HALEGAIA

8章:俺たちの日常 - 8 -

「方々、始めます」
 唯織は周囲を見やり、宣言した。
 彼が敬虔な立ち居振る舞いで、合掌、神拝しんぱい、拍手すると、奏者も応じた。
 どん、どどん、太鼓を叩き鳴らし、ジャーン、と銅鑼を響かせる。
 高徳の僧は、祭壇に向かって榊で左、右、左と祓い、祭文を唱え始めた。

 太陰化生たいいんかせい水位之精すいいのしょう虛危上應きょきじょうおう龜蛇合形きゅうだごうけい周行六合しゅうぎょうろくごう威攝萬靈いせつまんれい無幽不察むゆうふさつ無願不成むがんふせい劫終劫始ごうしゅうごうし翦伐魔精せんばつましょう救護群品きゅうごぐんぴん家國咸寧かこくかんねい數終末甲すうしゅうまつこう妖氣流行ようきりゅうこう上帝有敕しゃんていうちょく吾固降靈ごここうりょう闡揚正法せんようしょうほう蕩邪辟兵とうじゃへきへい化育黎兆けいいくれいちょう協贊中興きょうさんちゅうこう敢有小鬼がんゆうしょうき欲來現形よくらいげんけい吾目一視ごもくいちし五嶽摧傾ごがくさいけい……

 繰り返されることの葉、がくに神霊の力が満ち満ちていく。
 面紗をつけた巫女が典具帖紙てんぐじょうしを手に神楽を舞い、僧侶たちは太鼓、ささらかねを叩き鳴らしては、銘々めいめい、踊りながら光明真言こうみょうしんごんを唱えている。

 おん 阿謨伽あぼきゃ 尾盧左曩べいろしゃのう 摩訶母捺囉まかぼだら 麼抳まに 鉢納麼はんどま 入嚩攞じんばら 鉢囉韈哆野はらばりたや うん

 全ての災いの消滅をねがう、力ある言葉、真言の響き。誰もが恍惚トランス状態で、異様な熱気を帯びた祭りのようだ。
 背筋を伸ばして座している陽一は、自分がどこにいるのか、判らなくなりそうだった。ミラは平然として見えるが、このように大掛かりな儀式をされては、さしもの彼も無事では済まされないのでは……一抹の不満が胸をよぎった。
 緊張が増すなか、中央の壇に佇む唯織は、相対するミラを真正面から見据えた。
「火神は炎を崇め奉る一族です」
 赤い鬼火が侍るように灯る。ほむらあかりだ。稚児姿の式らは、炎の陣でぐるりとミラをとり囲んだ。
「人間ってかわいいですねぇ、そんなちっちゃな火で、僕を捕縛しようとするなんて」
 ミラは薄く笑ったが、抗おうとはしなかった。余興を愉しむ顔で、唯織を眺めている。
 動かないミラを見て、僧侶たちは手ごたえを掴んだと思った。
 ことの葉、がくを通じて彼らの共鳴はさらに高まっていく。得意の絶頂、忘我の域、恍惚状態のなか、彼我ひがを繋ぐ扉が開いていく。
 唯織はたもとに手をさしいれ、自ら謹製した霊符を放った。凄まじい光が聖紙から放射され、あたり一面、真昼のように輝いた。
 あたかも天が味方したように思えたが、光のなかに、ぽつんと黒点が生じた。それは瞬く間に膨れあがり、黒い渦のように光を飲みこんでしまった。
 一転して、霊場は闇のとばりに覆われた。
 街灯すら消え失せ、真闇まやみに包まれる。空気は冷たく重くなり、かゆのようにどろりと絡みついた。
 まさしく怪異。異様極まりないが、唯織は恐れることなく正面を見据えた。
急急如律令きゅうきゅうにょりつれい
 小さく唱えると、今度は両手で印を結び、その形を次々と変えながら、
りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん
 力ある呪文を唱えた。
 九字法と呼ばれる神仙術の呪文である。護身や悪霊払いの際にも使われるが、その根源は修行入山の際に唱える、異界の門を開くためにある。
 次元上昇――
 彼我ひがが生ずる。その堺に向かって、術者は袖から次々と取りだした霊符を矢継ぎ早にミラに向かって投げつけ始めた。
 唯織の額にも、術者の額にも玉のような汗が浮かんだ。
 一級術者の才覚をもってしても、一瞬たりとて気の抜けない、限界までに集中力と気力を要する、難易度の高い術である。
 ミラの足元に白い紙が積もった。
 しばらくミラは、彼らの攻撃を薄笑いを浮かべて眺めていたが、おもむろに掌にボッ……炎を閃かせた。
 聖エルモの火か、はたまた邪悪な妖火ようかか、紅蓮の焔は意思を宿したかのように、蛇のように身をくねらせ、宙に舞う霊符という霊符を嘗め尽くしていく。
 かくたる炎に唯織は目を瞠った。炎を操るからこそ、炎の威が判る。
「人間が束になって術策をろうしたところで、僕には届きませんよ。軽薄に近づくと、寿命を縮めることになりますよ」
 ミラは憫笑まじりに警句を発した。その声には、悪魔らしい煽情の響きがあった。
「承知の上です。それでも、御力が不当に人間に向けられるようであれば、私も介入せざるをえません。以前申しあげた通りです」
 唯織は戦意を失うことなく、強い口調でいった。勝負はここからだ。
 いま、白煙の揺らぎ。漂う灰塵のなかに、きらきらと霊子が煌めいている。
 霊子。すなわち、世界に多次元的、同時的に存在する超極小の霊的物質である。
 性質上、常人にはまず知覚されない霊子を活用することが、呪術・神仙術の基本姿勢である。火神の高位術者は、霊子を操れる。
 そして術の蘊奥うんおうを極めし者こそ、火神総本家頭首、火神唯織だ。
 唯織は、現次元内外の霊子を知覚する範囲が圧倒的に広範囲に及ぶ。すなわち、より多くの霊子を現次元に働きかけることができる。
 いま彼は、燃やされた霊符の塵埃じんあいを、ミラが呼吸により体内にとりいれたことで、みちが繋がれたことを確信した。
 互いに霊符の塵埃じんあいを吸いこんだことで、繋がりが生じたのだ。この状態で唯織の気を相手へ送りこみ、圧迫すれば、その者の霊気を異次元へと放出することができる!
りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん
 早九字を唱える唯織の声が、徐々に烈しく、大きくなる。術者たちも、頭首の護法を援護するように、四句を一節とする急速調アレグロ風の勇ましい祓魔文句を唱える。

 善霊皆来ぜんれいかいらい悪霊退散あくりょうたいさん
 善霊皆来ぜんれいかいらい悪霊退散あくりょうたいさん
 善霊皆来ぜんれいかいらい悪霊退散あくりょうたいさん

 ドン、と轟音が響き、魔性の身動きを封じる呪的大結界が発動した。
 不自然な火花と霊的物質の眩い洪水が押し寄せ、陣の維持に携わる僧侶たちの頬を、風圧が切り裂いた。
 しかしミラは、一向に涼しい顔をしていた。眉ひとつ動かさず、傲然と唯織を見下している。
 ぞっとする冷たさだ。
 唯織のなかに、かつてない焦燥が芽生える。己は確かに多大な気を流しこみ、ミラの精気が異次元へ放出させていることが判る。それなのに、ミラの威容は変わらない。一体、どれほどの気をその身に宿しているのか?
 高僧たちも、その圧倒的な力量を肌に感じ、額に珠の汗を結んだ。このままでは、こちらの陣営が消耗するばかり……終わりが見えない。
 彼らの心地よい怯えを浴びながら、ミラは微笑した。
「お前たち、多少は真言の響きに力がありますね。人間にしては上等でしょう。なら僕も、少しだけ魔界ヘイルガイアを見せてあげましょうか」
 次の瞬間、紫の眸に狂奔きょうほんする光が瞬いた。

“我は――なり。我は久遠の郷土ヘイルガイアを支配する者にして、魔界ヘイルガイアの意志であり、血である”

 恐ろしくも美しい、彼らがこれまでに聴いたことのない非現実的な、賛美歌のような詠唱。たえなる旋律の音が、頭のなかに直に響いて聴こえる。

魔界ヘイルガイア汚穢おわいよ。我が声に応え、地獄門に集え。手中の三千世界に、その悍ましい姿を見せよ”

 夜の底からどよめきが起こった……
 地の音が烈しく変調し、不気味な鳴動と共に、天に届かんばかりの巨大な扉が宙に顕れた。
 魔族降臨。
 猖獗しょうけつ極める地獄の扉が、目の前で開こうとしている。

“我が未曾有の疫病禍よ、悦べ、歌え、呪え。善霊を喰らい、悪霊を放て。汝らが喰らい尽くす人間を、とくと恐怖させよ”

 恐ろしく凶悪な呪詛返しに人々はおののいた。そびえたつ巨大な門の向こうでは、地獄の物の怪がよだれを垂らしながら喝采を叫んでいる。地の底から響いていくるような嗤い声だ。
 阿鼻叫喚。
 霊場に戦慄がはしった。
 百戦錬磨の術者たちは一様に蒼褪め、戦々恐々、地べたに尻もちをついた。派手に転んで血を流す者もいたが、ろくに動けずにいる。圧倒的な威に身が竦んでしまったのだ。
 唯織ですら、印を結ぶことができず、地面に躰がのめりこんでいく錯覚に囚われていた。
 ミラは、ほんの少し、魔界ヘイルガイアの威容を見せたに過ぎなかった。人間のちっぽけな反抗が愉しくて、ちょっとおどかしてやろうと思ったのだ。本気で地獄を呼びこむつもりはなかった。
 けれども、宙を流れてきた一雫ひとしずくの人間の血が、本当に偶々、不運にも“天使の輪”に触れてしまった。
 ピシッ……不吉な音と共に黄金に亀裂が走り、砕け散った瞬間、ミラの本性が解き放たれた。
 頭に雄々しく巻きあがる黒い角を戴き、背には黒い双翼が拡がる。その姿は美しくも禍々しい悪魔そのものだ。
「これは、なんと……御方様……」
 唯織は唖然茫然、掠れた声で呟いた。
 術者のなかには、あまりの恐ろしさに失神する者すらいた。唯織は気丈にも刀印とういんを切ろうとしたが、くちびるが震えて声を発することができない。
 ――格が違う。
 あれは、至高にして至純たる原始の鬼。人類史、地球史の淵源えんげんを知る者。恐るべき宇宙の循環に携わる破壊者に違いない。
 誰もが、この世の終わりを悟った。
 彼我ひがの勢力は一目瞭然で、人間の敵う相手ではなかった。
 まがつ上位次元の存在を前にしては、なすすべもなく、地面に這いつくばるしかない。ある者は失意に慟哭し、あるものは静かに諦念し、ある者はどうにか逃げようと試みた。
 混沌のさなか――
 陽一は、躰のなかから恐怖がせりあがるのを覚えながら、けれども逃げようとは思わなかった。たとえ魔王の本性を露わにしていたとしても、ミラが陽一に危害を加えるとは、この段になっても、どうしても思えなかったのだ。
 喉を圧迫されて苦しい……が、よろよろと覚束ない足取りで、ミラに近づこうとする。
 その姿にいち早く気づいた唯織は、叫ぼうとした。危ない、声にだしたつもりが、声にならなかった。彼が無慙に殺されてしまうと危惧したが、そうはならなかった。
「うっ……」
 陽一が小さく苦痛の声をあげると、ミラは弾かれたように振り向いた。
 次の瞬間、人間にはありえない素早い動きで、陽一の前に膝をついて屈みこんだ。黒い翼を動かして、陽一を包みこもうとする。
「ミラ、落ち着いて……」
 陽一は真っすぐにミラを見つめた。手を伸ばして、白磁めいた頬を包みこんだ。
「……でも、腕輪がないと、衝動が……」
 ミラは、困ったように答えた。双翼で陽一を守るように包みこんだのは、或いは、自らの視界を遮りたかったのかもしれない。本性が解き放たれて、目に映るすべてを破壊したくなるから――陽一以外は。
「大丈夫だから、俺を見て。大丈夫、落ち着いて」
 恐れのない、黒真珠のような瞳を見つめて、ミラは甘い敗北心もいうべき不思議な感情をかきたてられた。
 地獄の門を開くことはたやすく、世界を一瞬で塵にすることもできる。いかようにも振るえる力を抑えこみ、陽一を抱きしめた。そうすると抑えがきかないほど荒れ狂っていた心が静まり、ゆとりが戻ってくるのを感じる。
 開きかけていた地獄の門はゆっくり閉じていき、火の粉がぱっと散るように、人々の前からその威容を消した。
 街灯の明かりが元に戻り、平穏な静寂が戻ってくる。
 大人しくなった悪魔を抱きしめ返しながら、陽一は確信した。
(やっぱり、怖くない)
 頭に頬を擦りつける姿は、危険極まりない猛獣に甘えられている錯覚すら引き起こす。けぶるようなまつ毛がもちあがり、紫の双眸が陽一をじっと見つめた。彼が、触れられたそうにしている気がして、恐る恐る角に触れてみる。ミラは、嬉しそうに目を細めて、柔らかな吐息をこぼした。
「陽一……」
 ミラは双翼をゆっくり折り畳み、己を律するように瞬きをすると、視線を和らげた。
「ありがとう、落ち着きました」
「こっちこそ、ありがとう。止まってくれて」
 陽一がほほえむと、ミラも困ったように笑った。
「陽一が大事にしているものは、壊せそうにありません」
 艶やかな微笑を浮かべて囁くと、壊れ物に触れるように、陽一の額にそっとくちびるを押し当てた。
 様子を窺っていた唯織が、陽一の方へ一歩近づいた時、ミラの全身から妖気が溢れでた。再び翼のなかに陽一を閉じこめ、背後を睨みつける。
「ミラ、俺を見て。魔界ヘイルガイアにいこう? 腕輪を直してもらわないと」
 陽一はミラの頬に手をそえて、目をあわせていった。
「……判りました」
 ミラは観念したように天を仰ぎ見ると、悪魔の言葉で低く悪態をついた。次に、人間の言葉で悪態・・をついた。
Jesusジーザス
 次の瞬間、奇跡が起きた。
 曇天が左右に流れていき、重たい雲の合間から、尊い光が射した。優しく清らかな、慈悲の御光みひかりだ。

“はい、なんでしょう?”

 陽一はびっくり仰天した。術者たちも奇跡を目の当たりにし、ひっくり返っている。
 まさか本当に、ミラの悪態に神が反応したのだろうか。しかも意外と気安い口調だ。
 夜空の向こうに、幻想的な天上のそのが覗いている。先ほどまで恐怖に打ち震えていた信徒たちは、陶然とした表情に変わり、合掌しながら随喜ずいきの涙を流した。
 銘々めいめい、己が心に描く御仏みほとけの姿を目の当たりにし、清らかな世界へのいざないを繰り返し唱えている。

 羯諦羯諦ぎゃていぎゃてい 羯諦羯諦ぎゃていぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう……

 さて、そのような敬虔さをミラが持ちあわせているはずもなく、実に罰当たりな不満げな表情で天を仰ぎ見た。
「“天使の輪”がまた壊れましたよ。欠陥品をよこさないでください」
“魔王よ、それは流血に弱いのです”
 神様が反論している。
やわいですねぇ……とにかく、直してください」
“判りました。聖霊を遣わします”
 ミラが頷くと、慈悲の御光みひかりは、夜空に溶けるようにして遠のいた。満天の星と月明かりが戻ってくる。
 残された信徒たちは大変だ。
 すっかりミラに平服し、ありがたや……合掌しながら額を地面に押し当てている。彼は別に、天の遣いというわけではないのだが……
 とりあえず、危機は脱したようだ。
 どうにか場が平定したのを見て、陽一は肩から力を抜いた。緊張していた心臓が、ずっと楽にち始める。今回ばかりは、本当に危ないところだった……