月狼聖杯記
7章:過ちの代償 - 6 -
ラギスは舞踏場に戻らず、寝室に引き返そうとしていた。
義理なら十分に果たしたし、先ほど朝課の鐘が聞こえたから、そろそろ宴もお開きになるだろう。騒ぎたい連中は、勝手に朝まで饗宴を続ければいい。
それに、シェスラと顔をあわせるのは気まずいという事情もある。彼はいつ戻ってくるのだろう……ぼんやり考えていると、
「
不意に背中に声をかけられ、ラギスはぎょっとして振り返った。まるで気配を感じられなかった。数歩離れた廊下の隅に、見知らぬ男が
「誰だ?」
暗がりから、角灯を持った男が姿を現した。
「初めまして、ラギス様。私はギュオーの息子、イヴァンと申します」
ラギスは虚を突かれて押し黙った。次男は追放されたのではなかったか。
「イヴァン? なぜここに?」
「今夜は父に呼ばれたのです。先ほど着いたばかりで、ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
イヴァンは優雅にお辞儀をした。ラギスもつられたように会釈する。
独特の雰囲気を持つ青年だ。当世風の体に沿った衣装に身を包んでおり、紅茶色の長髪を緩く結わいて肩に垂らしている。面差しは、確かに兄弟達に似ている。瞳の色も同じ藍色だ。なかなかの美男子だが、
「悪いが、部屋に戻るところなんだ。シェスラなら大広間にいるだろう」
イヴァンはほほえんだ。
「ええ、先ほどお会いいたしました。大王様から、ラギス様が私をもてなしてくれるとお聞きして、お姿を探していたところです」
「……は?」
ラギスは目を瞠った。
「聖杯の味を、私にも賞味させていただけるそうですね」
「ッ、何をいっていやがる」
「違うのですか?」
あまりにも彼が平然と訊ねるので、ラギスは自信を失くして狼狽えた。
「あいつが、そういったのか?」
「ええ」
「冗談だろう」
「本当ですよ。一晩だけ、特別にお赦しをいただきました」
ラギスは怒りのあまり言葉を失った。心臓を憤怒に
「ご存じないようですね……なるほど、私が貴方を誘惑できるのなら、ということでしょうか」
「何をいっていやが――」
ラギスが掴みかかろうとした時、イヴァンは手にした角灯を、さっとラギスの目の前につきつけた。
揺らめく
「乱暴はおやめください。貴方の手にかかったら、私など一瞬で吹き飛んでしまいますよ」
橙の灯を見るうちに、ラギスの怒りは困惑へと変わっていった。思考がうまくまとまらない……
まさか、シェスラはこの為にラギスを連れてきたのだろうか? 外交の手段として聖杯を貸しだす為に?
否定しきれないところが辛い。疑惑が胸に渦巻き、心臓を引き絞られるような痛みが走った。
「あんたは家長に追放されたのじゃないのか」
イヴァンが完全に表情を消し去ったのは一瞬で、すぐに感じの良い笑みを浮かべた。
「私はネロアの生まれです。この土地のことは、知り尽くしております。広範な知識を我が
意外な展開にラギスは目を瞠った。寝耳に水ではあるが、シェスラの考えることなど理解できた試しがない。
「あんたは、シェスラの諜報をしているのか?」
「私が役に立つと証明できれば、ネロアの後継に後押ししていただけるお約束をいただいております。私はきっと証明できるでしょう」
「……役に立つようには、見えないがな」
「知識には金に匹敵する価値がありますよ。この見晴らしのよい平原の城塞で、我等が度重なる襲撃を凌いできたからくりを、私は全て記憶しております」
己の頭を指さし、イヴァンは学者のような口ぶりでいった。ラギスは鼻白んで、
「地下迷宮のことなら、シェスラは承知しているぞ。その情報に価値はないな」
「もちろん、大王様は存じあげているでしょう。ですが、ペルシニアはどうですか?」
息を呑むラギスを見て、イヴァンは口の端をもちあげた。
「大王様は、私の外交手腕を試しておいでなのです。ペルシニアを相手に間諜するというのなら、一度の逢瀬で、貴方を説得してみせろと私に命じました。“褒美に聖杯の味を教えてやろう”……とも」
その傲慢な台詞は、声の大きさ、抑揚に至るまで、正確にシェスラの声で脳裏に再現された。
裏切られた。
一瞬にして、どす黒い怒りが胸中に渦巻いた。耳の奥で血管が脈打ち始め、鼓動は一気に加速し、血中に月狼の闘争本能が放出される。憤怒、焦燥、嫌悪、増悪――熾烈な感情が金瞳を燃えあがらせた。
(……あの野郎ォッ)
結局、シェスラはラギスを駒としか見ていないのだ。
雨に打たれた夜から、彼の心を多少なりとも近くに感じられるように思っていたが、違ったのだ。
なんという茶番だろう!
あの男が見せた
(――やりやがった。救いあげてから奈落に突き落とすなんざ、芸が細かいじゃねぇか)
烈火の怒りに震えるラギスを見て、イヴァンは慎重に口を開いた。
「やはり、お嫌ですか? 無理にとは申しません。聖杯が王を慕うのは、当然のことです」
「俺は――」
器ではない、そういいかけて言葉を飲み込んだ。否定しようがない。ラギスはただの器に過ぎないことを、今まさに、残酷なまでに証明されてしまったのだから。
「……ですが、もしご協力いただけるのなら、
ラギスはじっと男を見据えた。この男の言葉を鵜呑みにしていいのか? 今すぐシェスラの元へいけ。いって確かめてこい――理性が忠告を囁いている。
イヴァンはラギスの瞳のなかに浮かぶ疑念を見て、唇に指を押し当てた。
「シィ、どうかお静かに……これは私と貴方との、内密な交渉です。他者を交えるような無粋はおやめましょう」
イヴァンは手にさげた角灯を再び目の高さまでもちあげ、ラギスの前にちらつかせた。柔らかな光がイヴァンの輪郭を浮きあがらせている……甘ったるい匂いが漂い、ラギスはくらくらする頭を押さえた。
(……そもそも、この男はどうやって知ったのだろう? 汚れた記憶を……俺がシェスラに何をされていたのか……どうやって……シェスラが話したのか……?)
胸に沸き起こった疑問の数々は、ラギスの激昂を鎮め、代わりに混沌の泉へと突き落とした。それらは口をついて飛びだした気もするが、ラギスは半ば朦朧としていて、何を口走ったのか自覚がなかった。
「……ラギス様。私に聖杯の味を知る栄誉をお与えくださいませんか?」
イヴァンが優しく囁く。ラギスは返事に詰まった。馬鹿げていると思いつつ、どういうわけか背を向けることができない。
「ご免蒙る。シェスラは……本当に、俺を貸すと……」
イヴァンは淡くほほえんだ。
「ええ。もっとも、私のささやかな外交の
「……あんたは、それでいいのか? 王の口添えが欲しいんじゃないのか?」
「ですが、一夜を共にしてはいただけないのでしょう?」
「……」
「ならば、私の忠誠もこれまで。ふふ……こう見えてなかなか逞しいのです。アレッツィアに加勢して、力づくでネロアを奪いとりますよ」
躊躇いも苦痛もなく、まるで日常会話をするかのように、イヴァンは無邪気にいった。
「あの方は偉大ですが、眩しすぎて直視できない者も多い……私の兄も、王の威光にすっかり怯えてしまっている」
「……何がいいたい?」
「このままでは、大王様はネロアを味方につけることはできないでしょうね」
ラギスは言葉に詰まった。考えていることが混線して、正しい判断が判らなくなっている。
シェスラの裏切りを責めたが、裏を返せば、それだけ状況が差し迫っているということなのかもしれない。だからといって、到底受け入れらる事態ではないが――
「私はこの土地の生まれです。からくりは知り尽くしております」
「……証明できるのか?」
「炊事場や厩舎にも秘密があるのです。父は猜疑心が強い。全てを我が
「……他に、何を知っている」
「この続きは、一夜を共にしていただけるのなら、お教えいたしましょう……」
イヴァンは妖しく囁いた。ラギスは唸った。放蕩者の印象は霧散霧消せしめ、狡猾な密使、毒のような魔術師に思えてならない。
彼から漂う、妙な匂いのせいだ。冷静に考えようとする傍から、思考を複雑怪奇に乱される。
「それをよこせ」
角灯を奪おうとするラギスの腕をよけて、イヴァンは器用にラギスに身を寄せた。
「あぁ、なんと魅惑的な香りなのか……このような賭けがなくとも、私は貴方の虜です。味見したくてたまらない」
顔をしかめるラギスを、イヴァンは陶酔しきった顔で仰いだ。
「ねぇ、ラギス様。たった一夜で良いのです……私に夢を見させていただけませんか?」
拒否を口にしようとして、ラギスは押し黙った。唐突に、無限の虚しさに襲われた。何もかもが、どうでも良く感じられた。目も見えるし、耳も聞こえるが、精神は置き去りになり理解しない。イヴァンの誘惑の笑みも、声も、無意味に意識の表面を滑っていく。
「たった一夜……あの夜のように……」
イヴァンが囁く。そう、あの饗宴の夜の繰り返しだ……無感動状態に陥り、虚ろな表情を浮かべるラギスを見て、イヴァンは優しくほほえんだ。
伸びてくる手を、ラギスは無言で見つめていた。黄金の瞳の輝きは諦念に翳ってゆく……