FAの世界

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 或る年の十月。神無月かんなづき
 三十ニ歳の青峰あおみねこうは、特別休暇を利用して里帰りしていた。
 実家は群馬県前橋市のはずれにあり、赤城あかぎ山がよく見える。晩秋九月終わり頃から紅葉が始まり、十月半ばの今はちょうど見頃だった。
 久しぶりに実家に帰ると、銀鼠ぎんねずいらかが陽に照り映え、花をつけた金木犀きんもくせいの垣根が甘い芳香を漂わせていた。
 猫二匹を構いながら上げ膳据え膳で、夜は秋虫の鳴き声に耳を傾けながらしんいた。
 実家を拠点にして、二日目は両親と一緒に噴割ふきわりの滝へ、三日目はひとりで赤城あかぎ山に軽く登った。その日の夜は父と晩酌し、彼女はいないのかと訊かれたりもしたが、まぁ楽しい酒だった。
 両親には悪いと思うが、この先も恋人はできそうにない。
 中肉中背で顔立ちは至って普通、不快な容姿ではないと思うが、百万回は見過ごされそうだし、実際にその通りだった。
 性格は真面目で温厚なものの、明るい性質たちではなく、仕事に追いつめられると数週間にわたって口をかんすることがある。
 今回も死闘デスマーチの果てにリリースを終えてみ疲れていたところ、上司の温情で十日間のリフレッシュ休暇を与えられたのだ。
 仕事は都内勤務のバックエンドエンジニアで、今の職場に勤めて八年目。稼ぎはごく平均的で、そろそろ不動産を持とうか迷いつつ、気楽な賃貸アパート暮らしを続けている。
 それに、虹は同性愛者だ。
 十代の頃に一度だけ彼女はいたが、長続きしなかった。爾来じらい、恋人はいない。ゲイであることをカムしたこともない。恋愛に憧れはあるが、奥手な自分には難しいだろうと、最近ではもう諦めている。
 両親も、虹が結婚に消極的なことは判っているのだろう。兄夫婦の間に子供がふたりいることもあり、虹に対する圧力は殆どない。たまに、恋人の有無を訊かれるくらいだ。
 確かにパートナーがいたら楽しいのだろう。でもまぁ、独身生活もそう悪くない。自由気儘で、自分の時間をもてるのはありがたいと思う。こんな風にひとり旅もできるし……と満足している。
 四日目の朝に実家をでて、最終目的地である草津温泉に向かった。
 二泊三日の贅沢な温泉旅行である。
 足を運んだのは七十年続く老舗旅館で、破風はふのあがった大玄関に、艶光する大廊下、客室は見事な折上天井で、どこを見ても造作が凝っていた。
 露天風呂で汗を流し、個室で創作料理を振舞われる。紅葉に色づく中庭を拝めながらの一献いっこんは乙なものだ。
 二日目の晩は、中居に教えてもらった山裏の露店風呂にいってみた。
 地元民しか知らないとっておきの場所らしい。
 入り口は襤褸ぼろい小屋で心配になったが、無人の受付に設置された料金箱を覗くと、小銭がいくらか入っていた。
 価格札に書かれてある通り、四百円を投じて脱衣所に入ると、虹以外に人はいなかった。建物は古いが手入れはされているようで、なかは掃き清められていた。
 硝子戸をあけて外にでると、素晴らしい景観に胸を打たれた。
 月が驚くほど明るく、紅葉を優しく照らしている。
 たちのぼる湯気は月明りに照らされて、仄青く、幽明の境に脚を踏み入れた心地がした。
 貸切とはなんとも贅沢。熱い湯に浸かりながら、汗ばんだ額を心地よい涼風が撫でるのに任せる。
(はぁ~……極楽、極楽……)
 遠くから聴こえるせせらぎ、梢の葉擦れの音に耳を傾けながら星空を眺めていると、彗星が視界を横切った。
「あ! 流れ星……」
 思わず呟きながら、遠い記憶、子供時代が懐かしく思いだされた。
 実家の二階に広々としたベランダがあり、夏の夜は兄と布団を並べて眠ったものだ。
“ホラ! また流れ星!”
 はしゃいだ声をあげて、空を指さす。右から左へ、左から右へ、驚くほどたくさんの流れ星を見ることができた。朝になると、布団が露ですっかり濡れて辟易へきえきすることもあったが、夏の夜の天体観測はしばしば開催された。
 上京してから日々はせわしなく、星空を仰ぎ見ることもなくなった。宝石箱めいた都会の夜景も好きだが、あの日見た夜空の美しさは、永久とこしえに心にある。
 愛おしくて心悲うらがなしい、ノスタルジックな情緒に浸っていると、ふいに耳もとで霊的な囁きが聴こえた。

“ファルル・アルカーン……”

 虹はおののき目を開けた。おののきではなく、深い神秘感にうたれ、夢幻のような朦朧とした光に襲われた。
 月に似ていて異なるさやか光のなか、差し招くようないざないを覚えた。
 躰と魂が離れていく、奇妙な乖離かいりの感覚があり、神懸かむがかりの千里眼のように、世界をまたにかけて、銀河の白い深淵の遥か彼方、幾千光年の彼方――果てしない宇宙の暗黒のうろの遥か彼方――幾千万もの夜明けと黄昏を瞥見べっけんした。
 万華鏡的カレイドスコピックに移ろう景のなか、篝火がよぎる。
 夜の森の天鵞絨びろうどと太古の芳香。木霊こだまの囁き。
 原始の森に、心を昂らせる太鼓の音が鳴り始め、漆黒の夜空に紅蓮ぐれんの焔が舞いあがった。
 風光明媚ふうこうめいびな泉を取り囲む神聖な火。泉のなかに魔術的な色彩を放つ巨大な水晶柱があり、そのほとりで飴細工のような翼をもつ美しい種族が、水晶柱に祈りを捧げている。
 彼らを――福楽たる水晶の照らす国を治めるは、金髪翠瞳すいとうの艶麗な王。
 豪奢にして蒼古な国は、広漠たる円周と巨大な深さをもった水晶の連環に守られている。大水晶環壁かんぺきとざされた幻想世界で、牧歌の景がめまぐるしく過ぎていく。
 怖ろしきかな、夜嵐の咆哮!
 破戒無慚はかいむざん黄金きん色の種族が、峨峨ががたる水晶の山嶺に攻めてくる。
 朱金に燃えあがる飛天大焔軍を引き連れて、絢爛けんらんたる黄金の錬金術師が、宇宙調和を引き裂かんとする。
 悠久のときは無慚むざんに搔き消されようとするが、誇り高き憂い深き水晶の王が、命と引き換えに悪辣な侵犯を防いだ。
 彼の心臓――水晶核は、あまねく宇宙に飛散する。
 遺されし者たちの、長い夜夜の寂寞せきばくと孤独、一日たりとて欠かさぬ祈り……夢幻的な幽暗ゆうあんの森。
 さまざまな景が泡沫うたかたのように浮かんでは消えていく。
 やがて大勢の裸身が見えた。祭壇前に集まり、互いに触れあい、くちびるからあえかな吐息をもらしている。
 何かの儀式だろうか?
 淫靡な宗教画を見ているようだが、彼らの容姿があまりに麗しいせいか、嫌悪感はない。その異様な快楽の場の中央にいる若き王が顔をあげた。
 きらめく翡翠の眼差しに捕らえられて、心臓がどきりと撥ねる。形のよいくちびるが開いて、
「次は君の番だ」
 その声は、耳元で聞こえた。
 意味を考えるよりも先に、長途ちょうとの幻想の旅は、唐突に終わりを告げた。
 心はうつつに引き戻されたものの、異変が起きていた。
 背中の感触が違う。あたたかな岩肌から、もっと弾力のある何か……疑問を覚えたとき、二本の腕が胴のまわりに忍び寄ってくるのを感じた。
 虹は、驚愕のあまり言葉を失った。吐息がこめかみに触れたと思ったら、柔らかな感触が続いた。
(何!? 誰?)
 息がはずみ、心臓がどきどきし、喉が詰まった。
 硬直している間にも、耳殻をくちびるが撫で、濡れた首筋に、小さなキスが繰り返される。これまでに経験のない優しい愛撫を受けて、虹はそのたびにはっと目を見開き、本能的に頭を反対側に傾けて逃げようとした。
「んっ……」
 柔らかい抱擁なのに逃げられない。濡れた肌が触れあい、魅惑的な香りがただよう。恐る恐る振り向いたとき、碧い瞳と遭った。
 鮮烈な碧。
 宇宙の神秘を燃料としているみたいに、烈しい飢渇きかつほのおが、美しい瞳に碧く燃えている。
 不思議なほど陶酔をもたらし、痛みを覚えそうなほど心を打った。
 まるで遠い昔から知っているような、ふたりの魂が溶けあうことを信じている目で、貪るように虹を見つめている。
 どうしたことか、一糸まとわぬ白罌粟けしのような裸身の、魂を抜き取られそうな玲瓏れいろうたる青年が、虹を背中から抱きしめていた。