月狼聖杯記

6章:眠れぬ夜に - 6 -


 鍛錬場には、夕暮れの光が斜めに射しこみ、城壁の上部を黄金色に染めていた。それも間もなく、紫色をまじえつつある。銃眼の歯型の稜線りょうせんが、陽を遮りつつあるからだ。
 休憩の号令がかかり、騎士達が気を緩めてざわめきだした頃、ジリアンが傍にやってきた。
「ラギス様、大王様のお召しです」
 またか、とラギスは呻いた。三日連続で軍議に呼ばれている。シェスラは本気でラギスを士官に仕立てようとしているらしい……
 いっそ、無視してやろうかと思ったが、練兵場の入り口に立つ副司令官のインディゴと目が合い、ラギスは渋々駆け寄った。
 戦術会議室に入ると、机を囲んでいた騎士達は一斉に振り向いた。司令官級の錚々そうそうたる顔ぶれが並んでいる。黒檀の机に羊皮紙の地図を広げて、ラピニシア攻略について激論を戦わせているようだ。
「ラギス、ここへこい」
 シェスラに呼ばれて、ラギスは居心地の悪い思いをしながら、傍に寄った。
「ちょうど良い。ネヴァール山脈越えについて説明する」
 シェスラは風雅な鵞筆がひつで、ネヴァール山脈に印を入れた。その端正な横顔を、ラギスは唖然とした顔で見つめた。
「どうした?」
 シェスラが優美な首を傾げると、艶やかな銀髪がさらりと肩からこぼれおちた。
「ネヴァール山脈越えだと?」
「そうだ」
「……正気か? 天に届く霊峰だぞ」
 相も変わらず奔放な言葉遣いに幾人かの騎士が眉をひそめたが、シェスラはにやりとした笑みを浮かべた。
「正気だ。歩兵騎兵合わせて、五万を連れてネヴァール山脈を越える」
「そんな大所帯で、越えられるわけねぇだろ。道も悪い。騎兵はおろか、荷馬車も通れねぇぞ」
「ある程度の損失は想定内だ。戦蜥蜴も連れていく」
「は」
「次の戦争で勝敗を決するのは、騎兵の動きにかかっている。戦蜥蜴は強力な陽動部隊だ」
 ラギスは唖然とした。一拍して、
「聞いたことねぇよ! 天を衝く霊峰に、五万の大所帯で戦蜥蜴を連れていく馬鹿、どこにいるんだよ!?」 
 シェスラは面白がるように口角をあげた。
「ここに」
「狂気の沙汰だ」
「苦難苦行であることは間違いないが、不可能ではない」
「あんたに都合のいい、ただの妄想だ」
 景気よく飛びだす不敬な発言に、ついに一人の騎士が拳を握りしめて立ちあがった。
「控えよッ! 我が大王きみ に向かって、その口の利き方は何だッ」
 古参の騎士がこめかみに青筋を浮かべて糾弾すると、他にも賛同の声があがった。
 空気が緊張を孕む。ラギスは大して反省もせず、肩をすくめてシェスラを見た。でていけといわれたら、大人しくでていくつもりだった。しかしシェスラはラギスを見ようとはせず、前を見据えたまま唇を開いた。
「これの無礼は、私が許している。無論、他の者がすれば首が飛ぶと思え」
 鋭い視線が部屋を見回す。沈黙がおり、空気が震えた。
 微妙な表情を浮かべているラギスを見やり、シェスラはからかうように目を煌かせた。
「私は、荒唐無稽な冒険譚を聞かせたつもりはない。蓋然がいぜんたる勝算があって、口にしたのだ」
「……もっと賢い奴だと思ってたぜ」
「控えめにいっても、開闢かいびゃく以来、三指に入る名将だと思っている」
 どこが控えめなものか。ラギスが胡乱げに目をすが めると、シェスラは愉快そうに笑った。澄んだ笑い声が部屋に響き、騎士達は目を丸くしている。
「真面目な話、ネヴァールを越える頃には、冬がくる。五万で挑んでも、途中でばたばた死ぬぞ」
 ラギスが挑むようにいう。厳しくも現実味を帯びた予見に、幾人かがはっと息をのんだ。
「だろうな。峠を下りた時には、およそ半数に減っているだろう」
 淡々と答えるシェスラを、ラギスは呆れた顔で見つめた。
「判ってていってるのかよ。そんな無茶な行軍、誰もついていかないぞ!」
「報酬は弾む。途中で音を上げる奴も帰してやる。十五日程度の兵糧しか持っていかぬつもりだしな」
「十五日!? どう計算しても足りねぇだろ。敵の意表を突いて背中を襲えても、こっちが飢餓状態じゃ何の意味もないぞ」
登攀とうはんしたあとは休みをやる。下りはラピニシアを拝めるから、士気は高まるだろう」
「そんなうまくいくものか。山中に住む部族だっているんだぞ。敵と示し合わせて、待ち伏せしていたらどうする」
「山岳部族は何百年もの間、北と戦争をしている。アレッツィアと結託して我々を襲うことは情勢的にありえない」
「俺達だって敵とみなされるかもしれないぞ」
「講和を結ぶ。六月にネロアに出向いた際、各部族に申し入れた。もうすぐネロアに各族長がやってくる。そこで正式なものにする」
 その断固とした響きに、ラギスは目を瞠った。
(これが狙いだったのか!)
 ネヴァール山脈の奥深くに暮らす山岳部族は、毎年夏になると、ネロアまで行商にやってくる。六月の半ばに、シェスラは三十日あまり城を空けていた。交易が目的と思っていたが、彼はラピニシア遠征を視野に入れていたのだ!
「……抜け目ねぇな」
炯眼けいがんといえ」
 ラギスは強く鼻を鳴らした。
「草原の部族が、よくあんたみたいな若い王に応じたな」
 この発言に、再び周囲から唸り声が起きたが、シェスラは手をあげて鎮めた。
「多くの族長は、大陸制覇こそが泰平の最善の道だと知っている。その点をうまく突けば、和議は為る。あとは賄賂だな」
 その言葉には説得力があった。事実、彼は僅か三年の間に、ドナロ大陸で覇権を競いあう、十以上もの部族をまとめあげているのだ。
「にしたって、下山したら兵力は半数以下だ。不足分はどうする? 地獄の裂け目から連れてくるのか?」
 ラギスは不満そうにいった。
「欠けた戦力も現地で補う。野蛮だが、彼等はいい戦力になるだろう。下山したら、休息をとる間に傭兵を募集する」
「勇壮な騎馬族と聞くしな……さっき、騎兵が要といったな。なぜだ?」
「我が軍の主力は重装歩兵だ。これまでの闘いでも、歩兵十に対して騎兵一の割合で構成されている。大軍を小数で凌ぐ場合、同じ主戦力をぶつけても勝ち目はない」
「それで騎兵の登場か?」
「そうだ。私は、歩兵と騎兵の割合を六対一で編成する」
 シェスラは地図の上に、騎兵と歩兵の駒を配置してみせた。
「過去の歴史書を紐解いても、歩兵には歩兵を、騎兵には騎兵を当てる戦術が一般的だ。しかし、これでは効率が悪すぎる。勝敗を分かつのは質ではなく量になってしまう」
 そういって、駒を進める。歩兵と歩兵をぶつけて、引き算をし、騎兵と騎兵をぶつけて引き算をする。必然的に、総数の多い方が、残る駒は多い。
「……歩兵の数に、騎兵が近づくっていうことは、歩兵に騎兵をあてるってことだよな?」
 駒を凝視しながらラギスが呟くと、そうだ、とシェスラは生徒を愛でるような教師の瞳で頷いた。
「戦闘は効率と機動性が全てだ。最小戦力で、最大火力を発揮するように、迅速に陣容を動かしていく」
 シェスラは地図の駒を動かした。歩兵に騎兵をあて、或いは騎兵に歩兵をあてて、十倍の差がある軍勢を削り取っていく。次々に駒を操る。全員がその動きを目で追いかけた。大差は僅差に近づき――拮抗したのち、局面がひっくり返った。
 駒の動きを目で追いながら、ラギスは改めてシェスラの才能を思い知らされた。
 閃きとはまった天賦てんぷの才だ。
 経験の積み重ねや努力でどうにかなるものではない。
 天才とは、零から一を作りだす才能だけをいうのではなく、今ある手持ちの札から、誰もが見落としていた穴を突くことにもあるのかもしれない。
「戦術はいいとして、そんなに騎兵を増やして、指揮はどうするんだ?」
 この時代、騎兵になるには、市民権はもちろん、貴族の称号と一定の資産が必要だった。ゆえに、騎兵は軍の花形とされている。歩兵に比べて総人口が少ない分、指揮をとれる兵士もまた限られていた。
「信のおける者に任せる。そなたにも活躍してもらうぞ」
 ラギスは目を剥いた。
「正気か?」
「無論。ヤクソンの戦士は優秀な騎馬族で知られている。そなたなら申し分ないはずだ」
「俺は元奴隷剣闘士だぞ」
「関係ない。貴族階級の自尊心なんてものは、勝率に何ら影響しない。才能ある者は、身分に関係なく騎兵に据える。それに、そなたはもう奴隷ではない」
「そうはいっても、ここにいる誰も納得していないと思うぜ」
 敵意に満ちた視線を受けとめ、ラギスは肩をすくめた。シェスラは水晶の瞳を細め、威嚇するように周囲を見回した。
「先の言葉をもう忘れたのか? 私は無駄な繰り言は好かぬ。文句のある奴は、その首をかけて挑んでくるがいい」
 誰も言葉を発することはできなかった。歴戦の戦士であっても、恭順を示すように耳を横に伏せている。
「……無茶だろ」
 静まりかえった部屋に、ラギスの小さな呟きは妙に響いた。シェスラは半目で彼を睨んだ。
「そなたがいうな。とはいえ、一人ではやり辛いだろう。副官については考えておく」
 ラギスが低く呻くと、シェスラはからかうような視線を寄こした。
「そなたが率いるのは騎兵だけではないぞ。歩兵三百も預けてやる。元奴隷階級であるそなたの存在は、全奴隷兵達の希望の灯になるだろう」
「それも作戦のうちか」
 広告塔に据えられた心地がして、ラギスは白けた眼差しを送った。
「ほんの一部だ。今回はネヴァール越があるから諦めたが、本当は重装騎兵も連れていきたかった」
 ラギスは唇を引きつらせた。全く、この月狼の王アルファングの思考回路はどうなっているのだろう?
「んなもん連れていったら、峠で全員落下するぞ」
「判っている」
 シェスラは残念そうに頷いた。ラギスが呆れて口を閉ざすと、それまで黙していた将の一人が口を開いた。
「我が大王きみがどのような決定をくだされようと、従う所存でおります」
 忠の言葉に、シェスラは笑みを深めた。優雅な手つきで自軍の駒を手にとり、ネロアの先――ラピニシアへ置いた。
「そなたらの働きに期待している。先ずはネロアを制するぞ。前哨戦を勝利で飾り、ラピニシアを攻めようぞ!」
 朗々と響く宣戦布告と勝利宣言に、全員が拳を突き上げて鬨の声をあげた。