月狼聖杯記
7章:過ちの代償 - 5 -
ベルタルダ城にきて六日。
月狼銀毛騎士団は、すっかりネロアに馴染んでいた。日中は軍事訓練をしているが、夜は自由に賭博や
そうした穏やかな光景を見ていると、これからアレッツィアとの闘いが始まるとはとても思えなかった。
だが、明日はアミラダの予言した月蝕の日。夜陰に紛れてアレッツィア勢が攻めてくるはずである。
天文学士達の努力が功を奏し、月蝕を恐れていた将兵らにも、ようやく科学的思考が浸透していた。
今宵もシェスラの計らいで月蝕前夜祭が催され、将兵らを平等に招いている。これにより、彼等の月蝕に対する心象はもはや凶兆ではなく、戦前の高揚をもたらす
ただその他の面で万全の準備ができているかと訊かれたら、ラギスも首をひねるところだ。陣容をシェスラは未だに隠しているし、インディゴの配置も明かさない。彼の考えていることを把握するのは容易ではなかった。
明日には翳るであろう夜空には、無数の星屑が瞬いている。細い三日月が城都の真上に昇り、白い光を投げかけて幻想的だ。
舞踏場は多彩な色に輝いている。
天井から垂れ下がる円環の燭台に灯された無数の火が、床や壁、さざめき笑う高貴な人々を、
屋内部は蝋燭の暖色に照らされているが、上へいくにつれて、蒼の輝きへと変化していく。丸天井の頂点周辺には硝子板がはめこまれ、黄金の月が輝く、星屑の散った夜空を眺めることができた。
地上の楽園で、楽師が金線をはった弦楽器や
耽美な雰囲気の中、シェスラは眩い光芒を放っていた。
会場の視線を独占している。男も女も、彼を見て陶酔に陥り、頬を染めている。彼は、今夜は誰に対しても感じよく振る舞っていて、女に声をかけられると拒むことなく手をとった。細腰を腕に抱いて、軽やかに舞う姿は実に絵になっている。
その様子を、ラギスは壁にもたれながら無表情に眺めていた。シェスラが魅力的な笑みを浮かべる度に、どういうわけか不愉快になりながら。
(……畜生、断じて嫉妬じゃないからな)
腹立たしさの理由を理性でねじ伏せようとするが、表層にひびが入りそうだ。苛立つなら見なければいいのだが、向こうが勝手に視界に入ってくるのだ。
(ああやって正装して踊っていると、育ちのいいお坊ちゃんに見えるな。ったく、器用な奴だぜ……)
ふと視線が絡み、ラギスは息を呑んだ。シェスラがラギスを見つめて謎めいた微笑を浮かべると、なぜか身体が火照り、鼓動まで速くなった。
視線が外されると、周囲の温度が下がったように感じられた。全くもって癪に障る。これだけ大勢が集まっているのに、たった一人を痛烈に意識させられるのは何故なのだろう?
(あいつのことなんか気にしてもしょうがないだろ……今夜は愛想がいいのは、必要だからそうしているだけだ)
ラギスは自分にいい聞かせた。シェスラはただ饗宴を楽しんでいるわけではない。今夜は山岳の部族長も招かれており、彼等とラピニシア攻略の算段をつけることが、彼の最大の目的なのだ。
その証拠に、彼は踊り終えたあとは女の傍を離れ、垂れ下がる紗の向こうに族長たちと共に消えた。
うっすらとした陰影を眺めていると、長身の女性が近づいてきた。モルガナだ。巧みに
「
差し伸べられた手を、ラギスは恭しくとった。彼女がぐっとくるいい女ということもあるが、族長の娘の誘いを断るわけにもいかないからだった。
音楽が鳴り、二人は弧を描きながら優雅に踊り始めた。
「上手だわ」
「ありがとよ」
モルガナも踊りに長けていたが、ラギスも悪くなかった。それどころか、周囲の視線を集めるくらいには、二人の踊りは魅力的だった。
「もっと武骨な人かと思ったわ」
無言で細腰を支えるラギスに、美女は愉しそうな声をあげて笑った。
「褒めているのよ」
「それはどうも」
気のない返事をしつつ、音にあわせて足は優雅に弧を描き、絹を華やかに翻す。かつて評判の奴隷剣闘士として、貴族達の饗宴につき合わされていたラギスには、それなりに社交の心得があった。
「貴方は王の聖杯なのよね」
熱の籠った視線を向けられて、ラギスは無意識に強く腰を引き寄せた。モルガナは呻きとも喘ぎともつかぬ吐息を零す。
「……貴方に抱かれたら、どんなかしらね」
モルガナは、盛りあがった胸をラギスの分厚い胸に押し当てた。素晴らしく柔らかな感触をラギスは気に入ったが、次の瞬間、鋭い視線が背中に突き刺さり、うなじの毛が逆立った。
「ふふ、熱い視線が突き刺さるわ。ぞくぞくしちゃう」
モルガナは声をあげて笑った。藍色の瞳には悪戯っぽい光が浮かんでいる。ラギスも、焦げつきそうな水晶の視線に気づかないふりをして、唇に笑みを浮かべた。
「俺は、ここにいる全員の男から妬まれているな」
「やぁね、違うわ。判っているのでしょう? ……ほら、誰かさんが、貴方を攫いにきてしまいそう」
美女は立場を弁えるように一歩下がると、悠然とやってくるシェスラに向かって、優雅にお辞儀をした。
「
「
その声には僅かな牽制が滲んでいた。
「私の相手もしてくれないか、ラギス」
シェスラは舌で愛撫するようにラギスの名前をつけ加えた。ラギスが返事をできずにいると、室温はネヴァール山頂なみまで一気に低下した。
「傍へこい」
優雅だが、苛立ったように、有無をいわせぬ力でラギスの腰を抱き寄せる。
「おい、まさか踊ろうっていうんじゃないだろうな」
警戒の滲んだ声でラギスが耳元に囁くと、シェスラはからかうような眼差しを向けてきた。
「それもいいな」
「冗談じゃねぇぞ!」
「そなたが踊れるとは知らなかった。なかなか上手だったぞ」
シェスラは笑った。彼がテラスの方へ誘導しようとしていることに気がついて、ラギスは戸惑いつつ大人しく従った。
「外へでるのか?」
饗宴の灯、軽やかな音楽の演奏から遠ざかっていく。
星明りに照らされて、蒼黒く浮かびあがる高い峰を背に、二人は森の濃い暗闇の中へ彷徨いこんだ。
「おい、どこまでいくんだよ?」
ラギスはうさん臭そうに訊ねた。更に文句をいおうとしたが、シェスラが振り向いた途端に息を呑んだ。研ぎすまれた、氷の刃のような光。全てを覆いつくす闇の中、シェスラの水晶の瞳が青い光を放っている。
「ラギス……いい忘れていたが、モルガナに手をだすなよ。他の誰であっても、色目を使ったら許さぬ」
「はぁ?」
高圧的な物言いにラギスは眉をひそめた。
「そっちこそ、楽しんでいるように見えたぜ」
「ただの社交だ」
「ああ、そうだろうよ」
ラギスが鼻を鳴らすと、シェスラは鋭い目つきになった。ラギスを幹に押しつけ、蹴るようにして足を開かせ、間に身体を滑りこませた。
「おいっ」
ラギスはかっとなったが、朱金の光彩を放つ瞳を見て動けなくなった。シェスラの顔には、獲物を前にした月狼の微笑みが浮かんでいる。
「ラギス……」
突然、衝動的な熱い欲望に襲われたかのように、シェスラが唇に唇を押し当ててきた。甘美な震えが全身を駆け巡る。
「んッ」
深くて濃厚な、服従を迫るような口づけは、ラギスの思考を一瞬にして砕いた。たまらず咽の奥から低いうめき声が漏れる。膨れあがる獣性に焦り、シェスラの肩に指を食いこませた。
「やめろっ」
「断る」
朱く腫れた唇でシェスラが囁く。首を伸ばして、再び唇を重ねる。全てを奪いつくすような渇望が論理を砕き、ラギスは独占欲と激しい欲望に支配された。
「ん、んッ」
息もつけないほど、野性的で獰猛な口づけに溺れる。布の上から親指で乳首を探られ、恍惚となりかけた。その時、小さな物音がして、一条の理性の光が脳裏に射しこんだ。
こんなところで発情するわけにはいかない。ラギスは本気でシェスラの肩を押しのけた。
「いい加減にしろ!」
彼の瞳にも、金色の筋が放射状に延びて、獣性の
「正気か?」
刺繍の入った襟を掴むと、シェスラは夜会を抜けだしてきたことを思いだしたように目を瞬いた。
「……確かに、褥の方が良いな」
「所構わず盛るんじゃねぇよ! お前の顔を立てる宴なんだろ? 人がせっかくお行儀よくしてやってるのに、あんたがぶち壊してどうするんだ」
ラギスは鼻を鳴らすと、踵を返した。冷静を装っているが、心臓は烈しく動悸を打っている。
(あいつといると、俺は万年発情期なんじゃないか? 勘弁してくれ……ッ)
肉欲の狂気の恐ろしさを噛みしめながら、ラギスは大股で森を引き返していった。
一方、残されたシェスラの方も、
全く、自分らしくない――困惑と苛立ちがこみあげ、さっきまでラギスを押しつけていた幹に拳を叩きこんだ。こんな風に当たり散らすのも、久しくなかった行為だ。
(全く、私はどうしてしまったんだ?)
これ以上ラギスのことを考えていたら、愚かな行動に走ってしまいそうで、シェスラは会場に集まっている同胞達に漠然と意識を向けた。ラギスの気配、声、匂いを辿る無意識の探知を一つ一つ遮断していった。
だがシェスラは、この時の判断を永く悔いることになる。