWN FANTASY

4章:一つの解、全ての鍵 - 1 -

 堕ちていく――
 暗黒の深淵は、厄災に通じる回路のようだった。
 邪悪の精髄せいずいが異界から顕現しようとしているのか、悪意の異常な放電のなか、無数の亡者の囁き声が聴こえる。
(ランティスさん! ランティスさん!)
 七海はきつく目を閉じて、胸のなかで彼の名前を叫び続けた。この声が届きますように、どうか生き延びられますようにと祈った。
 願いが通じたのか、瞼の向こうに光を感じた。目をあけると、暗闇に射す一条の光が見えた。
(嗚呼、助けにきてくれた!)
 大きな喜びが炸裂した。
 迸るような歓喜に貫かれた次の瞬間、本当にランティスだろうかと不安を覚えた。
 だが、彼の背に広がる美しい玻璃の四枚羽を見て、疑念は吹き飛んだ。
 信じられないほど美しい、淡い虹色に輝く透明の羽に、金色の静脈が走っている。
 天使――妖精――どう呼べばいいか判らないが、これまでにも窮地を救われた時、霞む意識の向こうに、あの貴い姿を見た気がする。
 やはり彼は、人智を超越した尊い存在なのだ。汚穢おわいに満ちた暗闇のなか、かくも清浄な光を放っている。
「七海!」
 ついに声が届いた。
 手を伸ばすランティスを仰ぎ見て、七海も必死に手を伸ばした。指先が触れたと思ったら、二の腕を掴まれ、腰を攫うように、ぐんと力強く引きよせられた。
(助けにきてくれた……っ)
 地獄の裂け目に堕ちても、手を差し伸べてくれた。この人は七海を助けてくれる。どこにいても――どんな時も――
 感無量で胸の奥を熱くさせながら、ぐんぐんと高度をあげていく。
 光が見えた時、硬質な氷結音――魔法の発現の音と共に、ランティスが苦しげに呻いた。
 下を向いた七海は、表情を凍りつかせた。彼の脚頸から銀色の光がこぼれおちている――流血しているみたいに。
「ランティスさんッ!?」
 魔法で撃退したのか、敵の姿は見えない。
 負傷しながらもランティスは、腕のなかで縮こまる七海を抱えたまま、速度を落とすどころかさらに加速して、黒い渦から一気に抜けだした。
 蛇のようにうねるおびただしい数の亡者の手を振り切って、地面におりた。
 驚いたことに、そこは館の敷地にある池の傍だった。
 以前見た時には、儚げな睡蓮の浮かぶ青く澄んだ美しい池だったが、今は見る影もなく、禍々しい暗黒がぽっかりと口を開けている。邪悪な黒い舌を伸ばして、大気も建物も、世界のすべてを呑みこもうとしている。
 七海を腕からおろしたところで、彼は力尽きた。
「ランティスさん、しっかり!」
 七海は慌ててランティスの傍に屈みこんだ。彼は目をきつく閉じて、苦痛に顔を歪ませている。逃げなさい、走りなさい、と譫言うわごとのように呟いた。
 背後を振り向けば、暗黒から不気味な影が這いでようと蠢いている。
 気丈にも七海は、ランティスの腕を肩に回して支えようとした。けれども、細身といはいえ男性の、それも身長差があるため、押し潰れされてしまいそうだった。
「うぅっ」
 七海はあえぎながら息をついた。渾身の力を振り絞って、横から支えるのではなく、彼の胸から胴にかけて、なんとか背中に乗せた。そしてランティスに追従するように宙に浮く杖を、掴んだ。
(助ける。絶対に)
 強く心に唱えて脚を踏みだした。
 不思議と日頃の臆病さはなりをひそめて、生き延びてみせるという強い意思が全身に漲っていた。苦痛と恐怖に絶望するものか。今度は七海がランティスを助ける番だ。
「ぐ、うぅ……っ」
 しかし一歩ごとに激痛が走り、視界に涙が滲んだ。これまで気づかなかったが、堕ちている時に七海も負傷していたらしい。
 かろうじて前に進むことは可能だが、あまりにも遅い。常に痛みがあって、杖を掴む腕が痙攣して震えている。それに全身汗みずくで……汗にしては濡れすぎている。出血しているのだ。だが、死ぬほどじゃない。
 必死に歩こうとするが、現実は亀より遅い。不気味な呻き声がすぐ後ろに迫っている。
「う、うぅ~~ッ!」
 己が情けなくて、悔しくて、いよいよ運命も尽きたかと思われた時、ふっと背中が軽くなった。
 意識を取り戻したランティスが、七海の手のうえから杖を握りしめた。
 魔法が発動する――氷結音と共に、おびただしい数の鋭利な氷の刃が異形を貫いた。
「ギャギャギャッ!」
 耳障りな声をあげて、悪鬼たちは粉々に砕け散った。
 さらにランティスは分厚い氷の壁を築き、敵が迫るのを防いだ。
 しかし、そこで力尽きたように、今度こそ膝からくずおれた。
「ランティスさんっ!」
 生気のない顔は蝋のように蒼白く、気息奄々きそくえんえんとしている。
 七海は蒼白になって杖を握りしめ、彼を背負い直した。
「さぁっ、いきましょう!」
 確かめるようにつま先を動かし、次に膝を曲げた。腫れている。とても痛い。
 それでも前を向いて、少しでも早く、遠くへ逃げようとする。
 ぽたぽたと汗と血が地面に落ちる。
 四肢が悲鳴をあげている。視界が霞む。恐怖を見せたりするものか。やつら・・・に屈するものか。ランティスを死なせるものか!
 ぐらりと頭が揺れた時、雷鎚いかづちのごとく、地面の割れる音が聞こえた。はっと下を向くと、足元に緑色の蔦が顕れた。
 一瞬、新手の敵かと肝を冷やしたが、きらきらと煌めく仄碧い燐光を見て、どっと安堵が押し寄せた。
 宇宙樹ユグドラシルだ――
 地面を突き破って顕れたうねる幹に、大いなる意思の力が宿っているように感じられた。
 直感に従って、椰子やしのような蔓に掴まると、蔓の方も七海とランティスを護るように躰に巻きついてきた。そのままぐんぐんと伸びて、分厚い巖の天蓋てんがいを、貫き、砕いた。