FAの世界

4章:百花繚乱 - 7 -

 遠く、名を呼ばれた気がした。
 ジュラと共に揺籃ようらんの泉に脚を踏み入れた虹は、秘された洞窟の、さらに奥へと進んでいた。
 金剛石アダマントのようにくろずんだ岩壁のいたるところ、奇跡のように鮮やかに青く発光する水晶に飾られ、麗々しい煌めきに包まれている。
 ここへは何度も訪れたはずなのに、このように奥行きがあるとは知らなかった。道は覚えようにも覚え辛く、案内人がいなければ、彷徨ってしまいそうだ。
 空気はひんやりと冷たいが、ジュラが厚手の外套を渡してくれたので、皮膚の表面がしっとり汗に濡れている。
 先導する少年は、先ほどから言葉を発しない。どこか悲愴な空気をかもして、ぴんと伸びた背に、危惧と重い責任感が読み取れるようだった。
 自分より小さな背中を追いかけながら、虹もまた黙っていた。
 本当にこれでいいのだろうか――このまま逃げおおせたとして、穴蔵で長い時を過ごすことになるのだろうか。時計のない時間が流れ、週が、月が過ぎていき、自分は正気を保てるだろうか?
 一歩進むごとに葛藤が深まっていく。自問自答を繰り返しながら想像する未来に漠然と感じるのは、冷酷で凄惨な孤独と、押し寄せる敗北感と無力感。既視感のある警鐘が、頭のなかで鳴り響いている。
 時間がほしい。じっくり考えさせてほしい。いつだって状況が逼迫していて、時間が足りない。優柔不断な虹は、瞬間の判断ができない。

“コウ、どうか同胞を助けてください”

 突然、キャメロンの声が耳の奥で聴こえた。
 考えるよりも先に、幻が視えた。
 難航不落の大水晶環壁かんぺきが突破されている――
 貴金族と水晶族の闘いの犠牲者は心胆を寒からしめるほどの数にのぼり、辺りにはおびただしい黄金の破片にまじって砕け散った水晶が散乱し、いたるところで焔が燃え盛っていた。
 地獄絵に視線を彷徨わせながら、虹は祈った。心臓は切迫し、どくどくとはげしく拍っている。どうか無事でいてくれ――ありったけの想いで祈ったが、倒れているアーシェルを見つけてしまった。
「アーシェル!」
 虹は幻に向かって手を伸ばした。ジュラの驚く声がするが、構っていられない。
「アーシェルが! アーシェルを助けて」
 誰かに救いを求めながら、ただただ傍にいきたい一心で虹は、殆ど無意識にこの世界の次元の層をずらした。
 退却しながら水晶族と刃をまじえていた貴金族は、突然相手を素通りしてしまい、大混乱に陥った。目の前にいる敵に躍りかかっても、幽霊のようにすり抜けてしまい、恐怖に目もくらんだ顔で後ずさるしかない。
 突然の時空次元のひずみに、味方も戸惑ったような素振りを見せた。しかし虹に気がついた同胞は、驚きながらもアーシェルに続く道をあけていく。
「アーシェル!」
 虹は、倒れ伏したアーシェルの傍らに駆け寄り、彼の頭をそっと抱き起こした。
「アーシェル? アーシェル?」
 いらえはない。彼の目にかかったひと房の髪を優しくよけてやりながら、閉じた瞼を凝視した。美しい瞳は閉ざされている。
(――まさか、死んで――)
 あまりにも動揺しているせいで、弱弱しい水晶核の拍動にすぐには気づけなかった。
 己の心臓の大きな鼓動と共に、悲しみが打ち寄せてくる。かつてこれほどの経験があっただろうかというほどの、深い哀しみが。泣くことさえ叶わない強烈な心の痛みに、手が、脚が震えている。傷を負った獣の咆哮にも似た呼気を繰り返しながら、この痛みに終止符が打たれることを切に願い、祈った。
「そんな、厭だ、死なないで、頼むよ……っ」
 悲痛な声で、死なないでと囁く。
 まわりにいる同胞も、世界の終わりのような沈痛な面持ちで項垂れている。
 辺りには重苦しい沈黙、すすり泣く声が満ちた。
 虹は、悲しみに打ちのめされると同時に、悲しみよりもはるかに性質たちが悪い、胸苦しいほどの、突き刺すような感情――罪悪感におかされていた。
 どうにもならぬ絶望的な悔悟かいご。虹を逃がすために、アーシェルは、水晶族は、これほどまでに蹂躙されてしまったのだ。
「アーシェル……っ」
 どうやって償えばいいのだろう? アーシェルなしには生きられない。彼こそが最上の存在。互いに呼びあい、求めあう宿命さだめなのに。彼がいないのなら、虹も生きている意味がない。
 絶望はしかし、アーシェルの指先がぴくりと動くのを見たとき払拭された。ほとばしるような希望の萌芽、彼を死なせたくないという思いが、すべてを圧する強い感情となって虹を支配した。
「アーシェル、返事して、お願いだから目を開けてくれ……っ」
 虹は優しくアーシェルの頬に手をそえて、キスをした。舌を彼のくちびるのあいだに差し入れて、命の灯を注ぐように唾液を注ぎながら、彼の口腔の魅惑的で甘やかな唾液を味わった。
 呻き声が聴こえて、ぱっと顔を離すと、瞼がふるえている――長いまつげがうえにあがり、えもいわれぬ碧い光がこぼれた。
「……虹様」
「アーシェル!!」
 虹は歓喜のあまり、アーシェルの首にかじりついた。
「良かった、気がついて、アーシェル……うぐっ」
 首筋に温かい吐息が触れる。嬉しくて、安心して、涙が溢れて止まらなくなった。
「御無事でしたか……錬金術師を討ちました。敵は退きましたが、殿軍しんがりはまだ近くにいます。ここにいてはいけません。私に構わず、どうか地下道へお戻りください」
 彼の口ぶりは冷静だった。感情的ではなく、状況を正確に伝えようという気持ち、そして虹の身を案じる優しがやどっていた。
 彼の真摯な眼差しが、言葉が、そのような口調が、虹の胸をはげしく揺さぶった。
「愛している、アーシェル、愛しているんだ」
 涙が頬を伝い落ちて、くちびるから言葉がこぼれ落ちた。
 いままでずっと、自分はどうでもいい、二番煎じのような存在だと思っていた。およそ事件らしい事件のない、平凡な人生を愛する一方で、傷つくことを恐れて、心から誰かを愛し、愛されることを諦めてきた。
 けれどもいま、この胸を圧する強い感情は、ひとつしかない。容赦のない力で虹を駆りたてる。
「私もお慕いしております。虹様を、誰よりも愛しております。貴方をお慰めしたいのに、動かぬ身が口惜しい……どうかお逃げください」
 アーシェルも涙のにじんだ目で虹を見つめていた。
 その表情は切実で、死にゆく己よりも残される虹を案じていることが如実に表れていた。疑うべくもない愛と、永劫の約束に充ちていた。
 虹は、ぼろぼろと涙をこぼしながら、アーシェルの頭を両腕でかき抱いた。彼もまた、暖かな掌を虹の背中にまわして抱きしめ返した。
「逃げないよ、アーシェル。傍にいる……っ」
 ひとりでは生きていけない。アーシェルがいなければ生きる意味がない。ほとんど水晶のような鮮烈さで、心に閃いた。
 歪な関係かどうかは問題じゃない。彼のようなひとは、世界の――宇宙のどこを探したって、未来永劫に見つかりやしない。
 彼の気高く澄み切った精神、情熱の焔に全霊を燃やして惜しみなく捧げられる愛、無条件の尊敬、真摯な眼差しに、もうとっくに胸の奥まで射しこまれていたのだ。
「ジュラ、虹様を……」
 アーシェルは掠れた声でジュラに命じようとした。それを遮るように、虹は声を張りあげて叫んだ。
「僕は“千の仔を孕みし水晶子宮ファルル・アルカーン”だ!」
 このとき閃いた直感が、驚天動地の震動が、虹の頭脳の全世界を揺るがせた。
 なんて宿命的なのだろう。目を逸らし続けてきた運命を選びとるべき瞬間、目のまん前に差し迫ってようやく、やっと選びとれた。
「楽園創造をしよう」
 虹は手の甲で涙を押しぬぐい、アーシェルの目を見つめて告げた。
「……よろしいのですか?」
 信じられない、といった口調でアーシェルは訊ねた。
「そのために戻ってきたんだ。やり方は、前にキャメロンさんが視せてくれたから……」
 すると、息を殺して様子をうかがっていたジュラが、おずおずと進みでて、慎重に訊ねた。
「尊き神の御業みわざでございます。我が水晶の君、本当に儀式をなさるのですか?」
「するよ」
 虹は、いささか固い声でがえんじた。
 日本人としての道徳観でいえば、楽園創造は瘋癲ふうてんの極み、大慶の祝宴がままごとに思えるくらい淫らな宗教儀式だ。あまりに荒唐無稽な乱痴気に思えて手足が震えそうになる。
 しかし、水晶族としては涜神とくしん行為にあらず。神聖なる生命創造の秘術だ。

“……ありがとう、コウ……”

 キャメロンの囁きが聴こえた。水晶核が共鳴している……彼の魂を驚くほど傍に感じて、虹は胸に掌を押し当てた。
 彼は亡霊ではなく、この身に受け継がれる魂だ。水晶の国は第二の故郷。自分は、彼らと同じ人種なのだ。いま自分は血縁の人々のもとにいるのだという感覚が、虹の胸を熱くこがしていた。
 今ようやく、水晶核の継承は為された。
 虹とキャメロンの精神感応は同胞にも浸透し、彼らは歓喜に打ち震えた。彼らが千年待ち望んだ王の御煌臨こうりん、甘美な支配に身を任せ、涙を流した。
「ああ、虹様」
 アーシェルも感極まったように呟いた。長いまつげに涙の滴が光っている。
「遅くなって、ごめんなさい」
 虹は小声で詫びると、アーシェルに手をさしのべ、助け起こした。
「いいえ、いいえ……っ」
 声を震わせながら、アーシェルは両腕できつく虹を抱きしめた。
 ふたりとも言葉もなく、ただ互いを抱きしめた。
 いつもより五感が冴え渡り、皮膚が一枚薄くなったような、はっと目が醒めるような感覚がした。宇宙の神秘に触れたような、無垢な魂にじかに触れているような気がする……
 いつの間にか、周囲には同胞が集まっていた。ジュラも、ソードも、ユシュテルもいる。とめどなく涙をあふれさせながら。
「さぁ、虹様……共に宇宙そらへ参りましょう」
 恭しく手を差し伸べるアーシェルを、虹はじっと見つめた。
 長い一瞬のあいだ、ふたりは身動きもせず見あっていた。ふたりを中心として、熱を孕んだ沈黙の空気が、雨が泉を叩くように、さざなみを描いてひろがっていく。
「うん、連れていって」
 虹がほほえみながら手をとると、アーシェルの背に、ゆっくりと神秘の水晶の翼がひろがった。腰を抱き寄せられ、神々しい迦陵頻伽かりょうびんがのように舞いあがった。