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5章:魔王サタン万歳! - 7 -

 土曜日。放課後。
 実力テストの感触はまぁまぁだった。理数は平均点より取れそうだが、他はダメかもしれない。ともかく終わったので、気は楽になった。テストから解放されたクラスメイトも笑顔で、あちこちで固まってお喋りしている。
 十一月の第一土曜日である今日は“東京都教育の日”で、教育に関わる行事の一環として体育館で学校説明会が催されている。そのため運動部のいくつかは休みだが、陸上部は通常運転だ。テストも終わったことだし、思いきり走りたい気分だが、あいにくの天気である。
 そぼ降る小糠こぬか雨。大して降っていないように見えても、傘を差さずに歩けば、濃密な狭霧のように微細な雨が躰にまとわりつき、たちまちずぶ濡れになるだろう。
 窓から空を仰ぎ見ていると、誰かが背中に張りついて、頭のうえに顎を乗せてきた。
「何を見ているの?」
 ミラが訊ねた。何度注意しても、陽一限定で密着してくる困った悪魔だ。
「走りたいなーと思って……」
 陽一はくるりと振り向いたが、思ったより距離が近くて、慌てて視線を伏せた。
「雨の日くらい休みませんか? 今日は金曜日ですよ。パーリィナイトでしょう?」
「いや、部活さぼれねーし」
 年内の陸上大会はもう終了しているが、十二月に上位リザルト者向けの合同練習がある。陽一も招待されており、他校の生徒も集まるので、実質大会と変わらない。まだまだ気を抜けないのだ。
 顔に影が射したと思ったら、ミラが覆いかぶさるようにして、額にちゅっとキスをした。陽一が声をあげる前に、
「うわ」「おおっ」「きゃっ」
 などと目撃したクラスメイトが頓狂な声をあげる。
「何すんだよ!」
 我に返った陽一は、優雅な微笑を浮かべているミラを押しのけた。迷惑千万、この自分本位エゴイスティックな魔王には、視線の中心にいるという自重が微塵もないから困る。
「頑張る陽一がかわいくて」
 ミラは優しい声でいった。
 陽一は言葉に詰まり、赤い顔を俯けると、そそくさと教室を退散した。ミラが颯爽とした足取りで後ろを追いかけてくる。
 運動部の部室棟に向かう途中、屋根のある外廊下で不良がたむろしていた。やってくるミラに気がつくと、全員ぱっと立ちあがり、
「「魔王サッ! しゃッしゃしゃしゃ――ッス!!!」」
 腰を落として両手を腿に置き、勢いよく頭をさげた。
 なんぞ!? と思わず陽一は後ずさるが、隣にいるミラは全く動じずに彼らのつむじを見おろしていた。
 そろりと顔をあげた金髪頭は、瞳をキラキラさせながら、
「この間は、チケット購入あざッス! 俺らの先パイ、マジ感激しちゃって、魔王サンに会いたいっていってるんスけど、今度GGGっつーライブハウスにきてくんないッスか?」
「えー、興味ないなぁ」
 ミラは至極どうでもよさそうに答えた。安定の塩対応である。
「や、そういわずに。先パイ、マジすごい人だから、魔王サンも会って損はないッスよ」
「僕に用があるなら、そちらが会いにくればいいでしょう?」
 ミラが迫力のある冷笑を浮かべると、不良たちはくちごもった。かすかな反感、それを凌駕する恐怖と困惑に襲われて、視線を揺らしている。
 生徒から恐れられている彼らも、星間宇宙の支配者、全人類を支配するミラの前では無力だった。
「……うッス」
 不良たちは仕方なさそうに呟くと、すごすごと退場していった。
「……なんかヤバい人たちに目をつけられちゃった?」
 声のボリュームを落として陽一が訊ねると、ミラはふわっと笑った。
「ヤバいって?」
「……まぁ、ミラの方がヤバいか」
「トラブルは大歓迎ですよ。ぜひ武装して学校に押しかけてほしいですね。そういう人間をパリピと呼ぶのでしょう?」
「呼ばないと思う。お前、あんま変な言葉ばっか覚えるなよ」
 雑談しながら部室棟にいくと、異変が起きていた。ぴかぴかの新築に生まれ変わっているではないか!
 ほんの数日前まで、雨漏りのするトタン屋根にプレハブ造りだったのに、クールなコンクリ建築に変身している。しかも、明らかに以前よりも容積が増している。場所を間違えたのかと思ったが、壁に取りつけられた真新しい硝子製の名札には“陸上部”と刻印されていた。
「えっ、どういうこと?」
 唖然呆然、扉前で立ち尽くす陽一の肩に、ミラは腕を回した。
「リフォーム&増築しました♡」
「どうやって??」
 背中を手で押されて、なかへ入ると、真新しいクリーンな白い室内が冷光灯に照り映えていた。
 十分な広さがあり、ぴかぴかの白い床にロッカー、最先端のエアコンに洗濯機、シャワーブース、冷蔵庫、テレビまで完備されている。
「冷蔵庫あるじゃん!!」
 思わず陽一は、はしゃいだ声をあげた。
「気に入った?」
「うん! 冷蔵庫欲しかったんだよ~!」
 部員は全員そう思っていたはずだ。これだけの大きさがあれば色々と冷やせそうだ。冷凍庫に氷製造機もある。アイスも冷やせるし、冷凍タオルを作ることもできる。来年の夏が今から楽しみだ。
 ひとしきり冷蔵庫に感動したあと、陽一はあらためて室内を見渡した。新品のロッカーには各自の名札があり、着替え用の仕切りカーテンまである。
(……ロッカーの件、根に持つじゃん)
 先日、陽一の着替えに文句を唱えていたから、仕切りをつけたのだろう。それにしたって改装しすぎな気もするが、冷蔵庫があるのは本当にありがたい。
「皆も喜ぶと思うけどさ、どう説明するんだ? テスト期間中に改装したの?」
 陽一はミラを振り向いて訊ねた。
「そうですよ。千人を投入した人海戦術で、一晩で改装を終わらせました」
「千人!?」
「いっておきますが、清く正しい遵法の手続きですからね。陸上部の公式SNSで宣伝する代わりに、部室棟を建て直すよう、校長と都の教育委員会に交渉しました」
 ミラはスマホを操作して、SNSのタイムラインを開いてみせた。
「一〇〇万人????」
 フォロワー数がエグすぎる。
「InstagramとTwitterにアカウント作りました」
「すげぇな、おお……すげー」
 語彙が死んでいるが、すごいとしかいいようがない。一〇〇万人は常人に為せる技ではない。
 SNSにアップされている動画には、海の見える瀟洒しょうしゃなキッチンで、エプロンをつけたミラが蜂蜜檸檬をつくっている様子が映っている。海外映画のワンシーンみたいだが、いったいどこで、誰が撮影したのだろう?
 おびただしい数のイイネとRTがついている。有名人のSNSみたいだ。英語のコメントも多く、早くも世界的に有名になりつつある……驚きながら眺めていると、他の部員もやってきて、生まれ変わった部室に狂喜乱舞した。
「「魔王様、ありがとうございます!」」
 溌剌とした声で唱和。深々と頭をさげる部員を、ミラはまんざらでもなさそうな顔で眺めおろし、
「構いませせんよ。陽一の過ごす場所を居心地よく整えるのは、マネージャーであるこの僕の役目ですから」
 どう考えても学生によるマネージャー業務の範疇を越えているが、魔王に人間の常識が通用するはずもなかった。
 でかした遠藤! などと驚きと冷やかしを帯びた視線が集中し、陽一はそそくさと退散することにした。誰かがSNSの話題をくちにしたのか、ワッと歓声が部室から漏れ聴こえたが、無視して廊下を突き進む。
 浮足だっていた気持ちは、淡々と柔軟ストレッチをこなすうちに落ち着いた。
 今日は室内トレーニングがメインだ。先ずは横になって、腹筋、バタ脚、体幹。次に立った姿勢でバランストレーニングを二種、お尻とハムを鍛える垂直立ち、水平にした躰を支える片足立ち、下半身を鍛えるレッグランジをこなした後、学校ならではの階段ジャンプで一階から三階までを往復した。
 いずれも地味な運動だが、体力のある陽一でもかなりキツく、途中でへばる部員も少なくない。雨の日はサボる奴もいるくらいだ。
 練習を終えて部室棟に向かうと、真新しい建物を見て、疲れが和らぐのを感じた。他の運動部の部員たちも、嬉しそうに歓声をあげている。
 部室に入ると、ジャージ姿のミラがいて、机に人数分のスポーツドリンクが用意されていた。
「お疲れ様です、陽一」
「ありがとう」
 青色のスクイズボトルを手渡され、陽一は何も考えずに受け取った。他の部員は、各々勝手に机に置かれたボトルをとっている。ボトルの側面に“DRINK ME”の文字がプリントされていて、なんだか不思議の国のアリスを連想するが、飲んでも躰が縮むことはなく、疲労が癒されるのを感じた。
「はい、タオル」
 甲斐甲斐しく首にタオルをかけられ、陽一は、周囲から生暖かい目で見られていることに気がついた。
「遠藤が魔王様のソウルメイトって、本当なんだな」
 先輩が感心したようにいった。えっ、と驚く陽一の肩を、ほかの部員も親しげに叩いてくる。
「「応援してるからな!」」
 反応に困って黙りこむ陽一の顔を覗きこみ、ミラは目を細めた。
「人気者ですね、陽一」
「お前がな……やっぱ、ミラがマネージャーって違和感あるわ。選手やる気はないの?」
「僕が走ったら、人類の限界を突破しちゃいますよ」
「確かに」
 会話を聞いていた先輩が、そわそわしながら口を挟んできた。
「魔王様のタイムっていくつ?」
「零です」
 真面目な顔で答えるミラに、先輩は目を丸くしている。意味不明だが、ミラがその気になれば、一〇〇メートルを〇秒で移動できるだろう。彼は人間世界において万能なのだ。
「僕はマネージャーがいいです。陽一が走るのを見ていたいから」
 次の瞬間、周囲から冷やかしの声が陽一に浴びせられた。照れ隠しに陽一は、素早くロッカーから鞄を取りだすと、
「お疲れーッス」
 と、部室を飛びだした。待ってください、とミラが追いかけてくる。
「ふふっ、陽一は走っている姿も、トレーニングしている姿もかわいいですね」
「はぁ?」
 先日からミラは“かわいい”の大安売りだ。陽一限定だが、だいぶ様子がおかしい。実は学校生活に浮かれているのだろうか……表情を確かめようとしたら、ぱちっと目があった。
「さっきも階段をぴょんぴょん飛びはねて、かわいかったです」
「かわいくねぇよ。筋トレしてたんだよ」
 陽一は真顔でいい返した。
「人間って変なことをしますねぇ」
「お前にいわれたくねー」
「でも苦しそうな顔していたじゃないですか。肉体を酷使して、楽しいですか?」
「そりゃ練習はキツいけど、自己タイムが伸びていく過程は楽しいよ」
「ふぅん。陽一も速く走りたい?」
「もちろん。俺は一〇〇メートル専門だけど、一〇秒前半を突破することが目標だし」
「一秒で走れるようにしてあげましょうか?」
「世界記録だって九秒台なんだぞ。一秒とか人間じゃねーよ」
「悠久にる僕からすると、秒を争う世界はあまりにも小さくて、どうして陽一がそこまで心を奪われるのか不思議です。りたい」
 澄み透った菫色の瞳が、陽一を真っすぐに見つめた。
 悪魔なミラからすれば、もっとも至極な疑問かもしれない。時間の感覚がまるで違うのだ。そもそも悪魔は人間に配慮なんてしない。忖度そんたくもせず、一方的に嬲るだけ。 
 それなのにミラは、陽一の日常に干渉し、陽一のことをりたいという。
 だったらきちんと答えたいと思い、陽一は、考えをまとめてからくちを開いた。
「十秒台の〇コンマを突破するには、単に走りこみや肉体酷使をしてもダメで、トレーニングの内容からフォームの見直しまで、勉強と分析も重要なんだ。フィジカルとメンタル、選手としてのセンスが問われる全部をひっくるめて、陸上の面白さだと俺は思う」
 誰しも速さへの渇望を胸に、自分を信じて、何万回とシミュレートして検証しながら、トップランナーに近づいていくのだ。
「だからさ、本気で一〇〇メートル走をやってる人と話すのは楽しいよ。すごくモチベあがる。来月、上位リザルト者の合同練習があるんだけど、良かったらミラもおいでよ。ライバルたくさんくるから、ミラも刺激をもらえるかも」
 陸上に興味を持ってもらえるかもしれない、そんな軽い気持ちで誘ったのだが、ミラの表情が翳った。
「……陽一のライバル?」
「そうだよ。陸上大会の常連ばっかりだよ。中学の頃から競ってる奴もいるよ」
「へぇ……」
 迫力を増した菫色の瞳が、じぃっと見つめてくる。背筋がぞくっとして、陽一は両腕を摩った。
「おい、なんで病んでる空気だしてくるんだよ。怖いからやめろ」
「ライバルって、つまり……陽一の“お気に入り”ってこと?」
「はぁ? 違うよ」
「陽一はその者を同格、もしくはそれ以上の実力を持つ競争相手として認めているということじゃないんですか?」
 じぃぃっと見つめられて、陽一はたじろいだ。
「まぁ、あってるけど……ミラが不機嫌になる理由がわからん」
 困惑気味に訊ねると、ミラはヤレヤレという顔で、
「陽一は僕のソウルメイトなんですよ? 僕の唯一対等な存在なんですよ? なのに陽一はライバルがいっぱいいるの? 不愉快なんですけど」
「なんでだよ! ライバルは複数いてもいいんだよ、俺だってソウルメイトはミラだけだし……っ」
 はっとして、陽一はくちを手で覆った。うっかり、とんでもなく恥ずかしい台詞を口走った気がする。取り繕う間もなくも、ミラは、ぱぁっと笑顔になり、ぎゅっと両腕で陽一を抱きしめた。
「嬉しい! 両想いですね!」
 心臓がどきんと高鳴る。時々ミラは子供みたいに笑う。絶世の美貌にこんなにも無邪気に笑みかけられたら、誰だって冷静ではいられない。
「ちょっと、ミラ……ッ」
 人通りの少ない住宅街の往来とはいえ、外だ。周囲を気にする陽一の頭に、ミラはすりすりと頬擦りしながら、
「判りました。合同練習に僕もついていきます。陽一のライバルを見てやりますよ……ふふふふふ」
 軽やかに笑っているが、少し怖い。陸上に興味をもって欲しかったのだが、まぁ、選手に興味を持つのも悪くない……かもしれない。