DAWN FANTASY

4章:一つの解、全ての鍵 - 4 -

 誰かが優しく髪をすいている……
 目が醒めた時、七海は一瞬自分がどこにいるのか判らなかった。絹のようになめらかで温かいものに包まれている。この心地良さは何だろう? はっきりしない頭をもちあげると、澄み透った碧氷の瞳と遭った。
(えっ!?)
 途端に鋭く記憶が蘇り、七海は大きく目を見張った。
 ふたりは一糸まとわぬ姿で、織物にくるまれていた。脚が絡みあって、身動きがとれない。なんてこと――赤くなりながら再び顔をあげると、ランティスは身を屈めて、七海の額に唇を押し当てた。
お早うございますエラ ソヴォワ、七海。*****、***……ありがとうソムニア
 澄明ちょうめいな瞳に浮かぶ感謝の光を見て、七海の胸に、大きな、大きな安堵の波が押し寄せてきた。
「……お早うございますエラ ソヴォワ、ランティスさん……」
 ふたりとも無事だ。ランティスの負った裂傷も綺麗に癒えて、眩い美貌に穏やかな微笑を浮かべている。
「良かったぁ……っ」
 語尾が潤みかけた。勃然ぼつぜんと感情がたかぶって喉がしめつけられる。目を瞬いて涙をやり過ごそうとすると、ランティスは身を屈めて、目の端ににじんだ涙を優しく指でぬぐった。
 彼の眼差しがあまりに強く、熱くて、七海は赤く染まった顔を横にそむけた。
「大丈夫です……」
 七海が起きあがろうとすると、ランティスは自分と七海に清めの魔法スプールをかけてくれた。それから七海に、清潔な肌着に靴下、深緑色の釣鐘外套、飴色の編靴をさしだした。
ありがとうございますソムニア
 ありがたく受け取ると、彼の用意してくれた衝立に隠れて、七海は身支度を整えた。
「着替えました……」
 衝立からそろそろと顔をのぞかせると、ランティスも身支度を終えていた。群青の外套を羽織って、先端が三日月型の杖を手にもち、七海を見つめている。
 いつも通りの万全な彼の姿を見て、七海は再び涙ぐんでしまった。
「良かったぁ、本当に良かった……ランティスさん、動けるようになって良かった……」
「七海、******」
 傍にやってきたランティスは、空いている方の腕を伸ばし、優しく七海の頭を撫でた。そのぬくもりが決め手となって、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。
「うぅ、すみませんカヒーム……安心したら、なんだか……涙が……っ」
 次から次へと、涙が頬を濡らしていく。ランティスはびっくりしたような顔になり、杖を離して両腕で七海を抱きしめた。
泣かないでジュ テオ リル、七海……********」
 額にくちびるをつけながら囁いた。たくましい腕が七海を包みこみ、震える背中や腕をさすりながら、頭のてっぺんにくちづける。瞼に、頬に、こめかみに、慈雨のごとくキスの雨を降らせる。
 七海もぎゅっとしがみついて、こらえきれずに嗚咽をこぼした。
 ここ・・へきてから泣いてばかりいる。けれども彼が生きていてくれて、本当に嬉しい。言語としていい尽くせないほどに。自分でも驚くほど、いつの間にか思慕の念をこれほど強くしていた。
 かなり長い間、肩を震わせながら歔欷きょきする七海を、ランティスはただ抱きしめていた。壁を背に腰を落ち着けて、自分の脚のあいだに七海を座らせ、背中から抱きしめていた。黙って座ったまま、髪を撫で、震える躰に手を這わせながら、七海が心を落ち着けるのを待っていた。
 優しいランティス。恐ろしいほど強力な魔法を操る腕で、こうして七海を包みこみ、このうえない安らぎを与えてくれる。温かい木漏れ日のしたで、微睡んでいるみたいに……護られている、大切にされていると感じる。彼は七海の守護天使だ。
 心地良い抱擁に浸っていた七海だが、やがて心が落ち着いてくると、恥ずかしくなってきた。五歳の子供だって、これほど泣きやしないだろう。
(うぅ、離れるタイミングが判らない……)
 もう涙は止まっているのに、頭や顔に降りそそぐキスの雨がやまない。もともと過保護なひとではあったが、それに環をかけて、仕草の一つ一つに恋人にするような甘さを感じてしまう。
「ぁ、あの……すみませんカヒーム、もう大丈夫です……」
 彼の胸に手をついて距離をとると、ランティスは素直に身を引いた。もう泣いていないか確かめるように、うつむいている顔を覗きこんでこようとする。七海が赤くなった顔をそむけると、くすりと微笑した。
 気を引き締めないと。七海はぴしゃりと頬を手挟み、立ちあがった。深呼吸をして振り向くと、ランティスはもういつもの涼しげな表情に戻っていた。
 彼は、異次元空間から直径四、五センチの硝子の小箱を取りだし、七海に渡した。
「あれ? これ……」
 見覚えがある。以前どこかで――聖域――ティ・ティ・パプラスで見せてもらったものだ。継ぎ目のない硝子の正方形の箱のなかに、艷やかな丸い真珠が入っている。
立体パズルジローマ開けてタト
 七海は弾かれたように顔をあげた。ランティスの凪いだ瞳を見つめたあと、再び箱に視線を落とした。
 あの時は正体不明の箱だったが、これは、立体パズルジローマだったのだ!
 ……これまではランティスが無聊ぶりょうの慰めに、玩具を貸してくれているのだと思っていたけれど、違ったのかもしれない。
 七海は、集中して硝子の箱を見つめた。
 蓋や継ぎ目、螺やでっぱりもない。開閉の仕組みは全くの不明で、なかの真珠をとりだすには、硝子を割るしか手段はないように思える。
 だけど何か仕掛けがあるはずなのだ。見た目通りではない何か……
 真理を探っていると、不思議な霊的感覚に陥りかけた。あの混沌とした多重思考に似ているが、狂気的なものではない。七海の自我を保てている。
 恐れることはない――静かに、神妙な心地に浸された時、硝子に巻きついている光の糸が視えた。
「ん……?」
 目の錯覚かと思ったが、指で触れると糸がたゆむ。試しに指にひっかけて引っ張ると、剥がれそうな感じがした。直感に従ってくるくると光の糸をたぐりよせていくと、みるみるうちに硝子の箱から剥がれていった。
 やがて全ての糸を剥がし終えると、継ぎ目のない六辺の硝子板が、ぱらりと倒れた。
「あっ、できた!」
 思わず七海は叫んだ。ランティスを見ると、彼は愛弟子を見る教師のような眼差しで、嬉しそうにほほえんだ。
よくできましたラーチェ、七海」
 達成感を噛みしめながら七海が真珠を手渡すと、ランティスは光の糸を操りながら硝子板を立て、なかに真珠をいれてから、硝子の板で蓋をした。
 一見すると継ぎ目のない硝子の箱だが、遠景を鳥瞰ちょうかんするように視ると、細い無数の糸が硝子に巻きついていると判る。
「そういうことだったの……」
 一体自分はいつの間に、このような視界を手にいれたのだろう?
 茫然とする七海に、ランティスは地図を拡げて見せた。杖の先端から光の筋を発し、コプリタスの位置にあてている。
「七海。コプリタス、立体パズルジローマ開けてタト
「えっ?」
 コプリタス――立体パズルジローマ――開けてタト
 三つの単語を順に脳裏で唱え終えた時、驚天動地の震動が、七海の頭脳の全世界を揺るがせた。
 神秘の淵に立ち、不思議な境地を瞥見べっけんした。
 言語化するにはまだ理解が足りない。
 ただ直感と閃きが、すぐそこに迫っている。
 なんで、どうして、ここは一体、どうして私が――千遍も万遍も繰り返してきた疑問の答えが、もう殆ど見えそうな予感がした。
 一種興奮による心臓の高鳴りを感じていると、青と金に輝く光の粒子が漂いだした。一瞬ランティスの仕業かと思ったが、彼はただ静かに神秘的な光景を見ているだけだった。
「これは何?」
 光の粒子に手をのばすと、清涼な音が響いた。正体不明だが、不思議と心を癒やされる。
 もしかしたら、世界樹の魔法かもしれない。そう思ったのは、やがて光が収斂しゅうれんしていき、蔓薔薇の絡まる装飾的な水晶の扉が顕れた時だった。
「綺麗……」
 思わず七海は感嘆の声をもらした。初めて目にする扉だが、恐ろしいものでないことだけは判る。
 期待した通り、ランティスが扉を開いた途端に、濃密な薔薇の香りが流れてきた。
 なんて眩い世界――
 したたり落ちるような黄昏が射して、朱金の輝きで満たされている。
歩いてプリパ、七海」
 七海はぼうっと夢見心地で、恭しくさしだされた手に己の手を重ねた。此の世ならぬ幻想世界、薔薇の苑へ脚を踏み入れた。