月狼聖杯記
6章:眠れぬ夜に - 1 -
発情期が近づいてくると、ラギスは訓練を禁じられた。まだ数日の余裕はあるといい張ったが、シェスラは赦さなかった。
とはいえ、居住区の周辺を歩いたり、離れたところから騎士達の稽古を眺める程度の自由は与えられている。
黄昏時。
ラギスは何をするでもなく、鍛錬場を見下ろせる中庭の城壁に腰かけ、沈みゆく夕陽を眺めていた。
涼風が湯あがりの火照った肌に心地よい。それに黄昏の絶景も見事なものだ。
広漠の空は薔薇色から群青に変化し、沈みゆく最後の陽が、たなびく雲を黄金色に縁取っている。闇の帳が降りてくるなか、栄えし王都は茜に染まって見える。
芸術的な景色をぼんやり眺めていると、王都の哨戒 から戻ってきたロキが通りかかった。彼は城壁のラギスに気がついて手をあげた。
「おう」
ラギスも手をあげて答えると、ひらりと城壁を飛び降り、ロキの方へ近づいていった。ロキの方も連れ添っていた仲間と別れ、ラギスの方へ近寄ってきた。
「何してる?」
ロキはちょっと首を傾げ、いった。
「特に何も」
退屈そうに答えるラギスを、ロキはまじまじと見つめてきた。
「……すごい匂いだぞ。聖杯の力が強まっているようだな」
顔をしかめるラギスを見て、更に続ける。
「発情が近いのだろう? 勝手気儘に出歩いていいのか?」
「城の外にはいかねぇよ」
ロキは黙りこみ、やがてにやりと笑った。
「そういえば、この間は平気だったか?」
不思議そうなラギスの顔を見、大衆浴場の件だ、とつけ加えた。
「ああ……問題ねぇよ」
「あれは驚いた。王は本当に、ラギスのことが好きなんだな」
「は」
「周囲を牽制されていた。とりわけ、俺への視線はきつかったぞ」
「あいつは目に入るもの全てを、支配下に置かないと気がすまないんだ」
口をとがらせ、不満そうにいうラギスを見て、ロキは笑った。
「そうじゃない。あんな目で見るのはお前だからだ。それくらい判れ」
「は」
「王は恋をしているんだ。ラギス、お前に」
恋――あまりにも衝撃的な響きに、ラギスは軽く二秒ほど時を止めた。舌打ちをすると、誤魔化すようにつけ加えた。
「あいつの頭にあるのは、大陸制覇のことだけだ」
「恋と戦争には共通点がある」
「は」
「どちらも、力づくで奪うという意味では同じだ」
胸がむかつく思いで、ラギスは唾を吐いた。
「くだらんことをいうのはやめろ。絞め殺すぞ」
「そう怒るな」
「お前の口から恋だの聞くと、鳥肌が立ちそうになるぜ。この上なく似合わないから、金輪際口にするのはやめろ」
「人を外見で判断するものじゃない。俺はこう見えて、浪漫に理解がある」
「浪漫だと!」
ラギスは噴きだした。ロキも白い歯をこぼして笑った。
「知らなかったのか?」
「馬鹿いえ!」
二人で哄笑 していると、城壁の上からジリアンが上半身を覗かせた。
「ラギス様!」
「おう、どうした?」
ラギスは右手を目の上にあて、夕陽を遮り、ジリアンを見あげた。
「夕餉 のお仕度ができましたので、お呼びに参りました」
そういいながら、ジリアンが城壁をよじ登ろうとしている。ラギスはやめるように声をかけた。
「そこにいろ。すぐにいくから」
ラギスは暮れゆく空を仰ぎ、ロキを見た。ラギスより背の高い男は一つ頷き、首を傾けた。
「俺も宿舎に戻る。なかへ入るか」
「おう」
途中までは道が同じなので、各所に垂れ布をかけた高い壁が続く大廊下を、二人は並んで歩き始めた。
黄昏時の薄闇が垂れこめるなか、壁にかけられた燭台に使用人が火を灯していく。彼等は、巨躯の二人が後ろを通ると、びくっとして手燭を落としそうになっていた。
「お前の無事を祈っているよ」
胸の前で手を組み、祈りの仕草をした。ラギスは自分の胸をとんと叩き、ひとさし指をロキに突きつけた。月狼の威嚇の仕草である。
笑いながら背を向けて去っていく友を見送り、ラギスは一人で廊下を歩いていった。角を曲がったところで、ジリアンと鉢あわせた。
「ラギス様!」
「おう」
「お迎えにあがりました」
「部屋にいて良かったんだぞ」
「いいえ」
ジリアンを敬愛をこめてラギスを仰ぎ、次の瞬間、驚愕に目を瞠った。ラギスが眩暈を覚えて膝をついたのだ。
「ラギス様!?」
「なんでもない」
すぐに立ちあがったが、ジリアンはおろおろとラギスに手を伸ばした。
「具合が悪いのですか? アミラダ様を呼んで参りますか?」
「平気だ。少し横になっていれば治るだろう」
自室に辿り着き、ラギスは力なく寝台に横たわると、ジリアンを見ていった。
「少し寝る。一刻したら起こしてくれ」
「かしこまりました」
この時点では、ただの疲労だと思っていた。
しかし、懶 い半睡から目が醒めた時、ようやく不調の原因に気がついた。
(発情だ……)
四肢から力が抜けていくようだった。焼けるように熱いものが、ラギスの腹を、性器と腸 の奥まで舐めていった。
これからの七日間、問答無用で軟禁されるのだろう。痴態を晒し、正体不明になるまで抱かれるのかと思うと、今すぐに裸足で逃げだしたくなる。
このまま隠匿してどうにか凌げないものか……無謀なことを考えていると、部屋にシェスラがやってきた。
喜々とした表情の王を見て、ラギスは両の耳を横に伏せた。餓えた狼の前に差しだされた、生贄の羊にでもなった気分である。
「そう、不安そうな顔をするな」
「るせ……」
シェスラは寝台に腰かけ、身を乗りだした。銀糸の髪がさらりと零れて、ラギスの頬をくすぐる。その瞬間、心臓がどくんと大きく拍動し、身動きがとれなくなった。翳った視界から美貌を仰ぐと、銀の睫毛に縁取られた青い瞳の虹彩が、蘭と輝いている様まではっきり見えた。
「部屋をでてはならぬぞ」
「はぁ……」
ため息をつくラギスの顎を、シェスラは優しく指でしゃくった。鼻の頭にちょんとキスをする。
「判ったな?」
「……大人しくしてりゃいいんだろ」
ラギスは投げやりに答えると、がくっと顔を横向け、死んだふりをした。シェスラは喉の奥でくつくつと笑うと、シェスラの髪を優しく撫でた。
「いい子にしていろ。あとでくる」
月狼の王は、すこぶる機嫌良さそうにいって、部屋をでていった。
とはいえ、居住区の周辺を歩いたり、離れたところから騎士達の稽古を眺める程度の自由は与えられている。
黄昏時。
ラギスは何をするでもなく、鍛錬場を見下ろせる中庭の城壁に腰かけ、沈みゆく夕陽を眺めていた。
涼風が湯あがりの火照った肌に心地よい。それに黄昏の絶景も見事なものだ。
広漠の空は薔薇色から群青に変化し、沈みゆく最後の陽が、たなびく雲を黄金色に縁取っている。闇の帳が降りてくるなか、栄えし王都は茜に染まって見える。
芸術的な景色をぼんやり眺めていると、王都の
「おう」
ラギスも手をあげて答えると、ひらりと城壁を飛び降り、ロキの方へ近づいていった。ロキの方も連れ添っていた仲間と別れ、ラギスの方へ近寄ってきた。
「何してる?」
ロキはちょっと首を傾げ、いった。
「特に何も」
退屈そうに答えるラギスを、ロキはまじまじと見つめてきた。
「……すごい匂いだぞ。聖杯の力が強まっているようだな」
顔をしかめるラギスを見て、更に続ける。
「発情が近いのだろう? 勝手気儘に出歩いていいのか?」
「城の外にはいかねぇよ」
ロキは黙りこみ、やがてにやりと笑った。
「そういえば、この間は平気だったか?」
不思議そうなラギスの顔を見、大衆浴場の件だ、とつけ加えた。
「ああ……問題ねぇよ」
「あれは驚いた。王は本当に、ラギスのことが好きなんだな」
「は」
「周囲を牽制されていた。とりわけ、俺への視線はきつかったぞ」
「あいつは目に入るもの全てを、支配下に置かないと気がすまないんだ」
口をとがらせ、不満そうにいうラギスを見て、ロキは笑った。
「そうじゃない。あんな目で見るのはお前だからだ。それくらい判れ」
「は」
「王は恋をしているんだ。ラギス、お前に」
恋――あまりにも衝撃的な響きに、ラギスは軽く二秒ほど時を止めた。舌打ちをすると、誤魔化すようにつけ加えた。
「あいつの頭にあるのは、大陸制覇のことだけだ」
「恋と戦争には共通点がある」
「は」
「どちらも、力づくで奪うという意味では同じだ」
胸がむかつく思いで、ラギスは唾を吐いた。
「くだらんことをいうのはやめろ。絞め殺すぞ」
「そう怒るな」
「お前の口から恋だの聞くと、鳥肌が立ちそうになるぜ。この上なく似合わないから、金輪際口にするのはやめろ」
「人を外見で判断するものじゃない。俺はこう見えて、浪漫に理解がある」
「浪漫だと!」
ラギスは噴きだした。ロキも白い歯をこぼして笑った。
「知らなかったのか?」
「馬鹿いえ!」
二人で
「ラギス様!」
「おう、どうした?」
ラギスは右手を目の上にあて、夕陽を遮り、ジリアンを見あげた。
「
そういいながら、ジリアンが城壁をよじ登ろうとしている。ラギスはやめるように声をかけた。
「そこにいろ。すぐにいくから」
ラギスは暮れゆく空を仰ぎ、ロキを見た。ラギスより背の高い男は一つ頷き、首を傾けた。
「俺も宿舎に戻る。なかへ入るか」
「おう」
途中までは道が同じなので、各所に垂れ布をかけた高い壁が続く大廊下を、二人は並んで歩き始めた。
黄昏時の薄闇が垂れこめるなか、壁にかけられた燭台に使用人が火を灯していく。彼等は、巨躯の二人が後ろを通ると、びくっとして手燭を落としそうになっていた。
「お前の無事を祈っているよ」
胸の前で手を組み、祈りの仕草をした。ラギスは自分の胸をとんと叩き、ひとさし指をロキに突きつけた。月狼の威嚇の仕草である。
笑いながら背を向けて去っていく友を見送り、ラギスは一人で廊下を歩いていった。角を曲がったところで、ジリアンと鉢あわせた。
「ラギス様!」
「おう」
「お迎えにあがりました」
「部屋にいて良かったんだぞ」
「いいえ」
ジリアンを敬愛をこめてラギスを仰ぎ、次の瞬間、驚愕に目を瞠った。ラギスが眩暈を覚えて膝をついたのだ。
「ラギス様!?」
「なんでもない」
すぐに立ちあがったが、ジリアンはおろおろとラギスに手を伸ばした。
「具合が悪いのですか? アミラダ様を呼んで参りますか?」
「平気だ。少し横になっていれば治るだろう」
自室に辿り着き、ラギスは力なく寝台に横たわると、ジリアンを見ていった。
「少し寝る。一刻したら起こしてくれ」
「かしこまりました」
この時点では、ただの疲労だと思っていた。
しかし、
(発情だ……)
四肢から力が抜けていくようだった。焼けるように熱いものが、ラギスの腹を、性器と
これからの七日間、問答無用で軟禁されるのだろう。痴態を晒し、正体不明になるまで抱かれるのかと思うと、今すぐに裸足で逃げだしたくなる。
このまま隠匿してどうにか凌げないものか……無謀なことを考えていると、部屋にシェスラがやってきた。
喜々とした表情の王を見て、ラギスは両の耳を横に伏せた。餓えた狼の前に差しだされた、生贄の羊にでもなった気分である。
「そう、不安そうな顔をするな」
「るせ……」
シェスラは寝台に腰かけ、身を乗りだした。銀糸の髪がさらりと零れて、ラギスの頬をくすぐる。その瞬間、心臓がどくんと大きく拍動し、身動きがとれなくなった。翳った視界から美貌を仰ぐと、銀の睫毛に縁取られた青い瞳の虹彩が、蘭と輝いている様まではっきり見えた。
「部屋をでてはならぬぞ」
「はぁ……」
ため息をつくラギスの顎を、シェスラは優しく指でしゃくった。鼻の頭にちょんとキスをする。
「判ったな?」
「……大人しくしてりゃいいんだろ」
ラギスは投げやりに答えると、がくっと顔を横向け、死んだふりをした。シェスラは喉の奥でくつくつと笑うと、シェスラの髪を優しく撫でた。
「いい子にしていろ。あとでくる」
月狼の王は、すこぶる機嫌良さそうにいって、部屋をでていった。