HALEGAIA

5章:魔王サタン万歳! - 6 -

 十一月三日。
 ピンポーン、朝の八時に遠藤家のインターホンが鳴った。
「お早う、陽一」
 スウェット姿で玄関に顕れた陽一は、寝ぐせを撫でつけながら、制服姿のミラを見た。今朝も非の打ちどころのない美貌である。
「おはよ……今日、文化の日だよ」
「文化の日?」
「祝日だから学校休み」
 陽一の言葉に、ミラはにこっと笑顔になった。
「では遊びにいきましょう。僕はディズニーランド・パリにいきたい気分です」
「いかねーよ。いけねーし。っていうか、明日は実力テストだぞ」
「テスト?」
 ミラはキョトンとした顔で訊ねた。
「成績には響かないけど、志望校の目安なんかになるテストだよ。定期テストより広範囲で、応用テストみたいな感じ。先生が説明してたじゃん」
「それは聞きましたけど、テストは明日でしょう? 今日勉強するのはなぜですか?」
 うっ、と陽一は怯んだ。容赦のない言葉による正拳パンチだ。
「そりゃ、つけ焼刃かもしれないけど、一応復習しておこうかなって」
「一日復習したところで、大して影響ありませんよ。そんな無駄な努力をするより、今日はどこかへでかけませんか?」
 にっこり笑顔で悪魔が囁く。陽一はイラッとしたが、平静であろうと努めた。
「いや、今日は勉強するよ」
 きっぱり断ったものの、がっかりしているミラの顔を見て、つけ加えた。
「……日曜なら空いてるけど、遊ぶ?」
 ぱっとミラの顔が輝いた。
「ぜひ。僕の家に招待しますよ」
 にこやかな笑みにつられて、陽一も笑顔になる。
「おー、いいね。ミラの部屋、見てみたい」
「今日は僕も一緒に勉強していいですか?」
「いいよ。俺の部屋でいい?」
 ミラは嬉しそうに頷いた。家に招き入れると、エプロン姿の母が洗面所から笑顔をのぞかせた。
「お早う、ミラ君。いらっしゃい」
「お早うございます」
 ミラは礼儀正しくお辞儀をして、靴を脱ぐ。二階にあがると、今度は妹の理沙が自分の部屋から顔をのぞかせた。
「おはよぉ、ミラ様」
「お早う、理沙ちゃん」
 ミラが愛想の良い笑みを浮かべると、ぽっと理沙は頬を染めた。声をかけられただけで嬉しさいっぱいのようだ。
 陽一は、まとわりついてくる妹をあしらいながら、奥にある自分の部屋にミラを案内した。
 六畳の洋室である。淡いグリーンの壁紙、グレーのカーテン、梯子つきのパイプベッド、机と本棚。クローゼットから折り畳み式のテーブルを取りだし、部屋の真ん中に置くと、クッションをふたつ置いた。
「適当に座ってて。顔洗ってくる」
 陽一の言葉に、ミラは頷いた。
 自分の部屋にミラがいるって不思議だ。そう思いながら急いで身支度を終えると、麦茶と、母が作ってくれたおにぎりを木製の盆にのせて部屋に戻った。
「お待たせ、母さんがおにぎり作ってくれた」
「おにぎり?」
 本棚を眺めていたミラは机の前に戻ってきて、クッションのうえに座った。
 陽一は盆を床に置くと、机に筆記用具を並べた。次に本棚から一学期と二学期の定期テストの束を引っ張りだして、机の傍に置いた。実力テストや模試対策として、過去の定期テストは全て保管してあるのだ。それからPCを起動して、youtubeで適当な集中力UP系のBGMを再生すると準備は整った。
「ミラも解いてみる? こっちが二学期の中間テスト。このノートあげるから、好きに使っていいよ」
 過去問と新品のノートを渡すと、ミラは小首を傾げた。おにぎりを貪っていても絵になる美男子だ。
「どうして既に終わった試験問題を解くのですか?」
「実力テストの出題範囲って、定期テストよりずっと広いんだよ。俺の独断と偏見だけど、分厚い過去問を解くより、先生が重要な部分を抽出してくれた定期テストを完璧にしておく方が、点とれると思う。実際、高校受験はそれで偏差値結構あがったし」
 と、経験談を打ち明けると、ミラはピンときていない顔で、
「それなら、明日の実力テストの問題を解けばいいのに。問題と答案を手に入れてあげましょうか?」
「思いっきり不正行為じゃねーか」
 陽一は冷ややかな声でいった。
「では、あらゆる学問の叡智を授けてあげましょうか?」
「何それ、チートっぽい」
「超博士級の知識と人類史上最高のIQがあれば、明日のテストはもちろん、世界最高峰の難関大学にも合格できますよ」
 悪魔の囁きに、一瞬、陽一は目を輝かせた。が、すぐに冷静になった。
「どーせ、対価を支払えっていうんでしょ」
 警戒する陽一を見て、ミラは悪魔の微笑を浮かべた。
「そうですねぇ……僕が満足するまで、魔界ヘイルガイアで蜜月を過ごすのはいかがですか? ふたりで時間を忘れて、淫蕩に耽りたいな」
「結構でーす。地道に努力しまーす」
 さらっと陽一は受け流した。シャーペンの芯をカチカチして調整しつつ、一学期の中間テストの問題用紙をめくる。
「半年なら?」
 ミラが訊ねた。
「結構でーす」
 問題に目を注いだまま、陽一は答えた。
「三ヶ月」
「結構でーす」
「一ヶ月」
 意外に粘るミラの表情が気になり、陽一は顔をあげた。
「いいってば。凡人らしくフツーに、地道に勉強するよ」
 真っすぐ目を見て答えると、菫色の瞳が、ふっとほほえんだ。
「陽一は、ちっともフツーじゃありませんよ。僕の特別です」
「んー」
 照れたりすまいと、ふたたび問題に目を注ぐ陽一の額に、ミラは人差し指を押し当てた。
「謙虚な陽一に、ささやかなプレゼントです」
 指先から、ひんやりと心地よい気の流れが伝わり、陽一は目をパチクリさせた。
「何? なんか頭冴えた気ぃする」
 即効性のカフェイン剤を摂取したみたいだ。思考がくっきりと明瞭になり、神経が冴え渡っている。
「おまじないです。これくらいならいいでしょう?」
「サンキュ」
 陽一は素直に感謝すると、気合を入れて問題にとりかかった。
 数学は割と得意で、今のところ難しいと感じたことがない。数Ⅱ、数Ⅲまで進んだら躓くのかもしれないが、数Ⅰ・数Aは問題ない。方程式と不等式、二次関数や三角比も悩まずに解ける。
 問)下図のsinθ、cosθ、tanθの値をそれぞれ求めよ。
 問)AB=3、AD=2、AE=1である直方体ABCD-EFGHがある。cos∠BEDの値を求めよ。
 ……正弦定理や余弦定理が将来役立つのか疑問だが、中学の頃から図形問題は好きだった。高校数学から公式が増えて苦手になったという友人もいるが、理解してしまえば作業的に解ける。それより時間を要する暗記系の方が苦手だ。
 ミラのおまじないが効いたのか、集中力が持続し、数学と理科は一学期の中間、期末テストまで一周した。次は英語か社会か国語か……どれもやる気が起きない。
「……あー、疲れた」
 手を組んで伸びをした拍子に、ミラの手元が見えた。さっきから真面目にノートに書きこんでいるなと感心していたのだが、よく見たら落書きだった。精巧な陽一の顔のデッサンだ。
「すげー! これ俺だよな? 超うまいな」
 思わず、陽一は身を乗りだしていった。
「ふふ、褒められた。明日のテストでも陽一を描きますね。満点とれるかな?」
「とれるわけねーだろ」
 呆れた口調でミラを見ると、ぱちっと目があった。意味ありげな眼差しに気圧され、ふた呼吸ほどの間を置いてから視線をそらした。
「そろそろお昼だな」
 緊張を紛らわせようと麦茶をくちに含むが、開いたくちびるに熱っぽい視線を感じて、よけいに緊張が増した。
(あれ……)
 さっきまで真面目に勉強していたのに、空気が一変してしまった。
 ミラは、テーブルを迂回して陽一の隣に座り直すと、流れるような動作で腰を抱き寄せた。
「おい……」
 陽一が戸惑ったように身じろぐと、いいでしょう、とミラは子猫が甘えるように陽一の短髪に頬を寄せた。
「少し休憩しませんか?」
 優しい声に、胸がほわっとした。ミラの頬はなめらかで、檸檬のように爽やかな、清潔でいて甘美な匂いがする。
「休憩するのはいいけど、離れなさい」
 軽く胸を押してみるが、ミラはいうことを聞かない。長く繊細な指で陽一の耳に触れると、そこで手をさまよわせた。くすぐったくて、躰がぴくっと反応してしまう。
「かわいい、陽一」
 甘やかな声の響きに、昨日の満腔まんこうの情熱に溢れた告白を思いだして、顔が燃えるように熱くなった。と、頬をてのひらで捉えられた。端正な顔が近づき、くちびるが半開きになる。避けないといけないのに、ぎゅっと目を閉じてしまった。触れあった瞬間、甘い痺れが全身を駆け巡った。
(うわ……っ)
 この展開はまずい。すぐ後ろはベッドだ。隣の部屋に理沙もいる。
「やめろって」
 さっきより力をこめて腕を突きだすと、今度はミラも躰を少し引かせた。
「陽一が足りない」
 端正な美貌に妖しさが混じりはじめた。菫色の瞳は輝き、切望の色が浮かんでいる。吐息が熱気を孕む。背筋にぞくっと震えが走り、素早く離れようとするが、引き締まった躰へ抱き寄せられるだけだった。
「やめろってば」
 顔をそむけると、頬に手を添えられ、目があった途端にくちびるが重ねられた。優しく、だが強い意思をもって舌が差し入れられ、悪魔のような愛撫を舌先にくわえてくる。愛情を伝えるというよりも、情欲に火をつけるという意図がはっきりと感じられる愛撫だった。
「んっ……ふ、ぅ……」
 こんなこといけないのに――頭の片隅に思うが、くちびるを柔らかくまれて、吸われて、心地いい感覚に陶然となる。ミラは陽一の背に腕をすべらせ、うなじから髪のなかに手を差し入れた。
 背筋がぞくっとして、陰茎の芯を、ほんのわずかに脈動が駆けあがっていった。腹筋に力をこめて勃起に抗うが、舌を搦めるほどに、全身がしびれた。甘くてこくのある蜂蜜を舐めているみたい……血管を駆けめぐる烈しい血の流れ、音の波が耳の奥で反響している。
「……陽一……」
 ミラがくちびるをほどくと、強い欲望を抑えきれず、陽一から舌を伸ばした。媚薬のようなミラの吐息、かすかな微笑が、空の高みから聴こえてくるようだった。不思議な興奮が耳を疼かせ、感覚を迷わせる。えもいわれぬ甘い倦怠感で息を奪われ、もっと触れてほしくてたまらない。
 熱を帯びたミラのてのひらが、陽一のTシャツのなかにもぐりこんだ。ちゅ、ちゅ……と首筋をついばみながら、下腹をまさぐられる。鎖骨のくぼみにくちびるを押しあて、吸いあげられた瞬間、性中枢を刺激されて陰茎がはっきり強張るのを覚えた。
 ――どうしよう。
 逡巡する間に、ゆっくりラグのうえに押し倒された。端正な顔が驚くほど近くにある。
 緊張感のみなぎる沈黙は、階段をあがってくる足音によって破られた。その瞬間、ざぁっと全身から血の気が引くのが判った。
「ストップ!」
 陽一はバネのように起きあがると、服の乱れを直して、机の前に座り直した。ミラもめずらしく空気を察して、居住まいをただしている。
「ご飯できたわよー」
 ノックの音と共に、のんびりした母の声が、扉の向こうから聴こえた。
「はーい」
 どうにか平静を装って返事をすると、足音は再び遠のいていった。
「……はぁ――……危なかった」
 色々な意味で危なかった。
 胸に手をあてながら深々と息を吐く陽一の頬を、ミラは机越しに腕を伸ばし、そっと撫でた。上目遣いに覗きこむふうに、
「……えっちしたい」
 心臓がどきんと大きく高鳴る。内心の動揺を押し隠し、陽一はわざと不機嫌な顔をつくってみせた。
「ダメ。俺たち、友達からやり直してるところなんだから。こういうのは、しばらく禁止」
「しばらくって?」
「ノーコメント。ほら、ご飯食べよ」
 扉を開けてミラを振り向くと、ミラは、拗ねたような表情を浮かべつつも、ゆとりのある仕草で立ちあがった。
(――ヤバかった)
 まだ鼓動が早鐘を打っている。危うく身を投じてしまうところだった。
 忘れたくとも忘れられない――楽園コペリオンの淫蕩な記憶。身を焦がす灼熱の官能にきあげられ、突かれて、貫かれる快楽けらく。限界まで圧縮された射精感。脳細胞までが烈しく痙攣するような絶頂。硬直の解けた疼くような感覚。痺れるような虚脱……全部覚えている。熾火を灯されてしまったら、きっと、どろどろしたタールのような情欲に一瞬で吞みこまれてしまう。
 けれども、淫蕩に耽らせていた囚われの身という免罪符は、もう存在しないのだ。名残惜しいような、後ろめたいような形容し難い感情が胸を浸しても、ここはもう陽一の日常だ。陽一の常識が通用する現世に戻ってこれたのだ。
 大変な思いをしてミラと判りあえたからこそ、始まったばかりのふたりの関係を大切にしたかった。