HALEGAIA

5章:魔王サタン万歳! - 8 -

 日曜日の午後。
 陽一は約束した通り、ミラの家に遊びにいくことにした。といっても隣の家にいくだけなので、財布と携帯だけポケットにいれて外にでた。
 ミラの家は、真鍮の表札こそ真新しいが、外観は以前と変わらない。なかはリフォームしたのだろうか? 想像しながらインターホンを鳴らすと、まもなく玄関の扉が開いて、ミラの顔がのぞいた。
「いらっしゃい、陽一」
 白皙はくせきの顔が嬉しげな微笑に輝く。興奮を抑えかねているような、無邪気で輝かしい笑顔だった。
 思いがけず陽一の胸は高鳴った。ミラの私服姿を初めて見た。色のめたリーヴァイスのジーンズをはき、七分袖の白シャツというカジュアルな格好が、素晴らしくきまっている。折り返した袖からのぞく白い腕がまぶしい。
「おじゃましまーす……」
 陽一が入ると、扉は後ろでしまり、施錠音が聴こえた。日本文化風にミラは室内履きだ。陽一も足元にそろえておかれたスリッパに脚をすべらせた。フローリングの廊下を歩きながら、まじまじとミラを見つめてしまう。
「ミラの私服って新鮮だわ。白い服も着るんだね」
 魔界ヘイルガイアでは黒や濃い臙脂えんじといった、暗い色の式服を好んで着ていた。何を着ても似合うが、陽一に馴染みのあるファッションだと、本当にモデルみたいというか、爆イケの美男子だ。
「陽一にあわせてみました。陽一の私服も良いですね。よく似合っていますよ」
 非の打ちどころのない美貌に笑みかけられ、陽一は照れ笑いを浮かべた。
「ありがと」
 今日の陽一は、フォントロゴの入った青い大判のパーカーに、濃い色のジーンズをあわせている。友人の家に遊びにいくのにちょうどいい恰好のつもりでいたが、ミラが廊下のつきあたりの扉を開いた瞬間、
「うわ――……」
 くちをぽかんとあけ、唖然とした表情で広々とした豪華な空間をゆっくり眺めまわした。
 煌めくバカラ・クリスタルのシャンデリア、磨きあげられた大理石の床にゴブラン織の重厚な絨毯が敷かれ、樫やラタンの贅沢な家具が並び、漆喰を塗った日干し煉瓦の壁は、一面が格子窓になっている。
 窓辺にアンティークの装飾用植木鉢ジャルデニエールが配置されていて、開け放たれた両扉の向こうは、バルコニーに通じているようだ。
「……え? 海!?」
 近づくと、美しい青の眺望を拝むことができた。
 目の覚めるような海碧コバルトブルーの海がどこまでも広がっていて、輝く太陽が水平線を照らしている。眼下には白い砂浜と、うちよせる波がきらめいて見える。
「どうなってるの? なんで海が見えるの?」
 リフォームしたとか、そういうレベルではない。どう見ても東京都江戸川区の光景ではない。
 開け放たれた窓からさわやかな海風が流れこんできて、檸檬と新鮮な海藻の匂いがして、どこからかツィゴイネルワイゼンの甘く華麗な旋律が聴こえてくる。一気に閑雅かんがなリゾート気分になった。
「陽一の隣の家と、アドリア海にあるこの家の空間を繋げてあるのです」
 不意打ちで、ぎゅっと後ろから抱きしめられ、陽一の心臓は撥ねあがった。
「アドリア海? ってヨーロッパ?」
 陽一は、内心ドキマギしながら、平常心を装ってミラを振り向いた。
「イタリア半島とバルカン半島に挟まれた地中海ですよ。ここはクロアチア領にある小島のひとつで、僕の私有地です」
「私有地!?」
「はい、なかなか良い景観でしたので島ごと手に入れました」
 陽一は目を白黒させた。
「島って手の入るものなの!? どこの富豪だよっ……て、ミラだもんな……」
「ようこそいらっしゃいました」
 突然の男性の声に、驚いて振り向くと、ぴんと背筋を伸ばした初老の紳士がいた。燕尾服姿で、綺麗な銀髪をオールバックに撫でつけ、片眼鏡モノクルをかけた顔に、古風な微笑アルカイック・スマイルを浮かべている。
 英国貴族に仕える執事バトラーといった佇まいだが、浮世離れしているというか、瞳は金色で、頭部に二本の角が突きでている。
「こんにちは! 初めまして、ミラの友人の遠藤陽一といいます」
 陽一は緊張しながら、深々とお辞儀をした。
「初めまして、陽一様。私は魔王様の筆頭執事、ベルフェールと申します。陽一様には、魔王様と変わらぬ忠誠をもって尽くすよう仰せつかっております。何なりとお申しつけください」
「いえ、そんな……」
 しどろもどろになる陽一に、ベルフェールは微笑を浮かべたまま続けた。
「のちほどディナーを御用意させて頂きますので、それまでごゆっくりとお過ごしください」
「ありがとうございます」
 しゃっちょこばって会釈する陽一に、悪魔執事は完璧に礼節にのっとった辞儀で応え、颯爽とリビングを去っていった。
「すげー、本物の執事さんだ……俺、こんな格好で大丈夫だった?」
 不安になってミラに訊ねると、彼は安心させるように陽一の肩を抱きよせた。
「大丈夫ですよ。よく似合っています」
「……ありがと。もしかして、ミラがSNSにあげていた動画って、ここで撮影したの?」
「はい」
「なるほど~、海外リゾートみたいだとは思ったけど、本当にそうだったのね……」
「良かったら案内しましょうか?」
 肩を抱き寄せたまま、ミラが訊ねた。
「うん、見たい!」
 思わず陽一ははしゃいだ声をあげた。
 白い花崗岩造りの邸宅は、まさしく豪邸だった。
 プライベートビーチに通じている中庭は、目にも彩な花壇があり、噴水があり、孔雀までいた。地下にワインセラー、屋上にはプール。アドリア海を一望できるホテルみたいな客室が六部屋もあり、主寝室にはジャグジーつきバスタブに、天蓋つきキングベッドが置かれている。
 陽一は、白を基調とした寝室の天蓋つきの寝台を見て、なんとなく腰かけてみた。
「すごいね……お城みたい」
 くちにした瞬間、ふと魔王城パンデモニウムのことが思いだされた。
 心臓が厭な軋みかたをしたとき、隣にミラが腰かけた。寝台が沈みこむのを感じると同時に、腰を引き寄せられる。流れるような動作で顎に手が添えられ、菫色の瞳と遭う。咄嗟にミラのくちびるを手で覆うと、貪るように見つめてきた。
「好き」
 真摯な囁きに、陽一の心臓はどっと音を立てた。金縛りにかかったみたいに、動けなくなる。
「……好き」
 掠れた声でもう一度囁いたミラは、陽一のくちに、かすかに開いたくちびるを押しつけた。
 陽一は唖然となり、次の瞬間、ミラから離れようと腕を突っ張るがびくともしない。彼の素肌からたちのぼる、濃密な、熱帯のような、柑橘にも似たどうしようもなく甘い匂い。脳髄まで響く匂いに、くらくらと世界が瞬いた。
「……んっ」
 ふたたび唇が重なった瞬間、心臓が雷鳴のように轟いた。まるで、媚薬を飲んでいるような気分だ。晴れた日の青い海で泳いだあとの、快い気だるさ、うっとりするようなまどろみに似ている。
 酩酊したようにふわふわしていたが、下唇に牙が触れた瞬間、思考が冷えた。吸血されたら一巻の終わりだ。正体不明になるまで貪り貪られてしまう。
「ン、待って」
 逃げようと腕をつかってもがくが、ミラは許さなかった。少しでも遠ざかろうと肩を押しのけようとしても、顎を掴まれて、決して強引にではなく、優しく、しかし決して逆らえない風に顔を正面にねじ向けられていく。
「待ちません。ずっとこうしたかった。陽一は僕を待たせすぎです」
 その声には切迫した響きがあった。いつもの小癪な微笑は影をひそめ、菫色の瞳に深い憂いがたゆたっているように感じられる。
 陽一は言葉につまった。どうしていいか判らずに視線を揺らすと、耳朶にくちびるが触れた。
「陽一が好き……ねぇ、いいでしょう?」
 温かい吐息が耳元にかかり、ぞくっとした官能が陽一を襲う。嬌声を堪えるように、震えるくちびるを噛み締めた。
「そんなに強く噛んだら、血がでますよ」
 白い指がくちびるをなぞる。陽一は、観念したような顔でミラを見つめて、喘ぐように答えた。
「……俺も、好きだよ……でも、もうちょっとだけ、待ってほしいっていうか……ゆっくりでお願い」
 いまでもふとした瞬間に、楽園コペリオンでの淫蕩な日々が湧水ゆうすいのように記憶の底から蘇ってくる。そのたびに、焦燥、怒り、気恥ずかしさ、恋しさ。その全てが入り混じった、説明のできない感情が全身を駆け巡る。
 あのときと違って今は、恋心を自覚している。ミラに触れられるだけで心臓が高鳴る。けれども、あのどうしようもない嵐のような情動にふたたび翻弄されてしまうのは、少し怖かった。
 ミラは、陽一の言葉を吟味するように黙っていたが、やがて結論がでたのか、陽一の額を優しく指先で撫でて、そっとくちびるを押し当てた。
「ゆっくりって、このくらい?」
 その触れかたも、視線も、優しくて甘くて、陽一は顔から湯気がでそうになった。
「……恥ずか死ぬ……っ」
 赤面を両手に沈める陽一を、ミラは熱心に見つめて、
「恥ずかしいと死んじゃうんですか? かわいいなぁ、もう」
 興奮した様子で、ぎゅっと抱きしめた。腕のなかで陽一が羞恥に耐えていると、ミラは幸せそうに吐息をこぼした。
「は――……僕に我慢をさせるなんて、陽一は悪魔より悪魔ですね」
 ミラの纏う蠱惑的な雰囲気が和らいだのを感じて、陽一はふっと躰から力を抜いた。どうやら見逃してくれたらしい。起きあがろうとすると、今度はそうさせてくれた。
「海を見にいきたい」
 空気を変えたくて明るい声をだすと、ミラは仕方ないなぁという顔で頷いた。甘やかされていると感じられて、胸の奥がまた熱くなる。
 落ち着かない気分でいたが、プライベートビーチにおりた途端に、完全に遊ぶモードに切り替わった。
「水平線だぁー!」
 空と海の融けそうな境界線に、テンションは爆あがりである。
 ほかに人影もなく、裸足になって浜辺を波打ち際まで歩いてみると、硝子のように透きとおった水が、星砂のうえにひたひたと寄せており、無数の貝殻がきらめいているのが判った。
「貝殻拾ってもいい?」
 ミラが頷くのを見て、白い貝殻をふたつ、淡いベージュのアクキガイ、繊細な棘のアクキガイを拾って掌に乗せてみる。
「すごい、どこも欠けていない完璧な形の貝殻だ」
「貝殻が欲しいの?」
 ミラは陽一の肩越しに、掌を覗きこんだ。
「珍しくて……せっかくだし、部屋に飾っておこうかな」
「お好きにどうぞ」
 ミラは指を鳴らした。金箔を散らしたような魔法のきらめきがあり、宙に透明なケースが顕れ、陽一の手のなかにある貝殻が自動的におさまった。どこからか顕れた赤いレース紐が、ケースをくるみ、頂上でリボンを結んだ。
「ありがとう」
 陽一はリボンで包装されたケースを受け取り、笑顔になった。綺麗にラッピングされると、まるで売り物みたいだ。
「どういたしまして」
 横に並んだミラが、さりげなく陽一の手を握る。ドキッとしたが、陽一は手を振りほどかなかった。学校と違って、人目を気にする必要はないのだ。
 並んで散歩しながら、陽を照り返す海に飛びこみたい欲求に駆られた。
「いいなー、こんなに贅沢なプライベートビーチがあるなんて! 泳ぎたい放題じゃん。夏になったら、泳ぎにきていい?」
「もちろん、いいですよ」
「やった」
 ふたりして笑顔で頷きあい、沈黙して渚を見つめて歩いていく。会話は途切れても、海鳥の声、渚があたりに満ちて、心地よく感じられた。
 こんな風景があるなんて。
 美しい光景を瞳に焼きつけながら歩くうちに、喉が渇いてきて、名残惜しく思いながらも散歩を切りあげた。
 別荘に戻ったあと陽一とミラは、まさしく友達のような気安さでソファーに並んで座り、コカコーラ片手にポップコーンを食べながら六十インチのモニターで映画を見た。陽一好みの勧善懲悪、胸のスカッとするマーベル作品だ。
 エンドロールが流れる頃、一陣の風が硝子戸を揺らし、海鳥が一声鳴いた。空は黄昏て、高潮のひそやかにささやくような音が響いてくる。
「そろそろ陽が沈むね」
 そういって陽一は立ちあがると、バルコニーの方に歩いていった。ミラもついてきて、しばしふたりで夕陽を鑑賞することにした。
 はるかにのぞむ水平線の眺め、島々のたたずまいは、ハッと息を飲むほど素晴らしかった。
 残照の静寂しじま
 光線の具合が変わるにつれて、華やかな色合いに変化が生じ、入江は初め緋桃ひとうに、ついでせた紺、濃紫こむらさきへと変わった。
 海は、空の色を映す巨大な鏡のようだったが、陽がついに沈んだときは、墨を流したような濃い藍色に、黄色い温かな入江の灯、漁船の漁火いさりびが星をちりばめたように輝いていた。
 うっとりするほど美しい、ロマンティックな光景だ。デートにはうってつけだろう。
(いや、デートって! 違う、遊びにきただけだし……)
 自分の考えに狼狽える陽一を、ミラはキャンドルの灯されたテーブルに案内した。心得たように悪魔執事のベルフェールがトローリーを引いて顕れ、湯気の立つ料理を並べていく。
 はじめこそ格調高いディナーの雰囲気に気圧されていた陽一だが、ミラと他愛もないお喋りをするうちに、リラックスすることができた。
 料理はどれも美味しく、とくに新鮮な魚介のカルパッチョ、チーズと鶏肉の入ったパエリアは最高だった。最後にきょうされた硬めのプリンも陽一好みで、大変美味だった。
 すっかり満足して席を立つと、陽一はミラに案内されてリビングの扉をくぐり抜けた。すると世界が一変して、狭い廊下とこじんまりとした玄関を見た途端に、思わず笑ってしまった。
「ははっ、すげー! リアルどこでもドアじゃん。なんか日本に帰ってきたって感じする」
「いつでも遊びにきてください」
 ミラの顔が優しい。
「うん。今日は色々とありがとう。楽しかった! ご飯も美味しかった」
 陽一も笑顔でいうと、ミラは陽一の手をとって、にこっとほほえんだ。
「こちらこそ今日はきてくれて、ありがとう。陽一の家族の食卓に招かれたのが嬉しかったので、僕もお返ししたかったんです。だけど僕の方が喜んでいるかもしれない」
 はにかむミラに、胸がキュンとなる。時々この悪魔が、一途でかわいらしく見えるから困る。
「それじゃぁ、また」
 玄関のドアを開けようとする陽一の肩を掴み、ミラは素早く額にキスをおとした。
「お休みなさい、陽一。また明日」
「……お休み」
 ドアをしめて、すぐ隣の自分の家に向かいながら、なんだか雲のうえを歩いているような、ふわふわした心地でいた。
 そんなつもりはなかったのだが、今日はやっぱり、いわゆる“お家デート”だったんじゃないかという気がしてきた。
 海を見て、ベッドでじゃれあったりして、映画を見て、ご飯を食べて、お休みのキスをして……友達にそんなことはしない。
 ミラが好きだ。
 つきあうという言葉こそくちにしていないが、好きだと告られ、自分も告った。お互いをソウルメイトだと認めてもいる。
(……両想いってことだよな?)
 そう思った瞬間、鼓動が高鳴り、自宅のドアを開けようとした手が止まった。
 全身をめぐる血潮に押されるようにして振り向くと、見慣れた生垣の奥に、ミラの家の屋根が覗いていた。そのうえに、月がぽっかり浮かんでいる。
 月明りの眩さ、暖かさが、ふたりの新しい関係を祝福してくれているように感じられた。