DAWN FANTASY

1章:心臓に茨、手に角燈 - 8 -

 瞼のうえに揺らめく光を感じて、七海は目を醒ました。躰を起こしながら視線を彷徨わせ、仄蒼くきらめく樹冠を見た途端に、記憶が鋭く蘇った。
 心臓が早鐘を打ち始め、視線は忙しなく宙を彷徨う。何度目を瞬いても、目に映る景観は変わらない。
(夢じゃない……!)
 日蝕のように思考が侵食されていくのを感じた。焦って視線を彷徨わせると、幹にもたれているランティスに視線が吸い寄せられた。
(……眠っている)
 雪花石膏せっかせっこうのなめらかな肌に、驚くほど長い銀色のまつ毛が、たえなる陰影を頬に落としている。美しい白に近い銀髪を肩から幾筋かこぼして、七海のすぐ目の前に垂れている。
 此の世ならぬ美しさだが、ランティスは現実に存在しているのだ。
 誘惑に負けて、すぐ目の前に垂れている銀髪に手を伸ばすと、信じられないほどなめらかな手触りだった。
(綺麗……)
 このような場所にいて、一体どうすれば、これほど艶のある髪を維持できるのだろう?
 しばらく美貌に魅入っていた七海は、ハート型の唇に視線を留めたところで、我に返った。
 これでは痴女だ。恥を知りなさい――自分を窘めながら、そっと立ちあがった。
 辺りを見回し、小さな泉に視線を留めた。ランティスを起こさぬよう、静かに泉の前まで歩いていき、掌をさしいれてみる。清らかな冷水は気持ちよく、顔にかけると目が醒めた。
 どうやって顔を拭こうか思案していると、柔らかそうな亜麻布リネンがさしだされた。驚いて見あげると、ランティスに見下されていた。
「ありがとうございます……」
 亜麻布リネンを頬に押し当てた七海は、柔らかな肌触りと花のような香りに密かに感動した。
「ありがとうございます。助かりました」
 拭いたそれを二つに折り畳んで返すと、
「……エフリハーノ」
 ランティスは小さく頷いた。
「はぁ、夢じゃないんですね……」
 所在無さげに七海が手櫛で髪を梳かしていると、ランティスは、手をかざした。
「*****、スプール」
 魔法を唱えた一刹那いちせつな、きらきらと真珠母貝のようなきらめきが七海を包みこんだ。
 期待した通り、朝の身支度がいっぺんに解決した。
 肌は透き通ったように滑らかになり、美容液で整えたように、しっとりしている。頭皮もさっぱりして、髪もなめらか、おまけに排出欲求まで消失している。化粧ばかりはどうにもならないが、十分過ぎるほどだ。
「ありがとうございます。何から何まですみません」
 七海は深々と頭をさげた。
どういたしましてエフリハーノ
 言葉の意味を悟り、七海は顔をあげた。
 碧眼がふっと和む。朝の光のなかで見ると、ランティスの瞳は、BombaySapphireボンベイサファイアの澄み透った青い瓶みたいだ。
 些細なやりとりだが、ほんの少し心が通じあえた気がして、七海は嬉しくなった。
 彼は自分にもスプールをかけると、肩越しに振り向いて、七海がついてきていることを確認しながら、宇宙樹ユグドラシルの元へ戻った。そのあと、朝食の準備に取りかかった。
 火鉢を熱くさせて、鍋をかけ、水筒を注いでなかを満たし、刻んだ穀物と干し肉をまぜて、かき混ぜる。
 無駄のない手際に見惚れながら、七海は、ふと仕事のことを考えた。
 そろそろ月末だ。企業認証の更新確認や、諸々の請求書を送る定例業務がある……が、どうしようもない。
(無断欠勤……でも連絡取れない……そもそも、帰れるの……?)
 刺すような不安がこみあげたが、無理矢理飲みこんだ。囚われると、また自分を見失ってしまう。
 いい匂いが漂い初めて、空腹を刺激する。ぐぅ~と間抜けな腹の虫が鳴り、七海は朱くなった。
「……すみません」
 思わず腹を両手で押さえて俯くと、親が子にするように、頭を撫でられた。
 やはりランティスは、七海を随分年下の女の子に思っているのかもしれない。すっぴんに子供みたいな室内着で、腹は鳴るし、そもそも女として見られていない可能性もある。
(すみません、二十九の女です……)
 男性から甘やかされた経験がないので、優しくされるたびに、どう表情を繕えば良いか判らず、十代の女の子のようにはにかんでしまう。
(ぶりっこみたいでやだなぁ……)
 自己嫌悪に浸されながら、七海は、彼の逞しさと繊細さが同居する、細く長い指が、器具に触れて調理する様子を見守った。
 彼は香辛料の入った小瓶を並べ、幾つかを手にとり、鍋にパラパラと落とした。
 食欲を刺激する、いい香りが漂う。匙の入った小鉢をさしだされると、背筋を正して、恭しく両手で受け取った。
「ありがとうございます、いただきます」
 湯気のたつ汁はいい匂いがする。息を吹きかけ、ひとくちを含もうとした時、

“食べないで、ナナミ”

 女性の声が聞こえた。背後から聞こえた気がして振り向くが、誰もいない。

“毒が入っているわよ。その男を信用しないで”

 七海は小鉢を持ったまま凍りついた。
 毒――なぜか言葉は理解できるが、現実味が無くて、異国の言葉のように感じる。降って湧いたような警句が心に浸透するにつれて、戸惑いは腹立しさに変わった。
(……そんなわけないでしょ。彼がその気なら、とっくに殺されてるわよ。こんなに良くしてもらっておいて、よくもそんな恩知らずな事をいえるものね)
 強い怒りが迸り、耳の後ろに巣食ったような正体不明の囁きを、問答無用で意識から遮断した。
 幸いにして、幻聴が杞憂に過ぎないことはすぐに証明された。
「美味しい……」
 期待した通りの優しい味だ。七海が食べ始めると、見守っていたランティスも手を動かし始めた。
(……馬鹿馬鹿しい。ランティスさんも同じものを食べるのに、毒をいれてどうするのよ)
 何の肉か不明だが、とても柔らかく、おかわりしたくなるほど美味だ。
 チーズと少し硬いパン、茹でた卵にじゃがいも。素朴ながら、どれも美味しかった。じゃがいもは栗のように黄色がほくほくしていて、味が濃く、岩塩を振って食べると、自然と笑みが浮かんだ。
 普段は、豆乳をかけたドライフルーツ入りのシリアルで済ませてしまうので、久しぶりにしっかり朝食を摂った気分である。
「とっても美味しいです」
 笑みかけると、つられたようにランティスも微笑した。
 七海は胸が温まるのを感じながら、先程の幻聴が心に小さな沁みを遺したのを感じていた。
 あれは幻聴ではなく、もしかしたら、深層心理の発露なのだろうか?
(違う)
 かすかな疑問を瞬時にねじ伏せた。ランティスの人柄にかれるものを感じているのに、あんな突飛な邪推をするはずがない。
 やはり幻聴だったのだろうと、七海は気持ちを切り替えた。
「あの、これは何ですか?」
 じゃがいもを手に持ち、ランティスを見て頸を傾げてみる。
「タプラ」
「タプラ?」
 七海が繰り返すと、ランティスはそうだというように、頷いた。
「じゃあ、これは何ですか?」
 卵を摘んで訊ねると、ヴイ、とランティスは答えた。
「ヴイ……じゃあ、これは何ですか?」
 今度はチーズを摘んで訊ねると、彼はジマと答えた。
 じゃがいもはタプラ。卵はヴイ。チーズはジマ。
 後ろめたい猜疑心を上書きするように、七海は心のなかで、三つの単語を繰り返し唱えた。