月狼聖杯記

8章:夜明けの鬨 - 6 -


 空はさまざまな彩を帯び始めていた。
 真上は深淵のように暗く、まわりは深い藍色であり、地平線に近づくにつれて薄まって、だいだいの線をうっすらと滲ませている。
 激戦をくぐり抜けた兵達は、さんたる日射しに安堵を覚えると同時に、照らされる凄惨な光景に顔をしかめもした。地に伏しているおびただしいむくろは深紅に染まっている。もはや月狼のなれの涯ては、咆哮することもなくただ沈黙するばかりだ。
 大地に爪痕を残し、勝敗は喫した。
 闘いは終わったのだ。
 城塞に帰還すると、いくさ帰趨きすうを決定づけたシェスラに、満身創痍で戻ってきた兵達に、労いと感謝の拍手喝采が送られた。感極まった領民のなかには、むせび泣きながら花道の前にひれ伏す者も少なくなかった。
 明日からは撤収準備と復旧活動に追われることになるが、今日は全将兵に自由行動が認められている。
 城内は領民に開放され、たっぷりの酒に食事が運ばれ、お祭り騒ぎになった。
 彼等は家族や恋人との再会を喜び、あるいは友人たちと酒盛りに興じた。ラギスもロキやオルフェ、グレイヴ達と大いに盛りあがり、途中で精魂尽き果てて眠るジリアンを部屋に運んでやったりもした。
 やがて陽が暮れると、闘いで昂った獣性を鎮めようと、多くの将兵達は紅灯のちまたへ繰りだしていった。
 意気揚々とでかけていく彼等を見て、ラギスは迷った。城に戻ってからもシェスラは始終忙しくしており、日中の間は近づけなかった。寝室で待っていれば、夜更けには戻ってくるかもしれないが……期待していると思われるのも、なんだか癪に障る。
(――気晴らしにいくか。今夜くらいはお咎めもないだろう)
 宿に泊まって、早朝に城へ戻れば問題ないはずだ。そう思い、兵士達のあとをついていくと、幾らも歩かぬうちに、ロキが隣に並んだ。
「どこへいく?」
「おう、ロキ。ちょうど花街にいくところだ。俺もお相手してもらいてぇ」
 ロキはぎょっとしたように目を瞠った。
「大王様と過ごさないのか?」
「男には男であるために、やらねばならいことがあるんだ」
「十分証明しただろう」
「だからこそ、あいつの閨に呼ばれるのはご免だ」
 ラギスは前を見据えたまま、厳しい表情で断固として告げた。ロキは口もとをひくつかせ、
「ばれたらタダじゃすまされないぞ」
「知ったことか」
「お前は無謀な真似をする」
「うるせぇ、いくぞ!」
 ラギスが力強く背中を叩くと、ロキは舌打ちをして、渋々ラギスの隣に並んだ。
 両側に燈火を灯した店が続く通りにでると、大勢の月狼で溢れていた。
 優雅に髪を結いあげ、鮮やかな花をさした女達が、勇猛な騎士達を労おうと、戸口の階段に腰かけたり、露台で頬杖をついていたりする。男達は、好みの女性の前で足をとめて挨拶を交わしたり、階下から口説き文句を叫んでいたりする。
 開け放された窓から、算盤を弾く商売人や、細々とした片づけをする老女の姿も見える。
 どこからか、哀しげなシターンの音色も聴こえてきた。家族や友人、或いは恋人を亡くした誰かが弔いの音を奏でているのだろう……旋律は豊穣な哀しい余響の波となり、雑多な音にいりまじって消えた。
 夜の街を、二人はゆっくり歩きながら、感慨深い思いで眺めていた。
 煌々と輝く酒場の窓に誘われ、入ってみると、大勢の客でにぎわっていた。室内は青銅製の明かりで照らされ、居心地のよさそうな民芸風の調度で調えられている。部屋の隅で、足の悪い老人が弦をかき鳴らし、若い娘が歌っていた。
 酒杯を片手に寛いでいた兵士達は、戸口に立つラギスとロキに気づくや、
「ラギス様!」
「ロキ様も!」
「ありがとうございます、ラギス様!」
 次々に喝采を叫び、口笛を吹いた。
 熱烈な歓迎に二人は戸惑いつつ、手をあげて応えた。丸卓の前に座ると、店主が気を利かせて、冷えた麦酒を二つもってきた。
「店の驕りです。凄まじく勇猛果敢、無敵だったと聞いておりますよ」
「悪いな」
 ラギスもロキも遠慮なく酒杯を煽った。その様子を見た兵士が、
不死身の猛将グィネス・イクスに!」
 声高に叫んで酒杯を掲げた。続々と、他の者も真似をする。ラギスは面食らったが、軽く酒杯を掲げてみせた。
「悪くない二つ名だな」
 ロキがからかった。
「あんただって猛将だ」
 ラギスが酒杯を掲げると、ロキは肩をすくめて、酒杯を突き合わせた。
「初陣にしては上出来だ。論功が楽しみだな」
 雑談をしていると、女が二人、隣に座った。若く蠱惑的な身体をしている。ロキは上から下まで値踏みするように眺めたあと、一人の手を取って立ちあがった。そのままいこうとはせず、諭すような目をラギスに向ける。
「俺は上にいくが、お前は帰った方がいいんじゃないか?」
「ああ?」
「王に見つかったら、ただじゃすまされないぞ」
「ふん」
「俺は忠告したからな」
 そういって、階段の方へ消えていく。舌打ちをするラギスの隣に、女が座った。
「貴方がラギスね?」
「……ああ」
 女は目を輝かせて喋り始めた。
(妙だな……)
 望んでいた展開のはずなのに、ラギスは不思議なほど冷静だった。少しも心が浮き立たない。
 媚びを売ってくる女の腰に手を回せば、嬉しそうにすり寄ってくる。手をとって二階の宿へあがることは簡単だ。それなのに、ちっとも食指が働かない。隣に美味しそうな身体つきの女が、腕に胸を押しつけてきているというのに。
 以前なら、微塵も躊躇わなかっただろう。貴族の饗宴に駆りだされ、女に指名されたことは一度や二度ではない。それなりに楽しんでいた。
(なんてこった……)
 こんなはずではなかった。発散するつもりでここへきたのに、渇望が深まっただけだ。欲しいのは女じゃない――白銀の髪と水晶の瞳をもつ月狼の王アルファングだ。
(……畜生、気づきたくなかったぜ)
 発情しているわけでもないのに、彼が欲しいだなんて。自分からシェスラの寝床に潜りこむところを想像して、思わず頭を壁に打ちつけたい気持ちになった。
(……いっそ、正体不明になるまで酔っぱらうか)
 ラギスは酒に救いを求めて、 の蒸留酒をあおった。焼けつく液体で体内の焔を鎮めようとする。タン、小気味いい音を立てて酒杯を卓に置くと、女が心得たように酒を注いだ。
「ねぇ……二階にいかない? 二人きりで飲みましょうよ」
 婀娜あだっぽく耳に囁かれ、ラギスは緩くかぶりを振った。
「あんたを欲しがる男なら、そこら中にいるだろ」
 いつまでも期待させては悪いと思い、ラギスはつれない態度をとった。
「そんなことをいわないで」
 女はしなをつくる。その時、辺りに冷気が流れこんだ。香しい柑橘の香に、ラギスはうめきたい衝動にかられた。
 シェスラだ。
 戸口に現れた月狼の王は、この場にいる誰よりも生彩を放っている。男も女も、一瞬焦がれるような視線を向けたが、ぞっとするほど張り詰めた空気、彼から発散される怒りを孕んだ覇気に、さっと視線を伏せた。すこぶる機嫌の悪い王を前にした時の、正しい月狼の反応である。
 ラギスは言葉もなく、シェスラの顔を見つめることしかできなかった。