アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 18 -

 四月二十三日。第一王都裁判所。
 冷たい驟雨しゅううのなか、宗教遵守条件違反の公開審問のために、数百名にも及ぶ貴賤きせんこもごものアッサラーム市民が、裁判所に詰めかけた。
 この数日間で、アーナトラの査問会、予備審問と続き、またたく間に彼が失踪怪奇事件の犯人かもしれないと、かまびすしい噂が広まってしまったせいだ。
 疑懼ぎくの気に満ちているが、何世紀もの間、評決の場とされてきた巨大な空間は美しく、壁は漆喰塗りで、天井にも白い漆喰しっくいの美しい装飾が施されている。
 仄かな薬草の匂いが漂っているのは、扉の左右に邪気を祓う香炉が焚かれているためだ。
 落ち着いた色味の織物のうえに整然と傍聴席が並んでおり、市民たちで埋め尽くされている。その最前列にはハイラートやジュリアスがいた。
 議席には裁判長、判事、そして異端審問機関の執行官が列席しているのは、裁判が始まる前、審問官が微に入り細を穿って、アーナトラの工房を徹底的に調べ尽くした結果、彼に異端錬金術の嫌疑がかけられてしまったせいだ。
 仕事で使う幾つもの金属、薬品に加えて、彼の古物愛好趣味が災いし、陳列された工芸品や古文書等が押収された。
 高名で人望のあるアーナトラだが、今は時期が悪かった。
 摩訶不思議な失踪が相次ぐなか、工房から証拠物品が応酬されたこともあり、意味深長な共通点が、彼にとっては悪い方に作用してしまったのだ。
 もっとも最悪なのは、光希が怯えたくだんのみが、事の発端ともいえる一家失踪した鋳物いもの屋で購入したものだと判明したことにより、奇妙な符号を関連づけて悪い方に予測されてしまったことである。
 すなわち、アーナトラは呪われた悪魔に通じているのだと――
 裁判の始まりを待つアーナトラは、然るべき正装で姿勢を伸ばしているが、やはり面変りしていた。痩せて、青白く、頬は少し落ち窪んでしまっている。だが双眸には、強い意思と理知の光が灯っていた。
「静粛に」
 裁判長が木槌を鳴らすと、会場は水をうったように静まりかえった。
 粛然たる沈黙のなか、彼に対する訴状が読みあげられた。
「これより被告人アーナトラの、次に読みあげる嫌疑において、公開審問を執り行う。一つ、シャイターンの花嫁ロザイン、及び青き星の御使いに対する神聖冒涜行為の有無。一つ、工房での異端錬金術の有無である。でははじめに……」
「悪しき実験室だ!」
 裁判長の言葉を遮り、傍聴席から誰かが叫んだ。そうだそうだ、と相槌の声が続く。
「静粛に!」
 裁判官はたびたび木槌を鳴らさねばならなかった。
 場が静まり、開始手続きが終わると、先ずアーナトラの弁護人が席を立った。殆ど白に近い銀髪に、痩せた、厳格な顔立ちをしている四十路の男である。
「彼は敬虔で善良なアッサラーム市民です。後世に語り継がれる芸術家であり、尊敬に値する名士です。殿下を害するなど、到底考えられません。また、工房にある道具は全て芸術のためです。彼は数々の建築美術に貢献してきました。危険思想などあるでしょうか?」
 弁護人はゆったりした口調で語ると、傍聴席を見回した。
「彼の工房に不運が起きたのは、故意ではありません。悪霊の仕業です」
 信心深いアッサラームの聴衆は、弁護人の発言に野次を飛ばしたりはしなかった。
 続けてアーナトラに仕える老僕、工房の従業員、そして光希の神殿騎士であるルスタム、クロガネ隊のアルシャッドが順番に証言台に立った。
 彼等はいずれも理性的に、その目で見た光景と事実を淡々と話した。
 すなわち、アーナトラの故意に因るものではなく、光希がよろめいたことも、棚の配置も、すべては不運な偶然なのだと。
 また、ルスタムは光希の名の入った証言書を、代弁して読みあげた。
「一切危害を加えられていないと、殿下はおっしゃられています。殿下の直筆です。どうぞ検めてください」
 証言書を裁判官に渡すと、彼らは深長に書面に目を注ぎ、頷いた。これには異端審問官も異を唱えることは難しかった。
 裁判長は閉会の木槌を鳴らそうとしたが、異端審問官は手をあげた。痩身の男で、落ち窪んだ眼窩から銀色の瞳が鋭い光を放っている。
「お待ちください。皆様のおっしゃる通り、アーナトラは故意に殿下を害そうとしたわけではないのかもしれません。ですが、彼が悪魔崇拝にかれている嫌疑は、まだ晴れておりません」
「裁判長! これは議題のすり替えです」
 弁護士は抗議を唱えたが、裁判長は手をあげて制した。異端審問官は感謝の言葉を唱えてから、傍聴席を見回した。
「工房に悪鬼が宿り、我らには不可知の事故を引き起こしたのではないでしょうか? 我々異端審問官に立証の場をお与えいただけないでしょうか」
 異端審問官は指の関節でひげをこすりながら、自らの弁をうべなうごとく、軽く二度頷いてみせた。
 開場は再びざわめき始めた。
 ルスタムらの矛盾のない共通認識は、アーナトラの無実を後押しするとと同時に、悪霊の仕業という不吉な印象も与えてしまったのだ。
 聴衆から、激した声があがった。
「諸悪が工房にあるのなら、燃やすべきではないか?」
「そうだ! 火を放て!」
「燃やして祓い清めるべきだ」
 声が大きくなる。
「静粛に!」
 裁判長が二度、三度と木槌を鳴らし、ようやく場は静まった。
「裁判長、発言をお許しください」
 弁護人の主張を裁判長は受け入れた。
「皆様が不安に思われるのも仕方がありません。今回の奇妙な偶然が、悪霊の仕業だとするなら、工房を祓い清めれば邪気と不安を払拭できるのではないでしょうか? そしてその方法は、火を放たなくとも可能なはずです」
 困惑と同調のざわめきが場を満たした。
 なかなか機転の利く弁護人のおかげで、アーナトラは一時優勢に転じたように思われたが、裁判長の決定を覆らせるには至らなかった。
「双方の弁は判りました。異端審問省の発言を認めます。二日後の午後までに準備をしてください。本日はこれにて閉会」
 木槌が振りおろされた。

 四月二十五日。
 開幕の前に、ジュリアスはアーナトラと弁護人に、次のように伝えた。
「今日は異端審問官の質問攻めにあうでしょう。心胆を強くもって、しっかり答えてください」
「判りました」
 アーナトラが力強く答えた。
「穿った質問を回避せず、率直に回答すべきです。向こうの言い分を全てはかせて、否定したという言質をとっておきたい」
 弁護人も頷いた。
「私も証言台に立ちますが、最期になるでしょう。向こうのげんを全て吐きださせてからです。それまでは、どのような問答がされようとも、耐えてください」
「ありがとうございます。心強い限りです」
 アーナトラはジュリアスの目を見て頷いた。
 懸念していた通り、異端審問官の質疑は、開会劈頭へきとうから容赦がなかった。
 押収した品々を卓に並べ、それらでどのような実験が可能か、一つ一つ丁寧に説明をしていった。例えば龍や獅子の牙、黒檀彫りの羚羊れいようの頭蓋骨を見せて、悪魔崇拝の道具だとのたまった。
 最初は落ち着いた表情で聞き入っていた聴衆も、次第に不安げな様子になり、小さな悲鳴をあげたりした。
「このようにして、異様な祈祷と儀式が行われたのではありませんか」
 冷徹な眼差しで異端審問官が問いかけると、裁判長はアーナトラを見た。
「被告人、答えてください」
「そのような儀式を行ったことは、一度たりとてありません」
 アーナトラはきっぱり答えた。
 そのあとも、異端審問官の難癖ともいえる推論は続いたが、その都度アーナトラは否定した。
「ですが、このような用途があることは事実です。なぜ収拾したのですか?」
「装飾が美しいと思ったからです」
 聴衆からざわめきが起こる。
「ご覧なさい! 彼は悪に魅入られてしまっている!」
 我が意を得たりとばかりに異端審問官は叫んだ。聴衆を十分に戦慄させてから、もったいつけたようにこういった。
「呪いを断ち切るために、肉の“試煉”を課すべきです」
 低く、厳粛な口調だった。
 不安げな表情でさざめく聴衆たち。
 異端審問省に従事する神官は、些か思想が過激だ。彼等は浄化は祈るものではない、地獄のような“試煉”から生まれるものだと考えている。恐怖を忘れる勇敢さが、悪を克服するのだと信じて疑わない。
 それで事態が収束するのなら、ジュリアスも是と答えるのはやぶさかではないが、光希は赦さないだろう。
 かつて自ら命じたユニヴァースの公開懲罰が思いだされる。あの時の決断を後悔はしていないが、光希に耐え難いほどの負担を強いたことは理解している。
 この裁判の帰趨きすうは慎重に進めなければならない。
 しかし、アーナトラの不運は加速している。まるで悪魔に憑かれているみたいに。
 大衆心理は時に凶器となりえるが、それにも増して、この場所に悪意の磁場が渦巻いている気がしてならない。聴衆はもとより、冷静な異端審問官の表情にも、火箸でかきまわす熾火がちらついて見えるのだ。
「証言します」
 ジュリアスが席を立つと、その場にいあわせた全員の視線が彼に集中した。
 証言台に立ったジュリアスは、意図的に霊光ともいえる気韻をまとった。
「アーナトラには感謝すべきでしょう。彼のおかげで、解明の糸口を見つけられるかもしれないのですから。光希は工房ののみに怯えていました。アーナトラに対してではありません。のみが霊媒となり、工房を邪気で穢したのであれば、先ず神官を派遣し、清めるところから始めるべきでしょう」
 ジュリアスの迷いのないげんにより、聴衆の疑懼ぎくは癒やされ、表情に穏やかさが戻ってきた。
 西方諸国から崇敬される英雄の発言は、重要視される。とりわけ評議を決める場では、絶大な効果をもたらすのだ。
 席をおりていくアーナトラは、感謝の眼差しでジュリアスを見つめた。
 ジュリアスも視線で労う。アーナトラは立派だった。憔悴していながら、長時間に及ぶ質疑に極めて理性的に応じてみせた。
「次の裁判は、押収したのみの鑑識結果がでたあとにしてください。そして、彼の工房と、この裁判所も浄化のために祈祷を捧げてください」
 裁判長、そしてサリヴァンを順番に見つめると、ふたりとも頷いてみせた。
 異端審問官は不満げな顔をしているが、ジュリアスに冷ややかな一瞥を向けられて、異を唱えるような真似はしなかった。
「本日はこれにて閉会」
 静まり返った空間に、閉会の木槌が厳そかに響いた。