月狼聖杯記

7章:過ちの代償 - 4 -


 ベルタルダ城にきて三日。
 シェスラはネロア領の近くに布陣を敷いてから、一向に動こうとしなかった。そればかりか、既に布陣しているネロアの兵団に、少しずつ野営地をさげるよう指示した。これにはギュオーも困惑し、増兵した今こそ仕掛けようとシェスラに訴えたが、彼は譲らなかった。
 日中は訓練に汗を流すが、夜は十分な休息を与えられ、アレッツィアの侵攻に備えて殺気立っていた将兵らの気は緩んだ。それは領民にも伝播でんぱした。誰もが、セルト国から援軍がきたのだから安泰だ、そんな顔をしている。
 近隣へ警邏隊は以前にも増して送りこんでいるものの、兵団規模は縮小している。野営地の殆どを撤収させ、彼等をネロアの城塞に招集している為、昼間は中庭で鍛錬をするのが皆の日課になりつつある。
 日中はラギスやロキも、ネロアの兵と共に練兵場で剣の稽古をしている。ギュオーの子供達、ラハヴにガルシア、モルガナも混じって練習をする。
 三人とも剣筋は悪くなかった。ラハヴの剣はお行儀が良すぎて戦場には向かないが、本人は一所懸命で、周囲もなんだかんだで指導してしまう。ガルシアは才はあるのだが、身体が弱く、半刻もすると息が切れてしまう。モルガナが止めに入ると、がっかりした顔で剣をおろす姿は、周囲の憐れみを誘っていた。
 最も優秀なのはモルガナだ。彼女は騎士団の稽古についていけるほど技術が高かった。
 シェスラの指示により、将兵らは剣術稽古のほかに、戦略戦術と天文学の座学も受けていた。彼はわざわざドミナス・アロから専門の天文学士を連れてきていたのである。月の満ち欠けや翳りに怯えるネロアの将兵らに、神霊の類でなく事実科学的な現象であると繰り返し説明させる為だ。
 月狼は月明かりから霊力を得る種族である為、古来より月の翳りは凶兆とみなされてきた。そういった夜には外を出歩かないことが常だ。
 だが、アミラダの予言では闘いの晩は月が翳るのだ。有事の際に怯えて闘えないようでは困る。
 とはいえ、生来より沁みついている意識を変えることは容易ではなく、天文学士達はなかなか苦労しているようだった。

 ベルタルダ城にきて、四日目の早朝。
 シェスラはラギスを連れて、ギュオー達と共に月狼の姿で森へ分け入った。
 ネロアの森は晩秋に美しい。金色の陽光が木々の合間から零れ、木漏れ日が色づく紅葉をいっそう輝かせている。研ぎ澄まされた嗅覚と聴覚を解放すると、月狼として具わっている闘争本能が昂った。
 ラギスは大きな猪を仕留めて、意気揚々と野営地に戻ったが、シェスラは更に見事な牡鹿を仕留めて、周囲の賞賛をほしいままにしていた。彼は水晶の瞳を煌かせ、やってきたラギスを誇らしげに見つめた。
『ふん、俺の方が大きいぞ』
 ラギスが声なき念を調べに乗せて囁くと、シェスラは小さく笑った。
『そのようだな』
 傍に寄ろうとしないラギスを見て、シェスラは牡鹿の首を咥えて、ラギスの傍に持ち寄ろうとした。獲物をつがいに与えようとする、月狼の本能からくる求愛行動だ。
 そのような行動をとられるとは思っておらず、ラギスは面くらって数歩後ずさりした。
『……おい、見られるぞ』
『構わぬ。そなたに』
 シェスラは念で囁く。その美しい調べを聞くと、ラギスの躊躇いは霧散した。大人しく傍により、シェスラの首筋に頭を寄せる。シェスラも同じようにして、首を擦りつけてきた。
 念は相手の心の全てを読みとれるわけではないが、部分的に重なりあう気持ちを伝えてくれる。
 この時、二人の波長はぴたりと重なっていた。そよ風に梢が揺れるように、自然な動きでお互いの顔を押し当て、匂いを嗅ぎ、心を通わせる。
 世界はとても静かだった。
 神聖な沈黙が流れている間、ラギスは首を絡めてじっとしていたが、小鳥が枝を蹴って飛んでいく音に我に返った。
 辺りに月狼の姿は見えないが、遠慮がちに、こちらをうかがっている気配はする。
『……狩に興じている場合じゃねぇよな』
 狩が思いのほか楽しくて夢中になってしまった。アレッツィアの脅威がすぐ近くに迫っているというのに。
『直ぐに闘いが始まる。気晴らしできるのも今のうちだ』
 シェスラは寛いだ様子でいった。
『ネロアにきてから、気晴らしばかりしている気がするぞ』
『休息も大切な務めだ。敵の油断を誘い、兵士達に娯楽を提供し、一石二鳥ではないか』
 確かに、皆の明るい顔を見れば、今日の狩りが張り詰めていた心をやわらげることに成功したといわざるをえないだろう。
 ラハヴも人形ひとがたで狩りについてきたものの、乗馬に不慣れなようで、二度ばかり転げ落ちて腰を打っていた。周囲は慌てたが、彼が恥ずかしそうに頭を掻くと、笑い声がこだました。剣はからっきしで抜けたところのある青年だが、愛嬌がある。
 身体の弱いガルシアも、狩りについていきたそうにしていたが、モルガナとラハヴに止められ、かわいそうに断念していた。
 モルガナの狩りの腕は素晴らしかった。勇ましく弓を引く姿をラギスは度々賞賛の目で眺め、シェスラに睨まれたりもした。
 数日を過ごしただけだが、ラギスはネロアの気のいい連中のことが好きになり始めていた。

 美しい憂愁の黄昏が迫り、狩は終了した。
 月狼達が意気揚々と獲物を城に持ち帰ると、その日の晩餐にすべく、料理人達がやってきた。かなりの量があるので、一部を調理に使い、残りは塩漬けや燻製にして、冬の備えとするようだ。
 風呂好きな連中は我先に城へ入っていったが、ラギスはすぐに戻らず、屠殺場で苦心して獲物をばらしている召使達を手伝うことにした。
 獲物を前に屈みこんでいる少年の横から、ラギスはぬっと巨躯を割りこませた。
「騎士様!」
 ぎょっとしている小柄な少年を脇にどけて、ラギスは腰から短剣を抜いた。
「そっちにいって、頭を押さえてろ」
「は、はい」
 狼狽えていた少年は、鮮やかなラギスの手元を見るうちに瞳を輝かせた。
 ラギスが手際よく硬い毛皮を剥ぎとり、血抜きを終えて肉を削いでいると、前掛けをしたモルガナが現れた。
「やめておけ、お嬢さん」
 ラギスがいうと、モルガナは不敵に笑った。
「平気よ。普段からしているもの」
 嘘ではないらしく、なたで肉を剥ぐ手つきはなかなか堂に入っている。
「今夜はご馳走だな」
「ええ、楽しみだわ」
「ここの住人は親切だな。皆気さくに声をかけてくれるから、一族の顔は大体覚えたぞ」
「どうもありがとう」
 モルガナはにっこり笑った。
「会っていないのは次男だけだな。今どこにいるんだ?」
「さぁ、どこかで酔い潰れているんじゃないかしら」
 モルガナはほつれた前髪を、うっとおしそうに腕ではらいながら答えた。
 冷めた口調に意表を突かれて、ラギスがじっと見つめていると、モルガナは決まり悪げな表情を浮かべた。
「……イヴァンは一族の恥辱よ。何度いっても、酒をやめられないの。泥酔して無辜むこの民に酷いことをする」
「モルガナにも?」
「私は平気。やり返せるもの。でも、反抗できない哀れな娘が純血を奪われたわ。私の侍女も被害にあっているの。自害するほど思いつめたのよ……あいつは最低よ」
 藍色の瞳に怒りの焔が宿るのを見て、ラギスも同調するように顔も知らぬイヴァンに怒りを覚えた。
「ギュオーは何もいわないのか?」
「父と対立してからは、顔を合わせようとしないのよ……父に毒を盛ったこともあるの」
「実の父親にか」
 モルガナは顔を少しあげて、虚空に視線を固定したまま、昏い声でいった。
「あいつは月狼の皮を被った全身悪意のかたまりなの。邪悪な悪魔よ。父もついに諦めてネロアから追放したわけ。今どこにいるのか、知るよしもないわ」
「こみ入った事情があるんだな……だが、ギュオーにはラハヴもガルシアも、あんたもいる。ネロアは安泰だな」
 励ますようにラギスはいった。その言葉に、モルガナの表情も幾らか和らいだ。発言を悔いるように、恥ずかしそうにしながら、口を開いた。
「そうね……ごめんなさい。貴方にいうべきではなかったわ。父とラハヴのことは、どうか公平に見てくださいね」
「判っている。彼等は信用に足りうる月狼だ」
 ラギスが即答すると、モルガナはほっとしたように肩から力を抜いた。空気を変えるように、気さくな笑みを浮かべた。
「この大変な時に、よくきてくれたわ。本当に感謝しているの。それに、大王様にお会いするのを子供の頃から夢に見ていたのよ」
「期待通りか?」
「それ以上だわ! お傍にいると、覇気がびりびり伝わってきて鳥肌が立つのよ。おまけに氷像のようにお美しいし……あんな御方は二人といない。この大陸で最高の月狼よ」
 べた褒めっぷりが癪に障り、ラギスは鼻を鳴らした。モルガナは瞳を煌かせてラギスを見た。
「貴方も素敵よ。実をいうと、剣闘士を聖杯に召しあげたと聞いた時は、冗談だと思ったのだけれど」
「だろうな。俺は今でも信じられん」
 モルガナはほほえんで、ラギスの肩をとんと叩いた。
「お似合いよ。あんなにも強くて美しい、公明正大な御方に愛されて幸せね。私もそろそろ夫を探さないといけないけれど、彼に匹敵する男を探そうと思ったら、それこそ海を越えていかなくちゃならないわ!」
「あいつが公明正大かどうかは疑問だが、あんたなら良縁に恵まれるだろう」
 朗らかに笑う美女を見て、ラギスはなんともいえぬ奇妙な心地を味わった。
(お似合いねぇ……俺とシェスラが?)
 馬鹿な。
 本気で殺し合いをしていた仲だと知ったら、彼女はどう思うのだろう?
(愛されているだと? へっ、そんなわけあるかよ)
 そう思いつつ、シェスラがギュオーの申し出をはっきりと断っていたことを思いだした。これほど聡明な美女を、しかもネロアの領主の娘という申し分のない身分の女だというのに、彼は一遍の躊躇もなく、ラギスを唯一無二の伴侶といいきった。
(……酔狂だな)
 ラギスは心のなかで悪態をついた。なんとも形容し難い、奇妙で魅惑的な、むず痒い感覚に襲われながら。