月狼聖杯記

6章:眠れぬ夜に - 7 -


 いよいよネロアの出兵が近づき、シェスラは多忙を極めていた。
 夜更けに寝室に戻り、僅かばかりの睡眠をとると、陽も昇りきらぬ早朝から執務をこなしていく。午前中は公儀の間で臣民に応え、午後は閲兵えっぺいと軍議に明け暮れ、剣技の鍛錬も怠らない。夜更けにラギスの褥にもぐりこみ、身体を求めてくることもあるが、ラギスも日中の剣術稽古、馬術訓練、指揮官訓練……近頃は軍議にも呼ばれ、疲労困憊から王の誘いを立て続けに拒んでいた。発情が明けたのだから放っておいてほしいと訴え、口論になった夜もある。
 二人きりの親密な時間が減り、シェスラの機嫌は日を追うごとに下降していった。
 日夜、国の防衛と征服に頭を働かせ、ラギスに癒しを求めても応じないので、苛立ちに拍車がかかっているようだ。
 王のご機嫌が麗しくないので、ラギスもなるべく近づかないようにしている。だが彼に仕える召使達はそうもいかない。普段は煩くいわないのに、年若い給仕の担当が粗相をした際に、厳しく咎めて今後の入室を禁じたこともあった。
 哀れなほど萎縮している召使たちを見て、原因の一端であるラギスは、次第に罪悪感を覚えるようになった。
 そろそろ休戦するべきなのかもしれない――窓辺から星月夜を見あげて、ラギスは思案していた。
 今夜は美しい満月だ。月狼になって森を駆けたら、さぞ気持ちがいいだろう。和解の印に、彼を誘ってみるといいかもしれない。
 とても名案に思えたが、夜も更けた頃、いざ寝室にシェスラが入ってくると、ラギスは声をかけるのを躊躇った。
 シェスラは明りも点けずに寝台の方へやってきて、羽織っていた薄絹を長椅子に放った。緩慢な動作で褥にもぐりこみ、背を向けているラギスの方へ身体を寄せる。
 たちまち夜の静寂に包まれて、清かな葉擦れの音と鳥の鳴き声しか聞こえなくなった。
 どうしたものか……これほど遅くまで活動していたのだから、さぞ疲れているだろう。今夜は睡眠を貪りたいかもしれない。ラギスはしばらく迷い、やがて目を閉じた。
「眠れないのか?」
 背中に声をかけられ、ラギスはぎょっとして寝返りを打った。シェスラは目を閉じていた。少し蒼白い端正な顔には、まぎれもない疲労が滲んでいる。
「シェスラ」
「なんだ?」
 ラギスが続ける言葉を迷っていると、シェスラは銀色にけぶる瞼をもちあげて、水晶の瞳で問いかけてきた。
「その……少し時間あるか?」
「なぜ?」
「今夜は素晴らしい満月だ。ちょっと月狼になって、外を駆けにいかないか?」
 シェスラは虚を突かれた顔になった。沈黙がおりて、ラギスは自信をなくしかけた。
「別に、今夜でなくても構わない――」
 シェスラに手首を掴まれた。
「驚いた……そなたに誘われるのは初めてだな」
 水晶の瞳を熱っぽく煌かせ、親指でラギスの手首の内側に物憂げな円を描く。濃密な雰囲気が漂い、シェスラはじっと瞳を見つめたまま端正な顔を近づけた。
 薄い唇に唇をかすめられた時、ラギスは身じろぎもせずにいた。優しく触れるだけの口づけに唇がうずく。甘い柑橘の香りがして、陶然となりかけたが、我に返ってシェスラの肩を掴んだ。
「いかないのか?」
 ラギスが非難がましくいうと、シェスラはほほえんだ。
「いく。口づけを終えたらな」
「今しただろう」
「馬鹿な」
 シェスラは微笑し、ラギスの顔を両手で包んだ。
「今のは挨拶だ。もう一度……」
 シェスラは囁き、頬へ、額へと軽いキスを浴びせる。呻くラギスの唇を親指でこすり、そっと唇を重ねた。
「唇を開いて……」
 唇を触れあわせたまま囁かれて、ラギスは鳥肌が立つのを感じた。緩めた唇に舌を挿し入れられ、優しく口内をくすぐられる。
「ん、は……っ」
 水音の合間にラギスは低く喘いだ。シェスラは舌を搦めて、甘噛みし、貪るように口づけた。強い渇望がこみあげたが、尻を包みこまれてぎくりとした。
「放せよ」
 ラギスは腕を突っ張ってシェスラを押しのけた。瞳と瞳があう。永い口づけのあとで、シェスラの唇は赤く艶めいている。蒼白かった頬を上気させ、濡れた瞳で見つめてくる。煽情的な表情に、ラギスの股間が脈打った。このまま触れあっていたら、本来の目的を忘れて褥の上で獣になってしまう。
「いくならいこうぜ」
 ぱっとラギスが上体を起こすと、シェスラはラギスの手の上に自分の手を重ね、身を屈めた。無精ひげの浮いた頬に、絹のような唇を押し当てる。
「誘ってくれて、ありがとう」
 シェスラは心のこもった声でいった。いつもの傲慢な笑みでも、取り澄ました薄笑いでもない……月光のような微笑を浮かべて。ラギスは胸の高鳴りを覚えたが、気づかないふりをして、ぶっきらぼうにいった。
「別にいい。俺も外を走りたい気分だったからな」
「うむ」
 二人は、軽装に着替え、月狼でも首にかけられる荷袋を背負った。ラギスはいつものようにテラスから抜けだそうと思ったが、シェスラは堂々と寝室の扉を開いた。
「おい」
 ラギスが慌てて声をかけた時には遅かった。控えの間にいる宿直とのいが、ぎょっとしたように姿勢を正している。シェスラはラギスを振りかえり、首を傾げた。
「何している? 早くこい」
 ラギスは逡巡し、彼に続いて廊下にでた。
「……こっそり窓から抜けだした方が良かったんじゃないか?」
 小声で囁くと、シェスラは冷ややかな流し目をラギスに送った。
「ほぅ? そなたは普段はそうしているのだな」
 気まずそうに口を噤むラギスを見て、シェスラは鋭い眼差しを和らげた。
「まぁ良い。今宵は煩くはいわぬ」