月狼聖杯記

8章:夜明けの鬨 - 5 -


 主君を守ろうと護衛達は殺気だったが、シェスラは構わずに手綱を引いて馬の腹を蹴った。力強い前脚が宙をかく。
「アルセウスッ!」
 棹立ちになった馬上で、シェスラは凛然と声をはりあげた。
 アルセウスは逃げなかった。いきり立つ護衛たちを視線で黙らせ、単騎で進みでる。立派な体躯をしており、焦茶の総髪を後ろで束ね、額に巻いた銀糸織の帯で押さえている。金糸で刺繍した上衣、血を浴びて暗紅色に輝く宝石をあしらった釦、上部の開いた長靴、黄金細工の飾り帯、それに細身の剣が支えられているが、彼の武器は、手に持った長槍である。
 シェスラのもつ双剣では、間合いに入ることすら許されないように思えて、ラギスの背に悪寒が走った。彼を護ろうと駆け寄ろうとしたが、
「いけません」
 厳しい眼差しをしたグレイヴに止められた。
「だが――」
「総大将同士の一騎相いっきあいです。邪魔をしてはいけません」
 ラギスは奥歯を噛みしめ、シェスラに視線を戻した。
 二人の総大将は、それぞれの甲冑を纏った近衛兵団たちに囲まれている。誰も手をだそうとはしていない。
「ようやく会えたな、アルセウス」
 シェスラは挑発的な笑みを浮かべていった。アルセウスは眼光鋭く、
「やってくれたな、セルトの若き王よ!」
「そなたを引きずりだすのは、骨が折れたぞ」
「奇策が成功していい気になっているようだが、アレッツィアの総力はこんなものではない。無敗の王といえど勝ち目はないぞ」
「そうは思わぬ」
「ここで引けば慈悲を与えよう」
「断る。その首貰うぞ」
「私怨に目が眩んだか!」
 アルセウスの挑発を、シェスラは鼻で嗤った。
「巨利のついでに、仇討ちの首級しるしがついてくるだけだ」
 アルセウスは顔をしかめたあと、余興を思いだしように、にやりと笑った。
「そういえば、イヴァンはどうしている? 音沙汰がないが、元気にしているのだろうか?」
 シェスラは笑みを消し、絶対零度の瞳で睨みつけた。アルセウスは狡猾に嗤った。
「愚かな男だったが、どうやら、貴様の不興を買うことはできたようだな」
「なかなか楽しませてもらったぞ。うっかり斬ってしまうほどに」
 アルセウスが高笑いした。
「は、は、はっ! 聖杯に触れることはできたのだろうか? 少し興味がある」
「私に殺されることが、それほど面白いか?」
 シェスラは残酷な愉悦をにじませていった。アルセウスの目に殺意が籠る。
「ぬかせ、若造」
 シェスラは凄艶な笑みで応えた。
「負ける気はまるでしないな」
 ふたりは威嚇しあうのをやめ、刃を構えた。沈黙が流れる。極限まで張り詰めた空気を先に破ったのは、アルセウスだった。
 千もの槍刀がシェスラに襲いかかる。だが、その全てをシェスラは避けきった。刃を受け流しながら馬上から跳躍し、宙返りで地面に降りる最中、アルセウスを乗せた馬の首を素早く突き刺した。
「ぐっ!」
 アルセウスは棹立ちになる馬を慌てて制御するが、もはや操縦は不可能と知り、大地に降りて槍を構えた。互いの護衛が、素早く馬の手綱を持って落ち着かせた。
 仕切り直し――シェスラは手首を使ってくるりと剣を回し、おもむろに双剣を構え直した。
 一拍、長槍の間合いに飛びこんだ。
 自殺行為に見えたが、双剣は鋭い閃光を発して斬り結び、長槍を操るアルセウスを圧倒し始めた。
 双剣の真骨頂は白兵戦で発揮される。見守る同胞たちの顔に、期待と興奮が輝いた。
 一方、アルセウスは焦燥を感じていた。相対するシェスラの技量たるや尋常ではなく、短い刀身のはずなのに、槍のように長大に感じる。避けるのに精いっぱいで攻められない。心臓は烈しく動悸を打ち、全身の筋肉が張り詰めている。
 長くはもたないことを悟り、アルセウスは勝負にでた。月狼の霊力をぎりぎりまで高め、二倍に膨れた剛腕で槍を構えた。
「シェスラッ!」
 ラギスは叫んだ。獰猛な心が唸りをあげている。敵に飛びかからぬよう、自分を律する必要があった。
 シェスラは動じることなく、剣に霊気を送りこんだ。次の瞬間、二人は刃を突きだした。
 鋼の響きが変わった。硬度を増した刃からは青い火花が飛び、足元のくさむらは踏みつける軍靴の踵に蹂躙された。
 永劫に続くかと思われた剣戟けんげきは、一瞬の隙をついて剣をくりだしたシェスラによって終止符を打たれた。霊気をまとった刃は、肩を深く切り裂いて骨肉を断ち切った。跳ね上がった血が、草原を濡らす。
「ぐっ……!」
 虚空をわしづかみにしながら、アルセウスは膝から頽れ落ちた。
 誰も動けなかった。辺りは水を打ったような静けさに包まれたのち、両陣営は対局の反応を示した。
「アルセウス様ッ!」
 彼に忠を捧げる護衛騎士達が、我を忘れてシェスラに襲いかかろうとした。即時にラギス達は動き、王を守る盾として列をなした。
「おのれぇッ」
 鬼の形相で迫る敵を、ラギスもロキも跳ね返した。鋼が火花散るほどの衝撃に、このまま激しい抗戦に突入するかと思われたが、そうはならなかった。
 経験豊富な敵の副将は、勝機が完全に潰えたことを冷静に理解していた。
 彼は、部下に散り散りになって敗走するよう指示をだし、自らは危険を顧みず、主のむくろを守り、その場から運びだそうとした。
 敵将の首を持ち帰ろうとしていた兵士たちは気色ばんだが、シェスラは手で制した。
「いかせてやれ」
 彼は冷静にいった。副将は感謝のこもった一礼で応え、その場から主を運びだした。
 勝敗は決した。
 夜が明けようとしている。
 戦場の曙光はレイール女神の象徴、吉兆である。
 黄金色に輝く雲の下、清らかな朝陽を浴びて、王は剣を天に掲げた。剣尖が地平線から射す一条の光をもらい受けて煌くと、次の瞬間、わっと喝采が起きた。
「「大王ロワ・アルファシェスラッ!」」
 神々しい姿に、ラギスも目を奪われた。彼こそは、神々の一柱ひとはしらにも匹敵する月狼の王アルファングだ。そう遠くない未来、必ずやドナロ大陸を一つにまとめる指導者になるだろう。
 歓呼を叫ぶ味方には目もくれず、シェスラはラギスの顔に視線を止めた。
 目が合った途端に、ラギスもクィンを降りて彼の傍に駆け寄った。じっと見つめあい、どちらからともなく抱き寄せた。そうすることが当然と思える、ごく自然な動作だった。
 周囲から歓声があがり、我に返ったラギスが身体を離すと、シェスラは輝くような笑みを浮かべていた。ラギスは頭を掻きながら、口を開いた。
「……よく、これだけの兵を隠せたな」
「地の利を活かすといったであろう? 包囲戦をしかけてきたアルセウスより、私の方が一枚上手だったということだ」
 彼に対する、幾つもの賞賛の言葉がラギスの脳裏を過ったが、そのどれも口にすることはしなかった。ただ、肩を力強く叩く。その仕草だけでシェスラには十分伝わった。