月狼聖杯記
5章:閃く紋章旗 - 9 -
夜は明けつつあった。
遠くで小鳥が囀り、木立に漉 された曙光 が、窓硝子から斜めに射しこんでいる。
起きるにはまだ早いが、昨日もらったばかりの馬と早駆けしたい誘惑に抗えず、ラギスは褥の上からぱっと躰を起こした。
顔を洗ったあと、寝台の傍に置いてある服を手にとる。
広襟の肌着の上に胴衣を身に着け、黒いズボンを履いて、裾を膝下まである先拡がり型の鞣革 の深靴にたくしこむ。仕上げに腰帯をしめて、飾り紐を結び、剣を佩 いた。
身支度を整え、厩舎に向かうと、厩番が驚いたように脱帽して頭をさげた。
「お早うございます、ラギス様。随分とお早いお越こしで」
「俺の馬は乗れるか?」
「はい。すぐに」
男は奥へひっこみ、赤革の馬勒 についた金糸の房飾りを掴み、馬を連れてきた。
美しい天鵞絨 の毛並みを見て、ラギスは頬を緩めた。知性を感じさせる金緑の瞳が、値踏みするようにラギスを見つめている。
「お前の名前を考えたんだ。クィンと呼ぼう」
金鍍金 を施された鞍に跨ると、クィンは軽く足踏みをして、体勢を整えた。
「いい子だ」
ラギスが首すじを叩くと、耳をぴくっと動かし、尾を一つ振る。じっとしているが、背中に跨る男を値踏みしているように感じられた。
軽い足取りで楼門へ向かうと、後ろから馬蹄の音が聞えてきた。振り向くと、矢筒を肩にかけたアレクセイがいた。
「お早うございます、ラギス様」
彼は美しい鹿毛 の牝馬に乗っていた。
「ああ……」
戸惑ったように答えるラギスの隣に、アレクセイは轡を並べた。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
ラギスは少し躊躇った。
「馬は久しぶりだから、慣らそうと思っていたんだ」
「お供いたします」
「狩りにいくところじゃないのか?」
「いえ、我が大王 から、ラギス様に馬術をお教えするように命じられております」
「そうか……なら、よろしく頼む」
ラギスの言葉に、アレクセイは優しくほほえんだ。
「弓が得意らしいな。その装備はいつもか?」
肩にかけている使いこまれた矢筒を見て、ラギスは訊ねた。
「はい。早朝に森へ入る時は、弓を持っていくようにしています」
貴公子のような佇まいだが、その言葉には自信が感じられた。銀色の瞳は神秘的で、思慮深い理知の光を宿している。
「狩るところを見せてもらえるか?」
「もちろん、構いませんよ」
二人は不沈城 の後方に拡がる森へ入った。城から八キロほど離れたあたり、楡 の木立に隠れて、広くて草の生い茂った野原にいき当たった。
頭上には刻一刻と明るくなっていく、青い空が広がっている。
「ここは良い狩場なんです」
彼は堂に入った仕草で矢を番 えると、遥かな木立にとまっている、鴫 に狙いを定めた。呼吸を止めて、静かに矢を放つ。
矢は真っすぐに飛んでいき、枝の上で休んでいた鳥に命中した。木々はざわめき、重量のあるものが落下する音が聴こえた。熟練の腕前を目の当たりにし、ラギスは感心に目を瞠った。
「あの距離を仕留めたのか! やるなぁ、シェスラが褒めるわけだ」
ラギスの賞賛に、アレクセイは面映ゆそうな微笑を浮かべた。
「ありがとうございます。おかげで、今朝は良い土産ができました」
「もしかして、食卓に並ぶ肉は、あんたが調達しているのか?」
大真面目に訊ねるラギスを見て、アレクセイはおかしそうに笑った。
「それでは、私は山ほど捕まえないといけませんね」
「違うのか」
「城には家畜もいますし、外から買い入れもしていますよ」
「それもそうか。なら、捕った獲物はどうするんだ?」
「これも城で調理してもらいます。持ち運びが大変ですから、大きな獲物は捕らないようにしているんです。頼まれた時には、大猪や雷麒を狩ることもありますよ」
ラギスが相槌を打った時、馬が不安そうに飛び跳ね、手綱を引っ張った。
「どうした?」
ラギスは首筋を叩いて宥め、手綱をひきしめた。クィンはそれでも足を踏み鳴らし、鼻息が荒く、視線が落ち着かない。跳躍の手前のように、後ろ脚の筋肉が硬くふくれあがった。
「どう、どう」
後ろ足で立ちあがるクィンをラギスは馬上で落ち着かせ、すぐに鞍から降りた。
「どこか痛めたか?」
様子を見ていると、アレクセイも馬を下りて傍にやってきた。馬具の装着を確認しようと手を伸ばす。図らずも距離が近づいて、お互いにはっとなった。
「……紐の結び目があたって、痛かったのでしょう」
アレクセイはなんでもない風を装って、馬具を調整した。クィンは具合を確認するように何度か踏み鳴らし、満足したように首を掲げた。
ラギスは鞍に跨り、落ち着いた様子で手綱を捌いたが、心は乱れていた。あの夜の饗宴が思いだされる。あれは不幸な事故だったのだ。さっさと忘れた方がお互いの為だ――そういい聞かせた。
城に戻り、厩舎に馬を預けたあと、部屋に引き返そうとするラギスをアレクセイは引き留めた。
「もしよければ、一緒に休憩室にいきませんか?」
ラギスは驚いた。彼のいう休憩室とは、士官以上の階級に許された社交場である。
「せっかくだが、遠慮しておく」
「お疲れですか?」
「そうじゃないが、俺は正騎士だし、場違いだろう」
アレクセイはまだしも、他の騎士達の気取った雰囲気は苦手だった。
「場違いだなんて。ラギス様は、我が大王 の聖杯ではありませんか。階級を気にする必要は全くありませんよ」
「そうは思っていない奴の方が、大半だと思うぜ」
「不敬を働く者は私が許しません。実は、ラファエルがラギス様とお話しをしたいといっていまして」
「お話し? ラファエルが?」
意外な思いでラギスは訊き返した。ラファエルは黄金の巻き毛と碧眼をもつ美しい青年で、アレクセイ達と一緒にいるところを何度か見かけたことがある。朗らかな笑い声は、さながら天使のようだった。ラギスとは、まともに口を利いたことすらないが、何を話すというのだろう?
「この時間なら、ちょうど寛いでいると思うのです。覗くだけでも、いってみませんか?」
アレクセイは穏やかな声と表情でいった。
「だが……」
「私達と一緒にいれば、囲まれるようなこともありませんから」
ラギスは返事に詰まった。そうまで熱心に誘われてしまっては、断る理由が見つからず、休憩室にいくことをやむなく承諾した。
遠くで小鳥が囀り、木立に
起きるにはまだ早いが、昨日もらったばかりの馬と早駆けしたい誘惑に抗えず、ラギスは褥の上からぱっと躰を起こした。
顔を洗ったあと、寝台の傍に置いてある服を手にとる。
広襟の肌着の上に胴衣を身に着け、黒いズボンを履いて、裾を膝下まである先拡がり型の
身支度を整え、厩舎に向かうと、厩番が驚いたように脱帽して頭をさげた。
「お早うございます、ラギス様。随分とお早いお越こしで」
「俺の馬は乗れるか?」
「はい。すぐに」
男は奥へひっこみ、赤革の
美しい
「お前の名前を考えたんだ。クィンと呼ぼう」
「いい子だ」
ラギスが首すじを叩くと、耳をぴくっと動かし、尾を一つ振る。じっとしているが、背中に跨る男を値踏みしているように感じられた。
軽い足取りで楼門へ向かうと、後ろから馬蹄の音が聞えてきた。振り向くと、矢筒を肩にかけたアレクセイがいた。
「お早うございます、ラギス様」
彼は美しい
「ああ……」
戸惑ったように答えるラギスの隣に、アレクセイは轡を並べた。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
ラギスは少し躊躇った。
「馬は久しぶりだから、慣らそうと思っていたんだ」
「お供いたします」
「狩りにいくところじゃないのか?」
「いえ、我が
「そうか……なら、よろしく頼む」
ラギスの言葉に、アレクセイは優しくほほえんだ。
「弓が得意らしいな。その装備はいつもか?」
肩にかけている使いこまれた矢筒を見て、ラギスは訊ねた。
「はい。早朝に森へ入る時は、弓を持っていくようにしています」
貴公子のような佇まいだが、その言葉には自信が感じられた。銀色の瞳は神秘的で、思慮深い理知の光を宿している。
「狩るところを見せてもらえるか?」
「もちろん、構いませんよ」
二人は
頭上には刻一刻と明るくなっていく、青い空が広がっている。
「ここは良い狩場なんです」
彼は堂に入った仕草で矢を
矢は真っすぐに飛んでいき、枝の上で休んでいた鳥に命中した。木々はざわめき、重量のあるものが落下する音が聴こえた。熟練の腕前を目の当たりにし、ラギスは感心に目を瞠った。
「あの距離を仕留めたのか! やるなぁ、シェスラが褒めるわけだ」
ラギスの賞賛に、アレクセイは面映ゆそうな微笑を浮かべた。
「ありがとうございます。おかげで、今朝は良い土産ができました」
「もしかして、食卓に並ぶ肉は、あんたが調達しているのか?」
大真面目に訊ねるラギスを見て、アレクセイはおかしそうに笑った。
「それでは、私は山ほど捕まえないといけませんね」
「違うのか」
「城には家畜もいますし、外から買い入れもしていますよ」
「それもそうか。なら、捕った獲物はどうするんだ?」
「これも城で調理してもらいます。持ち運びが大変ですから、大きな獲物は捕らないようにしているんです。頼まれた時には、大猪や雷麒を狩ることもありますよ」
ラギスが相槌を打った時、馬が不安そうに飛び跳ね、手綱を引っ張った。
「どうした?」
ラギスは首筋を叩いて宥め、手綱をひきしめた。クィンはそれでも足を踏み鳴らし、鼻息が荒く、視線が落ち着かない。跳躍の手前のように、後ろ脚の筋肉が硬くふくれあがった。
「どう、どう」
後ろ足で立ちあがるクィンをラギスは馬上で落ち着かせ、すぐに鞍から降りた。
「どこか痛めたか?」
様子を見ていると、アレクセイも馬を下りて傍にやってきた。馬具の装着を確認しようと手を伸ばす。図らずも距離が近づいて、お互いにはっとなった。
「……紐の結び目があたって、痛かったのでしょう」
アレクセイはなんでもない風を装って、馬具を調整した。クィンは具合を確認するように何度か踏み鳴らし、満足したように首を掲げた。
ラギスは鞍に跨り、落ち着いた様子で手綱を捌いたが、心は乱れていた。あの夜の饗宴が思いだされる。あれは不幸な事故だったのだ。さっさと忘れた方がお互いの為だ――そういい聞かせた。
城に戻り、厩舎に馬を預けたあと、部屋に引き返そうとするラギスをアレクセイは引き留めた。
「もしよければ、一緒に休憩室にいきませんか?」
ラギスは驚いた。彼のいう休憩室とは、士官以上の階級に許された社交場である。
「せっかくだが、遠慮しておく」
「お疲れですか?」
「そうじゃないが、俺は正騎士だし、場違いだろう」
アレクセイはまだしも、他の騎士達の気取った雰囲気は苦手だった。
「場違いだなんて。ラギス様は、我が
「そうは思っていない奴の方が、大半だと思うぜ」
「不敬を働く者は私が許しません。実は、ラファエルがラギス様とお話しをしたいといっていまして」
「お話し? ラファエルが?」
意外な思いでラギスは訊き返した。ラファエルは黄金の巻き毛と碧眼をもつ美しい青年で、アレクセイ達と一緒にいるところを何度か見かけたことがある。朗らかな笑い声は、さながら天使のようだった。ラギスとは、まともに口を利いたことすらないが、何を話すというのだろう?
「この時間なら、ちょうど寛いでいると思うのです。覗くだけでも、いってみませんか?」
アレクセイは穏やかな声と表情でいった。
「だが……」
「私達と一緒にいれば、囲まれるようなこともありませんから」
ラギスは返事に詰まった。そうまで熱心に誘われてしまっては、断る理由が見つからず、休憩室にいくことをやむなく承諾した。