月狼聖杯記

7章:過ちの代償 - 3 -


 ギュオーは長男のラハヴを伴い、シェスラ達に城塞を案内して回った。
 途中で練兵場の傍を通ると、一行はしばし足を止めた。鋼の鳴り合う音、勇ましいかけ声が聞こえる。兵の質は悪くない。少し眺めただけでも、日頃からよく鍛錬していることが見てとれた。
 素朴な城塞ながら、活気があり居心地がよく、どこを見ても堅牢な造りをしている。
 四方を高い壁に囲まれた城塞都市は、北と南に立派な楼門があり、内側には黄金のかんぬきが差してある。これならば、例え巨像が体当たりをしても、びくともしないであろう。
 外郭の視察が終わり、ギュオーはいよいよ城の最深部へと一行を案内した。門番が睨みを利かせている地下門の前までやってくると、彼は思慮深い眼差しをシェスラに向けた。
「この先は、大王様にのみお見せしたく存じます」
 臣下の礼をとるギュオーを見て、シェスラは口を開いた。
「ここにいるのは、私と運命を共にする、つがいと乳兄弟達だ。案ずることはない」
 ギュオーは眉間にしわを寄せ、一人一人の顔に目を注ぎ、やがて納得したように頷いた。
「……かしこまりました。それでは、皆様にお見せいたしましょう。ネロアのもう一つの姿を」
 ギュオーは松明を手に、薄暗い階段をおりていった。進むうちに辺りは真っ暗になり、松明がなければ一寸先も見えぬ闇に包まれた。空気はいっそうひんやりとして、軍靴ぐんかの音が石壁に反響して聞こえた。
「ネロアは見晴らしの良い平原の城塞です。狙われやすい立地にありながら、何百年もの自治を助けてきた仕掛けが、これです」
 ギュオーの声がこだまを返して重々しく響き渡る。炎が濃密な暗闇に投げかけられると、ラギスは目を瞠った。森閑しんかんとした迷路の如し回廊が、延々網目のように続いているではないか。
「ほぉ……よくこれだけの規模を築きあげたな」
 感心した口ぶりでシェスラはいった。ギュオーは重々しく頷き、四方を照らすように、手にした松明をゆっくりとめぐらせた。
「我が一族に伝わる、地下迷宮です」
「よく見せてくれた。忠誠を嬉しく思うぞ」
 族長は背を伸ばし、恭しく一礼した。ネロアの秘密を明かした意味を、王はきちんと理解してくれたと思ったからだ。
「お一人では決して入られぬよう、くれぐれもお気をつけください。生きてでられる保証はいたしません」
 その言葉の通り、案内人がいなければ無事に出入りできないだろう。
 夜目の利く月狼といえど、光も届かぬ闇では歩けない。明りがあったとしても、同じ石柱が延々と並ぶ光景は、視覚的に混乱する。おまけに、嗅覚を狂わせる独特な香が焚かれており、至るところに侵入者を搦め捕る、恐ろしい仕掛けまである。侵入を試み、罠にかかって白骨化した躯が幾つも転がっていた。
「では、しかと記憶しておくとしよう」
 どこか楽しげにいうシェスラの言葉を、ギュオーは冗談だと受け止めた。だがシェスラは本気だった。常人であれば完全に道を見失うところ、彼はその明晰めいせきな頭脳で、道を確実に記憶しようとし、可能なだけの能力を秘めていた。
 ラギスも最初は道筋を覚えようと努力していたが、半刻も経たぬうちに断念した。ここに一人放りこまれたら、無限迷宮を彷徨うことになるだろう。
 地下迷宮を脱出する頃には、数刻が過ぎていた。
 シェスラはともかく、ラギスは完全に時間の感覚が失せており、黄昏に染まる空を仰いで驚いた。
 暮れゆく斜陽は、城のまわりに拡がるネロアの地の、広漠の大平原を金色に染めあげている。遠くには連山が薄蒼く霞み、優美な大鷹が風に乗って空を流れていく。
「今日のところはここまでにしましょう。晩餐の準備ができております」
 ギュオーの言葉にシェスラは頷いた。
 大広間にはギュオーの一族が集まっており、音楽に豪勢な食事、上等の葡萄酒と地酒でシェスラ達を盛大にもてなした。
 夜も更けた頃にラギスとシェスラは、塔で一番上等な客室へ案内された。
 ラギスが寝室に足を踏み入れると、月明かりが部屋を銀灰色に照らしていた。天井には黄金板が張られ、寝台には天鵞絨びろうどのクッションが積み重なっている。
歩哨ほしょうの交代を知らせる法螺貝の音が、薄く開いた窓から聴こえてきた。窓辺に寄れば、冷たい夜気が酒で火照った肌を舐めていく。
 美しい眺望だ。月が明るく城の周囲を照らしていて、夜の風にそよぐ茂みが銀色の波のように見える。しばらく見惚れれていたが、不意に心を酔わせる柑橘の香りに鼻腔をくすぐられた。
 湯浴みを終えたばかりのしどけない姿で、シェスラが寝室に入ってきた。ラギスはごくりと唾を飲みこんだことを誤魔化すように、夜空を仰いだ。
「いい眺めだな」
「そうだな」
 隣に並んだシェスラは、ラギスの腰に軽く手を置き、夜空を仰いだ。本人は無意識なのだろうが、眩いばかりの銀糸の髪を煌かせ、空を仰ぐ姿は非常に絵になる光景だった。図らずも目を奪われてしまい、ラギスは意識して視線を逸らした。
「インディゴはまだ戻らないのか?」
 彼とは行軍の途中で別れたっきりだ。三百の小隊を連れてどこへ消えたのか、ラギスはずっと気に懸けていた。
「彼には現場待機を命じている。これから大仕事があるからな」
「どこにいるんだよ?」
「じきに判る」
「だから、いつ判るんだよ? もうネロアに着いちまったじゃねぇか」
「もうしばらく別行動をとる。こっちも色々と忙しいぞ。明日はネロアの領地の視察だ。部族の長達と話をせねばならぬ。宴に狩猟もしなければな」
「はぁ?」
 呆れたように呟くラギスの手を、シェスラはそっと掴んで引き寄せた。
「狩はそなたもいこう」
 シェスラは指先でラギスの頬をつついた。嫌そうに顔を背けるラギスの手をとり、甲に唇を押し当てる。息をのむラギスの目を見つめたまま、誘惑するように肌を吸いあげた。
「また森を駆ける黒狼の姿を見せてくれないか……」
 ラギスの下腹部がどくりと脈打った。肌着の下で胸の頂が尖るのを感じ、うんざりしてため息をつく。
「やめろ。人の城で盛るんじゃねぇよ」
 ラギスはそっけなく掴まれている指先をとり返した。シェスラの顔にちらりと浮かぶ失望の色に気づかぬふりをして、言葉を続ける。
「いいか、この城にいる間は無断で俺に触るんじゃないぞ」
 シェスラの表情が穏やかで柔らかなものから、冷たいものへと変化した。
「寝室を共にするつがいに、なぜ触れてはならぬ」
「他所で、ましてや合戦が迫っているのに、色ぼけしているわけにもいかないだろ。それに、聖杯の匂いが増すのもごめんだ」
「一生触れるなとでもいうつもりか? 外では嫌だとそなたがいうから、野営では手をだすのを控えたというのに」
「知るか。忍耐だ、忍耐」
 ラギスは腕を組んでいい放った。シェスラの機嫌が下降していく。彼は、野営で張った薄い天幕のなかで、度々ラギスに迫ってきた。危うく誘惑されかけながら、ラギスは一度も応じなかった。だからといって、ネロアについたから解禁というつもりもない。
「なぁ、本気で宴や狩をするつもりなのか?」
「ああ」
「遊びにきているわけじゃねぇんだぞ。他にすべきことがあるだろう? 布陣を整えておくんじゃなかったのか」
「もう始めている」
「は?」
 ラギスはシェスラの整った横顔を見つめた。表情からは、彼が何を考えているのかまるで判らない。
「昼間いっていた、勝算があるというのは本当なのか?」
 空気を変えるように問いかけると、シェスラは肩眉をはねあげた。
「あるに決まっている」
 つんと顔を背けて、高飛車にいった。
「万軍をどう五百で滅ぼすんだ?」
「無論、地下迷宮を利用するに決まっている。そなたも見たであろう」
「そうだが、あそこへ敵を誘いこもうってのか? どうやって?」
「時が満ちれば判る」
「今教えろよ」
 シェスラが澄まし顔で無言を貫くので、ラギスは低く唸った。先ほどの意趣返しのつもりなのか、答えを焦らして楽しんでいるようだ。
「ちっ、もったいつけやがって……いいけどよ、負けたら容赦しねぇからな」
 尾を左右に払い、苛立たしげにラギスはいった。その威圧的な眼差しを臆することなく真向から受け止め、シェスラは腹立たしいほどに魅力的な、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「期待しておくといい。見事勝利した暁には、そうだな……そなたにたっぷり労ってもらうとしようか」
 嫣然えんぜんとした流し目を送られ、ラギスの息は止まりかけた。聞こえなかったふりをして、そっと視線をそらした。