HALEGAIA

8章:俺たちの日常 - 7 -

 年明け。
 元旦と二日は新年の挨拶回りや初詣にでかけた遠藤家も、三日目はのんびり家で寛いでいた。
 夕方、部屋でゴロゴロしていた陽一は、母に呼ばれて玄関におりていき、そこに佇む客人を見て驚いた。
「お久しぶりでございます、遠藤様。あるじさまの遣いで参りました、ほむらでございます」
 水干姿の少年、火神唯織の式である。珍しい客に、陽一も母も戸惑った。式とは、正月の挨拶回りをするものなのだろうか?
「陽一、あがって頂いたら?」
 母の気遣いに陽一は頸を振り、ほむらを促して家の外にでた。なんとなく家にあげるのは怖かったのだ。
「お久しぶりです……主さまって、唯織さんが?」
 小声で訊ねる陽一に、はい、とほむらは返事した。その瞬間、激しい胸騒ぎが、陽一を襲った。
「一日の夕方、拘置所で少女誘拐犯が死亡しました。その件でお話がございます」
 ぎょっとした陽一は、慌てて左右を見て、人目がないことを確認する。
「僭越ながら、お車を用意してあります。どうか祭場までおいでくださいませ」
 そういって式は、丁寧にお辞儀をした。
「祭場?」
「厄災を祓うための、祭祀を執り行う処でございます。すでに準備は整っております」
 祭祀と聞いて、新宿にある火神本家でお世話になった御祓いのことが脳裏に浮かんだ。
「お話っていうのは……?」
「遠藤様の懇意にされている、御方様・・・に関わることでございます」
 陽一は固唾を飲んだ。まさか、ミラが疑われているのだろうか? 記憶を改竄かいざんできるのにどうして……
「お早く」
 顔をあげると、少し離れたところに、トヨタの黒いCENTURYが停まっていた。
(とにかく、話を聞いてみないと……)
 陽一が脚を踏みだそうとしたとき、肩に手が触れた。ぎくりとして顔をあげると、ミラがいた。
「用があるのは僕でしょう? 陽一を連れていかないでください」
 ぴりっとした悋気が、ミラの全身から放たれた。途端に、ほむらの輪郭がぼやけた。かろうじて姿を留めているが、陽炎かげろうのように消えてしまいそうだ。
「ミラ?」
 陽一は焦った声でいった。ミラはほむらを見据えたまま、
「案内されてあげますから、早くしなさい」
 尊大な物言いに、陽一の方が狼狽えてしまう。ミラに代わって非礼を詫びると、いいえ、と式は薄いくちびるを開いた。
 式が車の方へ歩きだすのを見て、陽一は母に出かけてくると断ってから、ミラと共に高級車の後座席に乗りこんだ。
 式は消えてしまったが、運転手は人間のようだ。五十路過ぎと思われる寡黙な男性は、何もいわずに車を静かに発進させた。
「……犯人が、死んだって聞いたんだけど……?」
 陽一は、おずおずと訊ねた。菫色の瞳がじっと見つめ返してくる。
 ほんの二、三秒ほど、お互いの表情を注意深く観察していたが、間もなく、そうですか、とミラは淡々と答えた。
(ミラが殺したの?)
 陽一は、よっぽど訊こうか迷ったが、運転手もいる車のなかで、声にだすことはできなかった。結局、かける言葉を迷っているうちに、目的地に着いてしまった。
 てっきり新宿の火神本家へいくものとばかり思っていたが、おりた場所は、荒川近くの東京拘置所内のグラウンドだった。
 明らかに一般人は立ち入り禁止と思うが、異様なことに、立派な祭壇が築かれていた。
 御幣壇には、多数の神々に降臨を願う御幣がずらりと並び、手前の机には数々の供物が調えられている。
 周囲には幾人もの神官や巫女が控え、香が焚かれ、いたるところに霊符が貼られている。
 脚を踏み入れた陽一は、説明し難い感覚に襲われた。
 まるで冥界と現界のあわいに佇んでいる心地がする。
 圧倒されている陽一の前に、稚児姿のふたりの式が顕れた。ほむらあかりと思うが、容姿も衣装も全く同じで、ふたりの区別がつかない。
「「ようこそ、おいでくださいました。こちらへどうぞ」」
 少年は、見事に唱和して答えた。
 祭壇へと案内されると、唯織がいた。烏帽子をつけた陰陽師の装束で、白と濃紫こむらさきかすり御召おめしには、火神の菊の紋が入っている。
「遠藤様、魔王様。明けまして、おめでとうございます」
 相変わらずの透明な微笑を浮かべて、唯織がいった。
 聞き慣れた正月の挨拶が、違う国の言葉のように響いて、陽一はいささか戸惑った。
「お久しぶりです、唯織さん。明けまして、おめでとうございます」
 おめでとう、という雰囲気ではないが、陽一も決まり文句を口にした。
「無粋は承知の上で、三が日にお呼びさせて頂きました。屠蘇とそも振る舞えずに恐縮ですが、急を要する話がございます」
「はい」
 陽一は居住まいを正した。
「先日、お役所に依頼されて、拘置所で死亡した少女誘拐・殺人の容疑者を解析・・したところ、呪殺の気配を読み取りました。恐れながら、御方様の御力ではないかと」
 えっ、と陽一は目を瞠った。自分でも、目に疑心が揺らぐのが判った。
「お役所って……警察ですか?」
「ええ。昔から懇意にしております。常人には不可視の霊障や残留思念の追跡等、火神の力が必要とされる場面は多いものですから」
 唯織の言葉は静かなのに、威がある。陽一のやましい心が、そう思わせるのだろうか?
 かける言葉を迷う陽一に代わって、ミラは、さも不思議そうに訊ねた。
「拘置所で死亡したのでしょう? なら、一般人には手出しできませんよ」
 もっともな言い分ではあるが、ミラが一般人であるはずがない。陽一は、不安そうな目で唯織を見た。
「御方様が一般人でないことは、周知でございます。外道でも忌み恐れる呪殺を為されたとあれば、火神の者として、見逃すことはできません」
 唯織は強い調子でいさめた。
 陽一は気圧されたが、ミラは嗤った。
「僕をどうするつもりですか?」
「御方様は危険すぎます。もし、使役の儀に応じて頂けなければ……魂そのものの消滅、禁忌とされる滅魂祭祀をする以外、方法はございません」
 厳粛な口調で唯織はいった。
 滅魂祭祀の仔細を陽一は知らないが、恐ろしい懲罰であることは予想できた。
「待ってください! ミラは僕を助けてくれたんです。公にしていませんが、妹が犯人に攫われて、それでミラが力を貸してくれたんです」
 ついに陽一は打ち明けたが、唯織は大して驚かなかった。
「確かに、御方様は遠藤様に好意的でいらっしゃいますが、人のことわりから外れた存在。遠藤様の手に負える相手ではございません」
「もし本当にミラが悪いことをしたなら、神様が黙っていないと思います。本当なんです、神様は全部お見遠しなんです」
 比喩でもなんでもない、まごうなき事実なのだが、唯織の顔を見て、陽一は正確に意図が伝わらないことに焦れた。
「私も、性急に事を運ぶのは不本意ですが、いまは時間がありません。昨年の秋頃から、東京を筆頭に各都市の治安が悪化しています。できる限りの対処はして参りましたが、元旦早々にこの事態です。もはや一刻の猶予もありません」
 唯織の表情には、苦渋がにじみでている。
 彼は、火神の頭首として、十二月の暮れから各神社に祭祀祈禱を指示し、病院や会議場など、負の念がたまりやすい所には、自ら謹製した霊府を祀るよう指示していた。加護を祈る幣帛へいはく神祗じんぎに捧げ、大晦日に一門一心に斎戒さいかいして、大規模な道饗祭みちあえのまつりまで行ったのである。
 それでも悪鬼の勢いはやまず、ついには拘置所内で呪殺が起こり、愕然となった次第である。
 あの日、ミラの正体、陽一との奇妙な縁を気にかけつつ、警告に留めて帰したことを、唯織は後悔していた。見るからに上位の鬼神、一時は部を弁えてへりくだったが、事によっては抗わなくてはならない。
 怪訝そうに顔をしかめる陽一の隣で、くっ、とミラは失笑した。
「いまさら神仏に祈ってどうするのです。この星の命運を握っているのは、もはや彼ら・・ではありませんよ。憂うなら、その魂を悪魔に売ってみてはいかがですか? もしかしたら、聴き容れてもらえるかもしれませんよ?」
 うすら笑いを浮かべて悪魔が囁いた。
 唯織の表情がぐっと強張る。眼差しに強い意思をみなぎらせて、悪魔を見つめた。
「もとよりその覚悟です。滅魂を祈れば、この身も無事では済まされないでしょう」
「待ってください、唯織さん!」
 陽一はなんとか止めようと、ふたりの間に躰を割り入れ、両手を広げた。
「おさがりください、遠藤様」
「ミラにその気があれば、とっくに全員・・死んでいます。でもミラは、無差別にそんなことは――」
 ほとばしる訴えを、遠藤様、と唯織は遮った。
「今回ばかりは口約束で引きさがるわけには参りません。呪殺は我らの領分、調伏させて頂きます。ほむら、遠藤様をこちらへ」
 唯織が式に命じると、ほむらは陽一に触れずしてその身を浮がびあがらせ、祭壇の傍の座布団の上まで運んだ。
 宙で狼狽えていた陽一は、着地するとほっと息をついたものの、不気味な雨雲の唸り声にびくっとした。
 ミラの瞳が冷たく光っている。勘気が大気に静電気を呼び、暗雲を呼び寄せたのだ。
「用があるのは僕でしょう? 陽一に構わないでくださいよ」
 菫色の瞳がきらりと輝いた。煉獄れんごくの焔めいた昏い輝きだ。
「ミラ! だめだ」
 陽一は膝立ちになり、叫んだ。
 菫色の瞳に射すくめられる。反駁はんばくを赦さない、怒りと熱情を帯びた眼差し。こんなときなのに、服を脱がされて裸にされた気分になる。
 戸惑いつつ陽一が座り直すと、ミラは、つと視線を唯織に戻した。
「死んで当然の人間が死んだだけでしょう? なぜそんなに騒ぐのですか?」
 ため息交じりの問いに対して、唯織はきりりと背筋を伸ばした。
「誰であれ、人は人のことわりで裁かれるべきです」
 凛とした声は、信念と、少しの独断的ドグマチックな響きがあった。
「そう思うのは、お前だけかもしれませんよ。優柔不断で偽善的な人間が多いから、きっと悪魔が手を貸してくれたんですよ。手間が省けて良かったじゃありませんか」
 人間の愚かさを嘲笑うように、ミラはいった。呪殺行為を仄めかしているが、悪びれるふうもなく平然としている。
「人の命は、怪異に左右されてはなりません」
かたくなですねぇ……いいでしょう、調伏できるものなら、してごらんなさい」
 ミラはどこか嬉しげですらあった。悪魔は好戦的なのだ。