RAVEN

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 ホテルをでたあと、幽鬼のような足取りで駅に向かおうとする流星を、車で送るといってレイヴンは引きとめた。しかし、駅で降ろしてくれと頼む流星の言葉は聞き流し、如才無く下北沢の邸宅まで連れ帰った。
 流星は複雑な思いで家に入った。二度と戻らぬ覚悟でここをでたのに、その日のうちに戻ってくるとは……
 何もかもがどうでもよく感じられたが、熱いシャワーを浴びると、いくらか気分はマシになった。着替えて、リビングのソファーに背中から沈みこむと、レイヴンが隣に座った。流星は項垂れ、深いため息を吐くと、
「……おかしいって、気づいていたんだ」
 脈絡もなく呟いた。レイヴンは流星の肩を優しく抱き寄せ、慰めるように腕を撫でた。
「貴方は少しも悪くない。彼の異常性に気がついて、自分の身を守ったんです」
 彼が力づけようとしてくれていることは判っていたが、流星は頷くことができなかった。
「彼には痛めつけられたけど、仕返しがしたかったわけじゃないんだ。あの正嗣が、あんな風に項垂れるなんて……」
 流星は片手で目を覆った。弱々しい姿が、瞼の裏に焼きついて剥がれない。
「彼の行動は全て、彼の問題であり、彼の責任です。流星さんが気に病むことではありませんよ」
「……そうは思えない」
「今はそう思えなくても、いつか、必ず過去になる日がきます。僕が保障します。流星さんは、正しい選択をしたんです。自分を守って、彼と決別したんです」
「……どうしても、考えてしまう。どうして、こんなことになってしまったのか」
「自分を責めないで。流星さんは優しくて、誠実な人ですよ」
 レイヴンは囁くと、流星の髪にキスをした。彼は酷く自分を責めている……痛々しいほどに。心の傷が癒えるまでには、長い時間がかかるだろう。その日がくるまで、自分が何度でもいってやるつもりだ。
 レイヴンは、子供の頃から色々な人間を見てきた。自分が人を惑わせる容姿をしているせいなのか、欲望を向けてくる男も女も大勢いた。普通に見えても、とことんイカれている人間がいることを、身をもって知っている。人がどれほど歪み、狂気に駆られるのかという点において、事実は想像を超えるのだ。
 そういった観点から見ても、城嶋は危険な男だ。流星には心を開いているようだったが、殊勝な言動を鵜呑みにしてはいけない。言質と証拠をおさえて、今後も手出しできないように、手綱を握っておく必要がある。当然、流星には二度と会わせてやるつもりはない。
「……まだ、城島が好きですか?」
 流星はのろのろと顔をあげた。レイヴンの顔を見つめて、かぶりを振る。
「そういうんじゃないよ……」
 それ以上いうつもりはなかったが、疑っている様子のレイヴンを見て、吶々とつとつと話し始めた。
「……俺はずっと、俺が彼を捨てたんじゃない、彼が俺を捨てたんだと責めていた……被害者という立場を盾に、どこかで、自分を正当化していたんだ。だけど本当は、二人で破滅の道を歩いていたんだ……彼ばかりが破綻していたわけじゃない。俺も、いけなかったんだ」
 後悔と慙愧ざんきの念に駆り立てられ、不意に鼻の奥がツンとした。目を閉じて眼窩がんかに指を押し当てたが、瞼から涙が滲んだ。こらえることは難しかった。俯いて、嗚咽を噛み殺す。頬を伝う涙が、ぱたぱたと膝に落ちて、スエットのズボンに濃い沁みをつくった。
「流星さんは、正しい道を選んだんです。自分のために、決着をつけたんです」
「ぅ……ぐぅ……っ」
 不格好な嗚咽がこぼれた。レイヴンの暖かな腕にすがりついて、流星は泣き続けた。
 どれだけそうしていたことか。感情が落ち着いてくると、抗いがたい眠気に襲われた。二階にあがって自分の部屋のベッドに潜りこむと、レイヴンももぐりこんできた。背中から抱きしめられ、髪に優しいキスが落ちる。
「目を閉じて、眠って……」
 いわれるがまま、流星は瞼を閉じた。眠りに就くまで、レイヴンは子守歌のように優しい囁きを繰り返してくれた。彼の温もりを感じながら、何も考えずに、やがて深い眠りに就いた。

 目を醒ました時、隣にレイヴンはいなかった。
 思考が晴れるにつれて、昨夜の出来事が鮮明に蘇った。心が、ずしりと重たくなる。
 着替えようにも、服の釦をとめる指に、まるで力が入らない。無力感に苛まれ、胸が苦しくて、もう一度眠ってしまおうか迷っていると、ドアをノックする音が聴こえた。
「どうぞ」
 流星が返事すると、レイヴンはドアを開けて部屋に入ってきた。流星の傍にやってきて、跳ねあがった髪の毛にキスを落とす。
「お早うございます、流星さん」
「……お早う」
「眠れました?」
「うん」
「良かった。珈琲を入れましょうか?」
「……ありがとう」
「どういたしまして。顔を洗ってから、降りてきてくださいね」
 流星は力なく返事をすると、のろのろと身支度を終えて、部屋をでた。
 リビングに降りていくと、テレビがついていた。レイヴンはエプロン姿でキッチンに立ち、フレンチトーストを焼いているところだった。
「ちょうど焼けたところですよ。食べますか?」
 流星の大好物だが、食欲はなかった。返事をせずにいると、レイヴンは火をとめて、きつね色に焼けたフレンチトーストを皿に盛りつけた。
「ほら、座って」
「……悪い、腹が減ってないんだ」
「でも、昨日もあまり食べていないでしょう? 一口だけでも」
 流星は諦めて椅子を引くと、腰をおろした。一口齧ると、小気味いい音と共に、チーズのとろける味が口いっぱいに広がった。
「美味しいよ」
「良かった」
 にっこりするレイヴンから、流星はそっと視線を外した。半分ほど食べて残した。
「珈琲は?」
「……ありがとう。もらう」
 珈琲ののいい香りがあたりに漂う。
 まるで、昨日の出来事などなかったかのように、平穏な光景だ。だが、何もかもが一変してしまった。
 ぼんやり虚空を眺めながら、自分を抜け殻のように感じていると、テーブルに投げだされた流星の手に、レイヴンはそっと自分の手を重ねた。
「……ゆっくり元気になって。いつまでも、ここにいてくれていいですから」
 流星は力なく頷いた。
「ありがとう、レイヴン。君には感謝してもしきれないよ。でも俺は……ここをでていくよ」
「急がなくていいんですよ」
「……しばらく一人になりたいんだ」
 レイヴンはじっと流星を見て、
「僕は、流星さんが好きです」
「……」
「流星さんだって、僕のことが好きでしょう?」
 葡萄酒色の髪はレースにされた陽を浴びて煌き、端正な卵型の顔は、照れているのか、薔薇色に上気している。誘惑を形にしたような姿のレイヴンに魅了され、流星は喉がからからに乾いていく感覚に襲われた。
「違うよ……本当に。とんでもない誤解を与えてしまったみたいで」
 ぎこちなく流星がほほえむと、レイヴンは顔を近づけて、強張った流星の頬に唇を押し当てた。頬をおさえて茫然とする流星を見て、天使のような笑みを浮かべる。
「誤解じゃないと嬉しい。僕は、本当に流星さんが好きだから」
 流星は困惑した。到底言葉にはいい尽せぬ、混沌とした、大きな感情に襲われていた。大きな、大きな喜び。そして、同じだけの痛みが胸を刺した。
 俺も、といいたい。
 だがいえない。返事に迷っているうちに、端正な顔がゆっくりとおりてくる――慌てて顔を背けた。
「やめてくれ」
「どうして?」
「何をしようとしているんだ?」
「キスをしたいだけ」
「おかしいだろ」
「どうして? ……僕は貴方にキスをしたい。どうしても」
 青碧せいへきの瞳に、青い焔がぱっと燃えあがった。空気が希薄になり、流星は自分が薄氷の上を歩いているような気がしてきた。このまま唇が触れたら、足元の氷が割れて、凍てついた苦しみと後悔の泉に溺れてしまいそうだ。
 吐息が触れそうなほど唇が近づいたところで、流星は理性を総動員させて、彼を拒んだ。
「やっぱり駄目だ」
 レイヴンの両肩を掴んで、身体を遠ざけた。不服げに眉を寄せる美貌を仰ぎ見て、
「ちょっと冷静になろう、お互いに、な? 俺も頭を冷やしてくる」
 素早く席を立つと、慌てて部屋をでていこうとした。が、すぐにレイヴンに腕を掴まれた。