RAVEN

- 15 -

 突然、鉄が擦れるような、乱暴な音が玄関から聞こえた。振り向くと、信じられない人物がいた。
 名前を叫んだ相手、レイヴンがそこにいた。
 彼は冷たい表情でずかずかとなかへ入ってくると、呆気にとられている城嶋を、思いきり殴り飛ばした。
「レイヴンッ!?」
 流星は困惑して叫んだ。レイヴンは流星を背に庇うように立ち、ベッドから転がり落ちて呻く城嶋を、冷徹に見下ろした。
「クソ野郎、何してくれてんだよ。嫌がってるのが判らないのか?」
 レイヴンの唇からこぼれたと思えないほど、低くて、乱暴な口調だった。かと思えば流星を振り向いて、目元を少し和らげた。
「ありがとう、流星さん。僕の名前を呼んでくれて。ちゃんと聞こえましたよ」
「えっ?」
 狼狽えて視線を揺らした流星は、玄関口にホテルの従業員が、心配そうな様子で立っていることに気がついた。
「いッてぇ……何するんだ、お前」
 城嶋は鼻血を手で押さえながら、射殺しそうな目でレイヴンをめつけた。
「なんで、ここに……」
 流星も唖然としながら、震える声で訊ねた。
「すみません。こうなるような気がして……念のため、GPSをつけさせてもらいました」
「GPS……」
 流星は呆けたように繰り返した。レイヴンはおもむろに手を伸ばし、流星のポケットに手を入れる。小さな機械――盗聴器を摘まんでみせた。
「僕はメディアの露出が多いから、変な人間に目をつけられることも、その対応にも慣れているんです」
 そこで言葉を切ると城嶋を見下ろし、だから、とつけ加えた。
「盗撮写真を送りつけたところで、怯んだりしませんよ」
「なんのことだ?」
 しらばっくれる城嶋に、レイヴンはスマホを起動し、例の封筒と、なかに入っている写真を撮った画像を見せたが、彼は動揺を顔にだすような真似はしなかった。レイヴンは肩をすくめ、
「こんなものを送って、逆に訴えられる心配はしなかったんですか?」
「何をいっている。勝手に入って、人を殴っておいて、そっちこそ覚悟はできているんだろうな?」
 レイヴンは薄笑いを浮かべた。
「覚悟するのはそちらですよ。僕は被害者を助けるために、やむをえず踏み入ったんです。ここは暴行現場で、貴方は加害者だ」
「警察を呼ぶからな」
 城嶋は厳しい顔つきでいった。
「どうぞ? 自滅するだけだと思いますが」
「殴られたのはこっちだ! 有名人だからといって、刑が軽くなるなんて思っているんじゃないだろうな?」
 レイヴンは鼻で嗤うと、流星につけていた盗聴器の録音を再生した。たった今、この部屋で起きたことが、音により再現された。叫び声や荒々しい物音が、決して演技ではない、流星の必死の抵抗をまざまざと伝えてきた。
「……もういい、判った。弁護士を呼んでくれ」
「構いませんが、慰謝料のほかに支払いが増えるだけですよ。こっちには、決定的な証拠がある」
 城嶋は黙りこんだ。
「僕は顔がきくんです。たとえば貴方の勤め先の会長に連絡して、貴方の処分を勧告することもできます」
 城嶋は信じなかった。鼻で嗤ってみせる。
「は、俺の勤め先を知っているだと? DSM証券だぞ。二十歳のガキが、どうやって会長に連絡するっていうんだ」
 レイヴンは余裕の笑みを崩さなかった。
「証明してもいいけれど、今日限りで職を失うことになりますよ。いいんですね?」
 凄艶な笑みは、二十歳の青年だと侮れない迫力があり、支配することに慣れた城嶋ですら圧倒された。やってみろ、とはいい返せず、射殺しそうな目でレイヴンを睨めつけるばかりだ。
 重苦しい沈黙のなか、流星は、はらはらしながら二人の様子を見ていた。警察を呼ばれるのは、流星としても勘弁してほしかった。大事にしないでほしいというのが本音で、不安を訴えるように、レイヴンの袖を引っ張った。
 彼はちらりと流星を見ると、再び城嶋に厳しい目を向けた。
「流星さんに感謝するんですね。彼が望まない限り、僕も仰々しく暴きたてるつもりはありません。こちらの要求をのむなら、示談に応じます」
「……なんだ?」
「先ず慰謝料ですが、」
 レイヴンの袖を流星は咄嗟に掴んだ。振り向いた彼の目を見て、必死に首を振る。
「……んー、お金もいらない、と。流星さんがおっしゃるので、僕からはたった一つです。流星さんのストーカー行為を、金輪際やめること」
 城島は苦虫を潰したような顔になった。
「……ストーカーじゃない。第一、これは俺と流星の、二人の問題だ。他人になんの権利があって、そんなことをいわれなければならないんだ」
「え? さっきは自分でもやりすぎたって、いっていましたよね?」
 盗聴器をちらつかせるレイヴンを見て、城嶋は悔しげに黙りこんだ。
「よく考えてください。貴方にまだ良識が残っているなら、流星さんを解放してあげてください。貴方のためにも、そうするべきだ」
 城島はかぶりを振った。
「……二人で話をさせてくれ」
 レイヴンは呆れた眼差しを送った。
「さっきの今で、許可できるわけがないでしょう。妄想と現実は違う。殺されかけても、愛情を示せる人間なんて、この世にはいないんですよ」
「殺すわけないだろう! 愛しているんだぞっ」
「貴方には、暴力的な支配欲がある。流星さんは賢明に貴方を受け入れようとした。踏みにじってきたのは、他でもない貴方だ」
 城島は手で顔を覆い、苦しげに呻いた。
「俺は、こんなつもりじゃ……ただ、流星を引き留めたくて……っ」
 城嶋は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。彼が泣いている姿を見て、流星はショックを受けた。
「っ、すまない、流星……っ」
 立派な体躯をしているのに、項垂れ、身体を震わせて嗚咽をこらえる姿は、痛々しくて、どこか儚げにすら見える。
 流星は唇を噛み締めた。喉の奥から、熱い塊がこみあげてきた。彼が怖かったし、恨みもしたが、泣いている姿を見ると胸に迫るものがあった。
「正嗣……っ」
 それ以上はもはや言葉にならなかった。嗚咽が漏れぬように、戦慄わななく唇を噛み締めた。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう?
 最初は幸せだったのに。いつから、彼の顔色を窺うようになってしまったのだろう? 彼を怒らせないように、そればかりを考えるようになってしまったのだろう?
 打ちひしがれている流星と城嶋の間に立ち、レイヴンだけが冷静に、こう続けた。
「城嶋さん、貴方は心の病気を抱えているんです。余計なお世話かもしれませんが、カウンセリングを受けてください。信用できるクリニックを紹介します」
 城嶋はもう、悪態をつくこともなく、反論を口にすることもなかった。膝の間に頭をうずめ、肩を震わせている。
 一瞬、流星は城嶋の方へ身を寄せたいという同情に駆られた。過去に何度もそうしてきたように。だが今は、目の前にレイヴンの背中がある。自分よりずっと年下の青年の背が、これ以上はないというほど頼もしく見えた。
(ごめん、正嗣。支えてあげられなくて、ごめん……ッ)
 流星は項垂れ、心のなかで、土下座する思いで謝罪を繰り返した。
 城嶋に依存していた。彼の支配は、時に怖く、痛みを伴ったが、孤独を癒しもしてくれた。同棲生活の全てが、地獄だったわけではない。幸せを感じられた時も、確かにあったのだ。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう?
 彼がいけないのか? 流星に問題はなかったのだろうか? こうなる前に、兆候はなかったのか? 一体、何を見落としていたのだろう……?
 涙を流しながら、自問自答に苦しむ流星を背に庇い、レイヴンは冷静に問いかけた。
「もう一度だけ訊きます。示談に応じる気はありますか?」
 城島はしばらく黙っていたが、やがて、諦めたように頷いた。