FAの世界

3章:大水晶環壁 - 10 -

 虹はキャメロンに横抱きにされたまま、宙に浮かび、紅蓮に燃え盛る大水晶環壁かんぺきを眺めおろしていた。
「私を呼んではいけなかった」
 キャメロンは裸身の虹を抱きかかえながら、厳しい口調でいった。
「どうして……」
 唖然呆然、虹は眼下の光景に蒼褪める。
「コウの心は大水晶環壁かんぺきつよさに影響するのです。貴方がこの国を拒絶し続けた結果です。とうとう禁闕きんけつを侵す者を赦してしまった」
 その言葉を証明するが如く、不吉な彗星のように、毒々しい緋色が大水晶環壁かんぺきを乗り越えておちてくる。
 オォ……オオオォォオオォォ――……
 飛来する火焔は、布を織るのように飛びめぐって、神々の投擲とうてきか或いは悪魔の苦悶の声のように唸っている。
 巨大水晶柱が崩れおちるごとに、水晶の粉塵が舞いあがって、薄靄のなかできらきらと煌めいた。
「どうしてこんな、僕は、こんなことを望んだわけじゃないのに」
 虹は無意識に手を伸ばした。水晶の破片に、壊れゆくものに。火炎熱波に煽られて息苦しいのに、心は恐怖で冷え切っている。心配や不安が、まるで氷のしたの水のように心のなかを流れている。
「目をそらさずに御覧なさい。コウの選択した結果です」
「違う、こんなことは望んでいない。僕はただ逃げたくて――ぅわっ!」
 逆巻く紅蓮の混沌から解き放たれた地獄の大爆風が、足元から吹きあがってくる。
 恐れ慄く虹を、キャメロンはぐっと抱き寄せた。くちびるが触れるほど顔を近づけて、
「コウが逃げることは、同胞に凋落せよと命じているも同然です。水晶核を持つ王に危機が迫れば、忠節を捧げるしもべたちは、猛然と護るでしょう。私が連れ去るとも知らずに」
 虹は戸惑い、キャメロンを見つめた。緑柱石エメラルドの眸に燃え盛る焔が映りこんでいる。
「私の魂魄こんぱくは、錬金術に囚われています。命令には逆らえない。コウを不倶戴天ふぐたいてんの帝国へ連れていくしかありません」
「僕をどうするつもりですか」
「命までは奪われないでしょうが、錬金術のにえにされるでしょう。死より辛い苦渋です」
「そんな……」
 怯える虹を、キャメロンはじっと見つめた。
「では救いを求めますか? 忠節を尽くすしもべたちに」
 虹は、返事を躊躇った。魔宴が嫌で逃げだしてきたのに、進退窮まり俯くことしかできなかった。
 眼下に広がる無残な景。
 千年紀を守りぬいた水晶を、水晶族が千年待ち望んだ君主――虹の引き金により破壊されていく。
 破壊された大水晶環壁かんぺきから、地獄の風が渺渺びょうびょうと吹きよせてくる。
 貴金族の襲来。先頭は彼らの長、幾星霜の錬金術師。燃えあがる黄金きん色の長い髪をなびかせさざめかせるさまは、さながら飛来する金色の彗星だ。
 押し寄せる金色の戦団は、うねる大河の奔流のごとく、迎え撃つ水晶族も己を水晶化させて煌めき、絢爛華麗な超常光の乱舞は、壮麗な歌劇オペラを思わせた。
 水晶と黄金が衝突するたびに、放電光のような光が飛び散る。
 まるで此の世の終わりだ。
 虹が敵の手に堕ちれば、水晶族の趨勢すうせいは一気に傾くだろう。アーシェルが黙っているとは思えない。全身全霊を傾けて虹を救出しようとするに違いない。どれほどの犠牲を伴うとしても――満身創痍で、四肢のいたるところ水晶化した痛々しいイメージに心をかき乱される。
(アーシェル……)
 このような凶行を選択したつもりはなかったのに、結果的に最悪の事態を呼びこんでしまった。
 今になって、アーシェルと最後に交わした視線が痛烈に思いだされた。
 怒り、悲しみ、打ちひしがれているようにも見えた。情はあったかもしれない。だがそれ以上に、種づけの土壌を失う恐怖が強かっただろうか。
 失うのは虹も同じだ。このまま逃げ去ることが、アーシェルを失うことが望みなのだろうか? 彼のいない人生を、本当に望んでいるのだろうか?
 胸が苦しい。心臓を鉄の環で締めつけられるみたいだ。頭のなかで警鐘が鳴り響く。一時停止せよと心は命じるが、状況が赦してくれない。
 沈痛な面持ちで黙す虹を、キャメロンは観察するような目でじっと見ている。この景を虹に見せるのは、罰してるのだろうか?
「いずれにせよ、帝国へ連れていきます」
 虹は、訴えるようにキャメロンを見つめた。
「私の魂魄こんぱくは、合金の籠に囚われているのです」
 キャメロンは哀しそうにいった。
 避けがたい運命を前にして、虹も選択するしかなかった。これで終わりとでもいったような奇妙な哀しみが胸に食い入るのを覚えながら、
「どうしても逃げられないなら、ひと思いに殺してください。できるか判らないけど、僕の水晶核はそれで次代に継承されるのですよね?」
 もっと王にふさわしい、他の誰かに託すことができるかもしれない。
「幕引きにはまだ早いですよ。さいを投げ入れたのはコウなのですから」
 キャメロンはきっぱりといった。
「それは、でも……っ」
 虹は狼狽えるが、言葉が続かない。というよりも、続けられなかった。
 頭上の空は急激に暗くなり、キャメロンの通力が虹の精神を通じて増幅されていくのを示している。
 虹は、己の力を引きだされるような、奇妙な未知の感覚に総身を震わせた。絶異の恐怖。周囲の気温が極度に低下していくかのような錯覚。魂の呵責に苛まれであろう、不吉な狂いのない予感が胸にきざすが、もはや止める手立てはなかった。
 鉛色の空に金色の放電が走り、一点から、宇宙開闢かいびゃくのごとく星雲がのぞいた。
 世界がひずみ、次元の隧道が開いたのだ。
 丸くきりとられた燦然さんぜんたる銀河は美しいが、底なしの深淵だ。かつてない危険が漲っている。
 キャメロンに抱えられたまま、虹は星雲へと吸いこまれていった。