DAWN FANTASY

3章:囁きと庇護者 - 6 -

 また悪夢を見ている。
 水に棲むおびただしい数の蛇が、水底に沈んだ屍体に群がり貪っている。
 秘された恐怖。この街をとりかこむ泉の下には、おびただしい数の人骨が沈んでいるのだ。
 ふっと遠視が途切れた。飛ぶ力もなくして、重心を失いながら墜ちていく――おぞましい泉のなかへ。
「っ」
 水底へ沈んでいく途中で目が醒めた。
 心臓は烈しく鳴っている。
 仄暗い水底に、白骨化した無数の屍体が視えた。四肢にからみつく蛇の鱗の感触が生々しく残っている……
 最悪の午睡ごすいだ。肘掛け椅子の背もたれに体重を預けて、七海は溜息を漏らした。
 朝からでかけているランティスは、まだ戻っていない。昨日もそうだが、彼はどこへいっているのだろう?
 ……昨夜の強烈な香炉の匂い。あんな匂いを漂わせていたのだから、女性と甘い時間を過ごしたわけではなさそうだけれど……
 てのない妄想が膨らみそうになり、七海はかぶりを振った。
 彼女・・に会いにいくなら、今が好機かもしれない。教会にいって、暗くなる前にここへ戻ってくればいい。
 決意すると、七海はショールを羽織って角燈ランタンを手に、部屋の扉に向かった。
 昨日といい、把手が奇妙に硬いのはどうしてなのだろう? 壊さぬよう慎重に力をこめると、ぱちっとした小さな衝撃と共に、扉は開いた。
 相変わらず人影はない。誰ともすれ違わずに階段をおりていくと、受付で本を読んでいた主人が顔をあげた。
「****?」
「少しでかけてきます」
 七海が会釈すると、主人は無愛想に頷いて、手元に視線を戻した。
 一人で敷地の外を出歩くのはこれが初めてだ。緊張もするが、心が浮き立つような気もした。
 賑々にぎにぎしい往来の向こうに、高い鐘楼が見える。あそこに教会があるのだろう。
 鐘楼を目印に歩いていくと、やがて針葉樹の合間に、ゴシック調の尖塔が見えた。
 教会だ。
 背後には陰鬱な森が拡がっている。錬鉄の柵は茨がからまり、ちらほらと紅い薔薇が咲いている。沿道に寄って歩いていくと、蛇の舌のように裂けた真紅の花びらが、はらはらと足元に散った。
 馥郁たる薔薇の香り。真紅の花びら……
 妙に不吉の象徴めいて、独りでこの先に進んで本当に大丈夫なのだろうかと、不安を覚えた。
“こっちへいらっしゃい、ナナミ……”
 耳元で甘い女性の声が囁いて、七海は再び惘然もうぜんとなった。誘蛾灯に誘われるように歩いていき、気がつけば、扉の前に立っていた。
“こっちよ、ナナミ……”
 鼓動が早くなるのを感じながら、重たい扉を押した。錆びついた蝶番ちょうつがいが、調子が外れたヴァイオリオンのような低い音を奏でる。
 誰もいない。
 七海は物珍しげに視線を彷徨わせた。
 室内は昏みを帯びた金色で統一されており、精霊と天使の描かれた穹窿天蓋ヴォールトから、青銅の大燭台が吊るされている。
 真紅の絨毯を敷かれた大理石の階段、重厚な祭壇、最奥には六段重ねの巨大な金管鍵盤。
 参拝者を迎える正面の薔薇窓から斜陽が射しこみ、色硝子にされた幾何学模様の光が、床に投影されている。
 一方で陽の当たらぬ床や壁は薄暗く、聖堂のかもす壮麗さに、かすかな暗鬱がいまざっているようだった。
“いらっしゃい、ナナミ……”
 脚を踏みだそうとしたその時、脳裡をランティスがよぎった。
 我に返った七海は、辺りを見回し、必死に心を落ち着かせようとする。しかし黒い影が伸びあがり、教会の壁に映しだされると、恐怖に凍りついた。
 脚がすくんで動けない。
 黒い影から、夜のような女性が顕れた。
 黒い喪服に身を包み、霧のように細かな網目の面紗ヴェールを唇のうえまでおろしている。優雅で気高く、危険な獰猛性を併せ持つミステリアスな女性。
 肌が総毛立つのを感じながら、七海はどうにか平静を保とうとした。
「……教えて。貴女は、誰なの?」
「わたくしは……あら……長い間ここにいるから、もう自分の名前も思いだせないわ」
「……幽霊?」
「そうよ。ここで死んだ者は、塔に呪縛されるの」
「待って、でも……どうして言葉が判るの?」
ここ・・ではそうなの。死者が望めば、生者に姿を見せることもできるし、言葉も交わせるのよ……“わかるでしょう?”」
 低く甘く、天使よりももっと官能的なコントラルトの声。だが、後半は耳の奥で響いて聴こえて、七海ははっと目を瞠った。
「……どうして、貴女は死んでしまったの?」
「騙されたのよ。ナナミと同じように、あの男に贄として召喚されて、最後に心臓を奪われてしまった」
 七海は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「嘘。だって、そんな……どうして? ランティスさんが、そんなこと……」
「財宝よ。この塔には、途方も無い財宝が眠っているの。けれどもそれらを生きて持ち帰る為には、贄を捧げなければならない。あの強欲な男は、わたくしを贄にして塔をでたけれど、また戻ってきた。そして今度はナナミを贄にしようとしている」
「嘘! ランティスさんはそんな人じゃない」
「わたくしも最初はそう思ったわ。彼はとても美しくて、親切で、強くて……護ってくれる。でもそれは全部、嘘なのよ」
「……」
「もっと近くへいらっしゃい、ナナミ」
 面紗ヴェールで顔が隠れているせいか、顕になっている唇がいっそう艶めいて見える。
 七海が動けずにいると、彼女は床上から僅かに浮きあがった。墨のような黒い裳裾が揺れる。そのまま、滑空するように迫ってきた。
「わたくしを信じて。わたくしなら、ナナミをここから連れだしてあげられる。さぁ、わたくしの手をとってちょうだい」
 嫣然えんぜんと笑む。
 艶やかな微笑であると同時に、イヴに知恵の実を勧める蛇のような蠱惑さがあった。
 戸惑いながら七海は手を伸ばし、指先が触れる一刹那いちせつな、首からさげた水晶と瑠璃ヴァイドゥーリャの数珠がぱちっときらめいた。
“おのれ……”
 貴婦人然とした彼女らしからぬ声で唸ると、七海から距離をとった。
 ふわりと面紗ヴェールが浮きあがる。黒洞々こくとうとうたる眼窩がんかに、血のように赤い虹彩が赫々かくかくと灯っている。
 邪悪の精髄せいずいに見つめられて、七海はくらりと昏倒した。
 ……
 ……
 射すような陽の光が頭に喰いこんでくる。
 意識が浮上した時、七海は朦朧とした頭を腕にもたせかけて、主身廊の絨毯のうえに倒れ伏していた。
「ん……」
 きしむ躰を起こすと、絨毯のうえに細く長く伸びている陽が目に入った。はっとして顔をあげると、採光窓の向こうに、血のように赤い夕焼けが拡がっていた。
(――日が暮れる)
 躰中がすうっと冷えたのが判った。
 前後の記憶が曖昧だが、彼女と話していて……驚くべき真相を聞かされて……そうだ――面紗ヴェールの奥から昏く輝く双眸を見た。そして倒れたのだ。
 ともかく立ちあがろうとしたら、脚首に鋭い痛みが走った。一体誰の仕業なのか、椅子に結ばれた麻紐が、脚首にからみついているではないか。
「もう、なんなの!」
 焦りながらどうにか紐を解いて、立ちあがった時、無情にも鐘が鳴った。
 慄然りつぜんたらしむる暗黒の慟哭どうこく、狂気と絶望の鐘の響き。腹に響く重低音が聖堂を揺らした。
 まがつ逢魔が時。
 こちらを威嚇するように喚く、黒い瘴気にまみれた悪鬼、魑魅魍魎ちみもうりょうが顕れ、つぅと壁から雨雫が垂れてきて、空気は凍えそうなほど冷たくなる。
「やだぁっ」
 白い吐息をこぼしながら、七海は角燈ランタンを掴んで入り口に走った。銅製のかんぬきをはずそうとするが、重たくて動かせない。
「なんで! 開かないっ」
 他に出口は?
 あちこちに視線を彷徨わせると、黄昏の光を浴びて何かがきらめいた。
 扉だ。
 背筋に激烈な怖気おぞけはしった一刹那いちせつな、誰かに脚を引っ張られた。
「あっ!?」 
 なすすべもなく背中から床に倒れた。痛みに呻く間もなく、両脚を引っ張られた。
「やめて! 離して!」
 引っ張っている正体は判らない。姿は見えない。けれども、複数の手に、両脚を引っ張られている。
「いやぁぁッ」
 恐怖の極地で、脚をばたつかせて必死に藻掻くか、扉の方へと主身廊を引きずられていく。
「やめて! いやいやいやッ!」
 死にもの狂いの悲痛な声で叫んだ。
 冷たい空気が流れるのを感じて振り向くと、勢いよく扉が開いた。その向こうに薄暗い森が拡がっている。
「やだっ! 誰か……っ」
 抵抗もままならず、躰は浮きあがるようにして、扉に吸いこまれた。
 バタンッと眼前で扉が締まる。
 慌てて立ちあがった七海は、必死に扉を叩いた。
「開けて! なかへ入れて!」
 しかし、叩いているうちに扉はすぅっと消えてしまった。
「うぅ、怖い。厭……」
 恐る恐る、七海は背後を振り向いた。
 蒼い靄の漂うなか、釣鐘草や金盞花マリーゴールドの群落に埋もれて、慰霊碑のようなものや欠けた石柱、十字架などが点在している。
「怖いよぉ……」
 深海のような静けさのなか、茂みに脚が食いこんで軋む音が大きく響いて聞こえる。
(ランティスさん、ランティスさん、ランティスさん)
 お護りのように彼の名を連呼しながら、歩いていく。仄暗い森のなかで太鼓が脈打ち、冷たい風が囁く。
「ひっ」
 木々にとまった大鴉おおがらすが喚きたて、七海の脳髄は恐怖に鷲掴まれた。
 鬼哭啾啾きこくしゅうしゅう――どこからかすすり泣きが聴こえてくる。浮かばれない霊魂が嘆いている。
 幻聴だと思っても、振り切ることができない。どんどん怖い想像が膨らんで、七海の全身を雁字搦めにする。
 たまらずにとうとう駆けだした途端に、駆けだした途端に、蹴躓いて転んでしまう。意識が飛ぶほどの痛みに呻きながら、視界がぐるりとまわる。
 赤茶けた枯れ葉が、死の舞踏ダンス・マカーブルのように舞いあがり、七海の視界を奪った。
 角燈ランタンの灯も隠されて、世界は黒い永劫の羽を広げる闇夜に溶け消える。
 死を痛烈に感じた。
 意識が遠のく……瞼が完全に降りる前に、幻想の妖精が近づいてくるのを見た気がした。