月狼聖杯記
6章:眠れぬ夜に - 8 -
美しい平野に、風が渡っていく。
ラギスとシェスラは、
二人の心は逸った。
月光を浴びながら月狼に転じる――指から鉤爪が飛びだし、歯が鋭く尖り、筋肉と四肢が力強く変化していく。長い毛が身体の両側から密集して生えだし、猛烈な勢いで全身を覆っていく。
四つ足で大地を踏み締めた時、途方もない解放感が、
力強い前脚で地面を踏みしめる。流れてくる空気を吸いこみ、肺を膨らませる。嗅覚、視覚、霊感――あらゆる感覚が研ぎ澄まされ、月狼の血が踊った。
ラギスは、鋭敏になった嗅覚で森の豊かな香を楽しみつつ、王の香にくらくらしていた。困ったことに、人の姿でいる時よりも月狼でいる時の方が、彼の支配は強まる。
白銀の狼は、心を奪われるほど美しかった。
優美な首でシェスラは振り返った。戸惑うラギスの傍に歩みより、そっと首を絡ませた。月狼の交わす愛情表現だ。
数千倍に増した嗅覚がラギスを惑わせる。気がつけば、ラギスもシェスラの首に自分の首をこすりつけ、ふんふんと鼻を鳴らして匂いを吸いこんでいた。
はっとなり、半歩ほどあとじさるラギスを見て、シェスラは微笑した。
『いい夜だな』
『……お、おう』
ラギスは息をつまらせていった。シェスラの瞳を見ることができない。意識を周囲に散らせると、静穏な夜の匂いに囚われた。
『自由だな……』
独りごとのように呟くラギスの身体に、シェスラは身体を軽くぶつけた。少し進み、顔だけ振り向いて前脚で地面を掻く。共に駆けようと誘いかける。
ラギスは尾を揺らしたが、躊躇った。するとシェスラは、ラギスの隣に並び、親しげに尾を絡めた。少し身体を離して、様子をうかがう。
「オンッ」
ラギスが咆えると、シェスラは水晶の瞳を細めた。
次の瞬間、二頭の月狼は勢いよく大地を蹴った。
月光の降り注ぐ森の中、木の葉の織物を踏みしめ、幾つもの灌木を飛び越えた。絡み合った樹の根を小川が越えてゆく場所で足をとめ、浅瀬で遊んだりもした。月光の中で見る水に濡れた岩は、宝石にようにきらきらと煌ている。月影を水面に揺らしながら水を飲み、存分に喉を潤した。
なんて心地いいのだろう。
獣性が解き放たれ、身体中の細胞が活き活きと目醒めていく。香しい匂いを意識しながら、追い越し、追い越され、最大速で駆ける。清かな月光を浴びて、大地を蹴り、風をきって走っていると、月狼としての喜びが身体中にいきわたった。
「オォ――ン……」
気がつけば、ラギスは月に向かって吠えていた。シェスラも同調するように遠吠えする。
遥かなる故郷、ヤクソンの山河が脳裏に蘇った。
こんな風に地平線に向かって平野を駆けるのは、子供の時以来だ。
このまま、ただの月狼として生きていきたい誘惑に駆られた。
聖杯であることを忘れて、発情期に気を揉むこともなく。自由にどこまでも駆けていくことができたなら……
だが、それは隣にシェスラがいないことを意味する。そう考えた途端に、自由という言葉の響きは
シェスラは脚をとめたラギスの隣に並ぶと、顔を近づけて、鼻先でラギスの口から目元、頬を彷徨った。耳の敏感な部分を舌先で舐められ、ラギスは落ち着きなく尾を左右に振った。
『おい……』
発情に燃える青い瞳を見て、ラギスは怯んだ。
『そなたに触れたい』
『いきなりだな』
ラギスがさっと緊張したのを見て、シェスラは顔をさげ、ラギスの心の内を探るように金色の瞳を覗きこんだ。
『褥にもぐりこんだ時から、そうしたいと思っていた。そなたに口づけたい』
『よせよ』
顔を背けるラギスの長い鼻に、シェスラは自分の鼻をこすりつけた。
『なぜ? そなたの敏感な身体に触れて、唇で乳首に触れたい』
ラギスは喉奥で唸った。
月明かりの魔性をもらい受けて、シェスラは銀色に輝いている。どうしたことか、誘惑の魔術をかけられたように身動きがとれなくなる。
『……この姿では御免だ』
ラギスが苦々しく答えると、シェスラは唐突に獣化をほどいた。細く引き締まった肢体は沁み一つなく、透明感すらある。うっすら上気した白い肌に、雄々しく猛ったものは艶めかしく、ラギスは無意識に喉を鳴らした。
シェスラは裸体を惜しげもなくさらし、堂々とラギスの前に立つ。自分がどれほど魅力的か、知り尽くしているからこそできる真似である。
「ラギス、こい……」
手を差し伸べられ、ラギスは耳を伏せた。無意識からくる恭順の仕草を、シェスラは満足そうに、余裕の表情で眺めている。
名を呼ぶだけで相手を意のままに操れると思っていやがる――憤りを感じながら、ラギスは同時に敗北を味わった。悔しいが、魅了されてしまう。彼といると、全てが自分の思うようにならない。
月狼の王に誘惑されて、聖杯であるラギスが冷静でいられるはずもない……冷めた理性は抑制され、熱い情熱が研ぎ澄まされていく。