アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 19 -

 アーナトラの裁判が行われている間、失踪人捜査もまた難航していた。
 ヤシュムとハイラートは、責任者であるハムラホビトの召喚状を携えて屑鉄会社を訪ねたが、数日前から行方をくらませているという。失踪人届けをだそうか迷っていた顧問弁護士から話を聞き、憲兵たちは粛々と手続きを進めながら、彼はもう戻ってこないであろう予感に囚われていた。
 工場は今、痩身のハムラホビトに代わって、太鼓腹の副社長が取り仕切っている。
 色々と観念した様子で、憲兵たちの警護というていの監視を受け入れ、不履行の遺族への補償も、ようやく進み始めた。
 一方、ナディアは消えた断頭台の捜査に注力していた。
 地下室の書庫――通称“墓所”に眠る軍保管庫記録は膨大なもので、比較的新しいものは帳面にまとめられているが、百年も昔となると、木製の目録やら羊皮紙やら大小の印刷物と統一性もなく、それらが新旧様々にしてたいをなしていた。
 いくら優秀なナディアでも、一人で相手するのは骨の折れることおびただしいので、捜査員十名に協力してもらうことにした。
 先ず、書架の傍に長机を三つ運ばせ、十年単位で仕分けするところから始められた。
 陽の射さぬ墓所に連れてこられた憲兵は、始めこそナディアを前に萎縮していたが、帳面をめくるうちに手元の作業に集中し始めた。
 古い記録は手書きも多く、典雅な文筆や、襟を正さしめるような凛としたものもれば、判別不可能なものもあり、苦心しながら紐解いていった。
 幸いにして有力な手掛かりの一つは、比較的すぐに見つかった。
 三四八年六月一〇日:軍保管庫から神殿に移送
 帳面を見たナディアは、憲兵五人に引き続き仕分けした保管庫の資料を探すよう命じて、残りの五名と共に神殿の遺物保管室の資料を調べることにした。
 やはりここにも膨大な資料が眠っていたが、今度は神官たちが手を貸してくれた。
 調べていくと、断頭台に処された罪人名簿が見つかり、そこには千名を超える名が連ねられていた。彼らが同じ処刑具にかけられたかどうかは判らないが、当時の筆頭刑吏はボルベという名の男であると判明した。記録によれば、磐のような巨体だったらしい。
「一連の失踪が人の手によるものだとしたら、その者は、刑吏のボルベを崇拝していたのでしょうか?」
 捜査員の一人が疑問を投じると、他の者も推論を口にした。
「これだけ大掛かりな失踪を、ひとりでできるとは思えない。宗教団体かもしれないな」
「軍関係者という可能性もあるのだろうか?」
 発言した男に、他の班員から批判的な眼差しが寄せられた。
「不謹慎だぞ。根拠もないのに、身内を疑うものじゃない」
「しかし、ここにある資料は全て機密だ。断頭台のことも、どうやって知り得たんだ?」
「少なくとも、一般人ではないだろうな」
 ボルベという刑吏から演繹えんえきして、一人がこう訊ねた。
「過去百日間の開放受刑者を調べますか?」
 確かに、短期間で姿をくらませつつ、手にかける手際の良さは到底素人とは思えない。戦闘職経験者のなかで崇拝者が誕生したか、勤勉が認められた開放受刑者かもしれない……
 ナディアは逡巡したものの、すぐに首を振った。
「誰にも知られず、どこへでも忍びこみ、弱者や祈祷師マニの命であっても刈り取っていく。死を恐れず、神を敬わず、冒涜に耽る……そのような行為が、たとえ殺人鬼であったとしても、一介の人間に可能でしょうか?」
 人の欲や恨みにまつわる殺人は、情況が截然せつぜんとしている。
 けれども今回の連続失踪には、まるで秩序がない。温度・・が感じられないのだ。
「では、一体――」
 いいかけた隊員は、恐れをなしたように口を閉じた。その先は口にせずとも皆が同じことを胸に思った。
 可能な者がいるとすれば、それは悪魔だ。
「やめましょう。今は憶測しても仕方ありません。先ずは断頭台の行方を見つけることです」
 ナディアの言葉に、班員は黙って頷く。
 そのあと沈黙が流れ、書面をめくる音だけが響いた。時間の経過も忘れた頃、新たな手がかりを見つけた。

 三七五年三月三日:当時の神殿長であるガーリブの判断で、ゴバ廃鉄置場に断頭台を移送。

 ガーリブはその翌年に姿を消している。またしても謎の失踪だ。
 そしてゴバ廃鉄置場は存在しない。同じ年の記録的豪雨により、建物ごと流されてしまったのだ。
 大勢が被害にあい、今はなき廃鉄置場には鎮魂碑が建立されている。
 断頭台の行方は不明……

 四月二十六日。午後。
 ナディアからの報告を受けたジュリアスは、ハイラート、そしてサンジャルと共に、郊外の廃鉄置場をそなえた国営兵器工場、民間の二つの廃鉄置場を順に視察することにした。
 それぞれの場所で遠視を試したが、結果は芳しくなかった。
 本部に戻り、一日を徒労で終えた時、サンジャルは掌を握りしめて呻くようにいった。
「殿下なら視透せるのでは……」
 不用意に呟いた次の瞬間、ジュリアスの炯々けいけいとした氷の眼光に射竦められた。
「申し訳ありません、愚かな失言でした。お許しください」
 すぐに頭を垂れて謝罪したが、静寂が黒い霧のように降りた。
 彼はそこで終わりにすればよかったものを、ただ私は、と感に堪えたように続けた。
「この怪異を一日も早く収束したいのです。それが叶うのなら、どのような禁令にも従いましょう」
(この馬鹿が!)
 ハイラートは鬼気迫る形相でサンジャルの頭を押さえつけた。正義感故だろうが、相手を判っていない。
「どうかお許しください。この者には後で私からきつくいって聞かせます」
 ジュリアスは冷たく睥睨した。細められた青い瞳は、玲瓏れいろうな刃物の輝きを宿している。
「今ここで、みだりに不用意な発言をしないと、厳粛に誓いなさい」
 普段は騒々しい憲兵の詰所が、水を打ったように静まり返った。運悪くいあわせた全員が、氷像のごとく凍りついてしまっている。
 サンジャルも心拍数を撥ねさせながら、落ち着けと自分にいい聞かせた。
「……誓います。申し訳ありませんでした」
「難問であることは理解しています。心を折らさずに励んでください。アッサラーム市民にとって、我々が光明なのです」
「寛大な御心に感謝いたします」
 ハイラートは緊張に強張った声で礼をいった。サンジャルもようやく頭が冷えたのか、額をぴったり床に押しつけた。日頃は冷静だが、激情家な一面があり、時に無鉄砲な振る舞いをする男だと知っている。それが功を奏することも多いが、今回は軽率な気焔きえんといわざるをえないだろう。
「お前今日はもう帰れ。よく頭を冷やせ」
 生真面目な青年の顔には、苦痛が見てとれた。
 ハイラートが肩を叩くと、サンジャルは一揖いちゆうし、部屋をでていった。
 覇気のない背中を、ハイラートは苦い思いで見送った。気の毒には思うが、口頭での訓戒処分で済まされたのは御の字だ。除隊を命じられてもおかしくなかったのだ。
 後味の悪い疲労に襲われたのは、ジュリアスも同じだった。その日はものうい思いで帰路についた。
 ここのところ、万人が翹望びょうぼうする青い星の御使みつかい、光希を求める声が増えている。
 不穏の梅雨を払うため、祈祷集会がそこかしこで開かれているのだ。療養のため公務を休んでいる光希の回復祈願のために、神殿を訪れる人も大勢いる。
 本人は知らないが、光希を題材に言葉を唱える吟遊詩人も多い。そのうちの一人は、神聖冒涜罪で先日処されたばかりだ。
 それは色めいた物語詩で、ちまたで評判になり、ジュリアスの耳にも届いたのだ。

 往古の都にわざわい降り懸かる時
 聖者の光たる御使みつかい 夜闇やみを照らす
 澄んだ歌声 戦神に捧げ
 我ら軍勢を鼓舞し 軍靴ぐんかくろがねを響かせ
 猛き進軍の風吹けり 東の軍勢を追い払い
 青き星の懸かる聖都 静寂降しじまふりて
 おお 青き星の御使みつかい
 おお ばれし聖者の光よ
 シャイターンの住まう 星屑の円蓋に還らん

 竪琴シターンの響きと共に語られたのは、いかにして東西大戦を勝利に導いたか、青い星の御使いを讃えた詩である。
 彼は砂漠におりたち澄んだ詩声をシャイターンに捧げ、遠征の追い風となって東を打ち滅ぼし、最期は青い星へ還るという――
 人々は美談と受け取ったようだが、ジュリアスにとっては神聖冒涜だった。“星屑の円蓋に還らん”等、おいそれと口にして良いことではない。
 聖都憲兵隊は敬虔な思いを燃えあがらせて、厳しく取り締まり、ジュリアスは黙認した。
 営業停止を申し渡された詩人が宥恕ゆうじょを請うたが、赦しは得られなかった。彼の魂は死んだも同然かもしれないが、かつてジュリアスの逆鱗に触れて一族ごと粛清されたヴァレンティーン・ヘルベルトを思えば、破格の温情といえた。
 聖都を震撼させた“血の十日間”を知らぬ者はいない。
 神聖冒涜はこの国でもっとも重い罪の一つだ。標的にされた相手も、見聞きした者も震えあがる。
 だがジュリアスは、祈祷集会や詩人を禁じる一方で、自分に向けられる垂れ流しの英雄叙事詩には規制をかけなかった。人々の関心を自分に向けることで、好奇の目から光希を遮蔽しゃへいできれば良いとすら考えていた。おあつらえ向きに、東西対戦を経てジュリアスを讃える詩や観劇は、ちまたに溢れかえっている。
 己は良い。
 だが光希に関しては、時に観照も冒涜ぼうとくだった。