HALEGAIA

8章:俺たちの日常 - 6 -

 眠りたくない……
 瞼がおちるたびに、心臓が烈しく動悸する。
 眠れば悪魔がやってくる。酷い苦痛、おぞましい拷問に苛まれる……
 悪夢を見るたびに、目が醒めていても正気を保てなくなりつつある。閉塞感のせいではない、耳の奥で何かがずっと囁いているのだ。
 もう七日が過ぎた。
 いまは視るものすべてが歪んで見える。壁の染みは日に日に大きくなり、そのうち地獄の入り口に変わるような気がしてならない。
 何も見たくなくて、膝の合間に顔を埋めていても、常に耳の奥で何かがさえずっている。
“……あと三日……あと三日……もうすぐだぞ……ひひひひひ……”
 忌々しい蠅だ。はねの蠕動がちっとも鳴り止まない。視えぬ触手で脳髄をこねくり回されているような気色悪さに、いっそ鼓膜を突き刺したい衝動に駆られる。
 あの日・・・見たこと、死の宣告が迫っていることを何度も話したが、精神異常による妄想としか判断されない。本当のことしか喋っていないのに、誰も信じようとしない。
(ああ……厭だ……眠りたくない……)
 眠りたくないのに、瞼が勝手におりてくる。
 気がつけば、古いアパートにいて、台所にある小さな卓の前に着席していた。
 悪夢の始まりだ。
 ここは、人生で最悪の時を過ごした場所。この奇妙に生々しい空間で、悍ましい晩餐を強要される。
 いつものように、悪魔が顕れた。
 牛頭骨の暗黒の双眸から突きいでる、禍禍しい角。黒いローブに覆われた躰は腹からしたが霧のように形状がない。上半身だけが、宙に浮いているようにも見える。
 悪魔は骨の手を伸ばし、銀のクローシュを取りはずした。
 馳走とばかりに皿にのせたれた、母の生首。
 嫌悪に顔を歪める男を嘲笑うように、さぁお食べ、と悪魔が恭しくお辞儀をする。
(厭だ、もう食いたくない)
 切断された頭蓋から、赤い脳髄がのぞいている。蛆虫のわいたそれに、銀のスプーンをさしいれる――おぞましい感触。
 腐臭、厭でたまらない、五感を切り捨てたい、叫びたい、逃げだしたい!
 心の裡で絶叫しても、手も口も勝手に動く。吐きながら、泣きながら、それでも咀嚼する。皿をすっかり綺麗にするまで、席を立つことは赦されない。
 しかし、悪食を終えたところで解放されない。次の拷問が始まる。
(あぁ……厭だ……厭だ……)
 悪魔の双眸から突きでた角が、しゅるしゅると伸びて、枝分かれし、男の躰を宙に持ちあげた。服を切り裂き、尖った角で尻を犯す。
「ぅぎゃぁ――ッ! 痛い痛い痛いぃッ!!」
 あまりの激痛に、宙ぶらりの恰好でのたうち回る。夢や幻とは思えない、生々しい五感、滴る鮮血の温度までがリアルだ。
 内臓をずたずたにされて、プツン、と意識が途絶えた。遠のく意識の向こうで、悪魔が囁いた。

“あと三日だ……”

 目が醒めると、下半身が冷たかった。失禁したらしい。
「ぅ……」
 弱弱しい歔欷きょきが、胸にこみあげてくる。夢から醒めても、恐怖感をぬぐえない。無力で、惨めで、全てが恐ろしい。
 いっそ死んで楽になりたいが、自由意思で躰を動かすことができない。枷があるわけでもないのに、あやつり人形になったみたいだった。排泄や食事といった日常動作は躰が自動的にこなすが、自分を害する行動は何もできない。
 ただただ時が刻まれていく。一秒ごとに、命の刻限に近づいていく。
「助けて、誰か……厭だ、もう耐えられない……助けて……っ」
 くちは動かせるから、泣いて叫んで、赦しを請うた。
 様子を見にやってきた刑務官は、世も末もなく泣きじゃくる男を、粛然とした顔で見ていた。今更遅い、憐みと侮蔑が目に顕れていた。だが男が赦しを請う相手は、刑務官でも犠牲者でも遺族でもなく、自分を拷問し続ける悪魔に対してだった。
「うぅ……厭だ……」
 どうして、こんな目に合わなければならないのだろう?
 どうして、こんなことになってしまったのだろう?
 思い返してみても、酷い人生だったとしか思えない。
 生まれた時から父親はいなかった。母親と二人暮らしで、母親はたまにしか帰ってこなかった。
“いい子にしていてね”
 母のいういい子とは、騒がない、我がままをいわない、逆らわない、ひとりで留守番ができる。そういう子供のことだ。
 今思えば理不尽の極みだが、当時はいい子にしていれば、母親が帰ってくると信じていた。
 古びた六畳間で、体育座りで膝を抱えて、見るともなしに蛇口を眺めていた。汚らしい錆び色をした水が、蛇口からぽたり、ぽたりとしたたり落ちていた。
 テレビはなかったし、ゲーム機や遊び道具もなかったから、じっと座って妄想するくらいしか、やることがなかった。
 妄想のなかで自分は、夢の国の王様だった。なんでも手に入り、誰も彼もが親切で、楽しいことに充ちあふれた優しい世界の住人だった。
 小学三年生の冬、とうとう母親は帰ってこなかった。
 食べるものがなくて、砂糖いれのかちかちに固まった砂糖をちょっとずつ舐めていた。
 喉が渇いたら、水道の水を飲んだ。今でも忘れない金属と泥の味。酷い味がしたけれど、それしか飲むものがなかった。
 ある日、児童施設の役人がやってきて、少年を連れていった。
 期限つきの支援ではあったけれど、子供の自分に、温かい食事と寝床を与えてくれた。
 何年か経ってから、母が会いにきた。
 記憶にある通り儚げなひとで、赤ちゃんを抱いていた。小さな女の子は、綺麗な服を着て、母親の愛情を疑いもせず、母の腕のなかで無邪気に笑っていた。
 少年を見た母は、泣き崩れて、弱弱しい声で、ごめんなさいと繰り返していた。
 あのときの感情を、うまく言葉にすることができない。
 喜び、怒り、呆れ、絶望、失望、哀切……その全てがいりまじったような、或いはもっと別の感情だったかもしれない。
 失望したことは確かだ。自分が捨てた息子に、大事そうに娘を抱いて会いにやってくる無神経さ。酷いことをしたと自覚している相手に赦しを求める、その感嘆に値する傲慢さに、心の底から失望した。
 打ち震える小さな背中を見おろしながら、いつか必ず、この冷酷な女に罰を与えようと思った。
 大人になり、念入に計画を立てて、十二歳になる母の娘を殺した。
 死体は風呂場で解体した。初めてのことで不手際も多く、血の筋が十重二十重とえはたえに壁に描かれた。掃除するのに苦労したが、概ねうまくいった。
 死体は、誰も知らない雪山に埋めれば、足跡も匂いも、降り積もる雪が覆い隠してくれた。
 突き抜けるような達成感は数日ほど続いたけれど、その後は、スコンと生き甲斐が失せたように感じられた。
 一年と経たずに、母は自殺した。息子の犯行に、薄々勘づいていたのかもしれない。
 母の死に対して、特別の感慨はなかった。実に明瞭に、因果応報だと思ったくらいだ。
 全てが終わったと思った。
 しばらくなぎは続いたが、時々、嵐に襲われた。
 努力はした。人と関わらないように、なるべくひとりで過ごすようにしていた。それでも、いつの間にか少女を目で追いかけていた。よく笑う、幸せそうな少女を……
 なぜ、心が満たされないのだろう……
 どうしても衝動を抑えられなかった。
 四十四歳の冬、ごく普通の家庭の、十代の少女を誘拐して、躰の一部を切り取ってから殺した。
 遺体は雪山に埋めて、肉体の一部を供物に捧げた。命への敬意、贖罪として。
 殺しのサイクルは短くなっていった。
 三人目は、殆ど葛藤もなかった。慣れたのだ。
 四人目は、隣人の少女を狙った。前から殺したいと思っていた。距離が近すぎることが躊躇われたが、引っ越しをしたことで決心した。
 あの時、思い留まっていれば、こんなことには……
 まさか、悪魔が顕れるとは思わなかったのだ。知っていたら、絶対に手をださなかったのに。
 死の宣告まで、あと三日。
 裁判があったとしても、死刑だろう。死ぬ時が早まっただけだ。むしろ連日の悪夢から解放されるなら、救済ですらある。
 ただ、もし、そうではなかったら……地獄に堕ちたら、どんな風になるのだろう?
 あと二日、あと一日……
 時間は無為に過ぎていき、残り一時間を切ると、空想と現実の境目で、じっと地獄を想像していた。

“地獄へようこそ”

 牛頭骨の悪魔が囁いた。
 次の瞬間、六畳間のアパートにいた。
(畜生! またここかよ!)
 いつものように悪魔の晩餐が始まるのかと怯えたが、何も起こらなかった。それどころか躰の自由が効くではないか。すぐに家からでようとしたが、扉も窓もあかなかった。ものをぶつけても、体当たりをしても、壊せなかった。
 仕方なく畳のうえに座りこみ、窓の外を眺めていた。そのうち、部屋に射しこむ西日が、わずかも変わらないことに気がついた。
 まさか、ここが地獄なのだろうか?
 永遠に凍りついた時のなかで、本物の死を迎えることのないまま、訪れることのない救いを待ち続けることが?
 変わらない西日を見るうちに、疑念は確信に変わった。
「……まさか、ずっと……?」
 立ちあがったとき、躰が縮んでいることに気がついた。無力な六歳の子供の姿に、逆戻りしていた。
 ぞっと背筋が冷えた。夢か現か、顔や腕から冷たい汗が噴きだすのを感じる。
「っ、嘘だろ……おい、地獄にいくんじゃないのかよ! ここからだせ、だせよッ」
 必死に扉を叩いても、びくともしない。叫んでも誰にも届かない。
「だせって! ……厭だぁッ……うぅ……」
 ずるずると、その場にしゃがみこんだ。胎児のように躰を丸めて、泣くことしかできない。もう、起きあがる気力が湧いてこなかった。
 ここは地獄だ。六畳間の監獄。
 終わりがない、終わらない悪夢、無限地獄に閉じこめられたのだ。

 一月一日。十七時三十八分。
 男は死んだ。
 外傷はない。血の一滴も流さず、床に倒れ伏していた。その表情には、見るものをゾッとさせる絶望が顕れていた。