月狼聖杯記
5章:閃く紋章旗 - 1 -
星歴五〇三年。八月一日。
夏が終わろうとしている。
不沈城 には、チャヴァル連邦都市から遣わされた外交官達の居住区があり、彼等はアレッツィアの電撃離反のあともセルト国に留まっていた。
滞在しているのは、ペルシニア、リスム、エヴィト、ルクィーセ、チェル・カタ、ノアの六都市の代表である。
残りの二都市、ブルテリアとジュナは過去数十年、セルト国を訪れたことはない。彼等はアレッツィアと隣接している為、九都市のなかでも特に関係が密接で、アレッツィアと敵対するセルト国を同じく敵視していた。
アレッツィアが聖地ラピニシアの征服を掲げて、アルトニア帝国と手を結んだことは周知の事実である。アレッツィアは各都市に服従を迫り、現在四つの都市が応じている。他の二つの都市はセルト国と同盟を結び、残り三つの都市は静観している状況だ。
シェスラが一年ぶりに遠征から帰還した理由の一つに、諸都市の説得交渉があった。
凱旋して以来、連日連夜続く貴族の饗宴で、シェスラは各都市の外交官達を存分にもてなし、セルト国の豊かさ、財力を見せつけてきた。
外交官というものは総じて冷静で、表情や態度をあからさまに表にすることはない。だが、計算高く明晰 な思考を持つ彼等であっても、星のように美しい月狼の王 には魅了されていた。
おのが魅力を十分に理解しているシェスラは、重要な話をする際には彼等をまとめて相手にせず、人払いした部屋に席を設けて、一人ずつ相手をした。
ある晩、シェスラはペルシニアの特使、マルサラという初老の男と二人きりで対談に応じた。足は不自由だが、思慮深い銀色の双眸 の優秀な外交官である。セルトには三年あまり滞在しており、彼はシェスラと顔をあわせる度に、アレッツィアへの従属を説いた。
今夜も、シェスラは酒杯を傾けながら、彼の説法に耳を傾けていた。一通り聞き終えたあと、杯を卓に置き、マルサラの目を見つめていった。
「どうやら私は、そろそろ友として忠告をしなければならないようだ」
「忠告?」
マルサラは訝った。
セルトへきて三年経つ今も、シェスラと相対する際には神経を使う。往時に比べたら、言葉遣いも砕けてきたし、表情もずっと親しげになった。けれどもそれは依然として冷たい穏やかさであり、狎 れることを許さない威厳をもっていた。
「いかにも。そなたがもし、アレッツィアを盟友国と思っているのなら、愚かな勘違いだ」
「なぜです?」
「帝国と手を組んだ以上、アレッツィアはもう後には引けない。この私と全面戦争をするしかない」
「侮りは危険ですぞ、陛下。この国は、アレッツィアにも帝国にも狙われているのですから」
「それは承知している」
「彼等が真っ先に侵攻軍を送りこむとしたら、それはセルト国でしょう」
シェスラは美しい顔に挑発的な笑みを浮かべた。
「無論、指を咥えて静観するような愚は冒さぬ。我が領土をアレッツィア勢に踏ませはしない」
言葉にこめられた侮蔑を読み取り、マルサラはぐっと唇を引き結んだ。悋気を抑えこんでから口を開く。
「我がペルシニアが静観していると?」
シェスラはほほえんだ。
「これは失礼。私とアレッツィアの板挟みに苦慮していることは、理解しているつもりだ」
ペルシニアはラピニシア攻略の最大の要衝の一つである。故にアレッツィアとセルトの双方から圧力をかけられ、二枚舌外交はお家芸になっている。
「今も、数千もの兵 が、悠々とペルシニア領を通っているかもしれませんぞ?」
「ならば好都合。これからの私の働きで、先の言葉を証明できるだろう。ちょうど、聖地奪還の前哨戦を探していたところだ」
「大層な自信がおありのようですが、前王がどのように伏したか、よもやお忘れではありますまい?」
「無論、覚えている。我が父を討ち滅ぼした男は、アレッツィアの百の精鋭を率いたアルセウスという将だ」
「左様。十七年前、一万もの軍勢を率いていた陛下の父君は、僅か百の小隊を率いていたアルセウスに敗れたのです」
「私は前王とは違う」
「あの時よりも、状況は遥かに悪い。アレッツィアは総力を挙げてセルト国に攻めてくるのですぞ。勝てるとお思いか」
「負ける気はまるでしないな」
マルサラは器用に片方の眉をつりあげた。この若き美貌の月狼の王 には、怖いものはないのだろうか?
だが、自信に満ちたシェスラを不遜だと感じる一方で、眩しくも感じていた。賞賛めいた感情を認めながら、マルサラは咳払いをして声を整えた。
「左様ですか……そこまでおっしゃるのなら、勝敗の行方を見届けさせていただきましょう」
「それが良い。直に緞帳 があがる。アレッツィアとの小競合いは演目 の余興だ。悠々、楽しむといい!」
シェスラは尊大な冷笑を浮かべると、警告を発する言葉を継いだ。
「だが、よく考えておくことだ。私が軍を発したあとでまだ態度を明確にしないようなら、アレッツィア勢よりも先に私が牙を剥くかもしれぬ」
冷酷な脅しに、マルサラは顔をしかめた。
「アレッツィアとは百年の交友があります。そう簡単に、掌を還すわけには参りません」
「そうであろう。送らなければ、アレッツィアの報復は免れないだろうからな」
「……そして兵を送れば、今度は貴方が牙を剥くというわけか」
苦々しい口調で呟く男の顔を見て、シェスラは美しい笑みを浮かべた。
「私は敗戦国に寛容だ。平和裡 に治めることを、今ここで約束しておこう」
若き王は、自軍の勝利を堂々と宣言した。
青い焔のような覇気にあてられ、マルサラは黙りこんだ。
彼でなければ、青年の気障 な啖呵 と一笑に付すところだが、シェスラに限っては驕慢 と侮ることはできない。
「……ご武運をお祈りしておきましょう。ですが、私の言葉をお忘れなきよう」
かろうじて威厳を保ち、一礼で応えた。
夏が終わろうとしている。
滞在しているのは、ペルシニア、リスム、エヴィト、ルクィーセ、チェル・カタ、ノアの六都市の代表である。
残りの二都市、ブルテリアとジュナは過去数十年、セルト国を訪れたことはない。彼等はアレッツィアと隣接している為、九都市のなかでも特に関係が密接で、アレッツィアと敵対するセルト国を同じく敵視していた。
アレッツィアが聖地ラピニシアの征服を掲げて、アルトニア帝国と手を結んだことは周知の事実である。アレッツィアは各都市に服従を迫り、現在四つの都市が応じている。他の二つの都市はセルト国と同盟を結び、残り三つの都市は静観している状況だ。
シェスラが一年ぶりに遠征から帰還した理由の一つに、諸都市の説得交渉があった。
凱旋して以来、連日連夜続く貴族の饗宴で、シェスラは各都市の外交官達を存分にもてなし、セルト国の豊かさ、財力を見せつけてきた。
外交官というものは総じて冷静で、表情や態度をあからさまに表にすることはない。だが、計算高く
おのが魅力を十分に理解しているシェスラは、重要な話をする際には彼等をまとめて相手にせず、人払いした部屋に席を設けて、一人ずつ相手をした。
ある晩、シェスラはペルシニアの特使、マルサラという初老の男と二人きりで対談に応じた。足は不自由だが、思慮深い銀色の
今夜も、シェスラは酒杯を傾けながら、彼の説法に耳を傾けていた。一通り聞き終えたあと、杯を卓に置き、マルサラの目を見つめていった。
「どうやら私は、そろそろ友として忠告をしなければならないようだ」
「忠告?」
マルサラは訝った。
セルトへきて三年経つ今も、シェスラと相対する際には神経を使う。往時に比べたら、言葉遣いも砕けてきたし、表情もずっと親しげになった。けれどもそれは依然として冷たい穏やかさであり、
「いかにも。そなたがもし、アレッツィアを盟友国と思っているのなら、愚かな勘違いだ」
「なぜです?」
「帝国と手を組んだ以上、アレッツィアはもう後には引けない。この私と全面戦争をするしかない」
「侮りは危険ですぞ、陛下。この国は、アレッツィアにも帝国にも狙われているのですから」
「それは承知している」
「彼等が真っ先に侵攻軍を送りこむとしたら、それはセルト国でしょう」
シェスラは美しい顔に挑発的な笑みを浮かべた。
「無論、指を咥えて静観するような愚は冒さぬ。我が領土をアレッツィア勢に踏ませはしない」
言葉にこめられた侮蔑を読み取り、マルサラはぐっと唇を引き結んだ。悋気を抑えこんでから口を開く。
「我がペルシニアが静観していると?」
シェスラはほほえんだ。
「これは失礼。私とアレッツィアの板挟みに苦慮していることは、理解しているつもりだ」
ペルシニアはラピニシア攻略の最大の要衝の一つである。故にアレッツィアとセルトの双方から圧力をかけられ、二枚舌外交はお家芸になっている。
「今も、数千もの
「ならば好都合。これからの私の働きで、先の言葉を証明できるだろう。ちょうど、聖地奪還の前哨戦を探していたところだ」
「大層な自信がおありのようですが、前王がどのように伏したか、よもやお忘れではありますまい?」
「無論、覚えている。我が父を討ち滅ぼした男は、アレッツィアの百の精鋭を率いたアルセウスという将だ」
「左様。十七年前、一万もの軍勢を率いていた陛下の父君は、僅か百の小隊を率いていたアルセウスに敗れたのです」
「私は前王とは違う」
「あの時よりも、状況は遥かに悪い。アレッツィアは総力を挙げてセルト国に攻めてくるのですぞ。勝てるとお思いか」
「負ける気はまるでしないな」
マルサラは器用に片方の眉をつりあげた。この若き美貌の
だが、自信に満ちたシェスラを不遜だと感じる一方で、眩しくも感じていた。賞賛めいた感情を認めながら、マルサラは咳払いをして声を整えた。
「左様ですか……そこまでおっしゃるのなら、勝敗の行方を見届けさせていただきましょう」
「それが良い。直に
シェスラは尊大な冷笑を浮かべると、警告を発する言葉を継いだ。
「だが、よく考えておくことだ。私が軍を発したあとでまだ態度を明確にしないようなら、アレッツィア勢よりも先に私が牙を剥くかもしれぬ」
冷酷な脅しに、マルサラは顔をしかめた。
「アレッツィアとは百年の交友があります。そう簡単に、掌を還すわけには参りません」
「そうであろう。送らなければ、アレッツィアの報復は免れないだろうからな」
「……そして兵を送れば、今度は貴方が牙を剥くというわけか」
苦々しい口調で呟く男の顔を見て、シェスラは美しい笑みを浮かべた。
「私は敗戦国に寛容だ。平和
若き王は、自軍の勝利を堂々と宣言した。
青い焔のような覇気にあてられ、マルサラは黙りこんだ。
彼でなければ、青年の
「……ご武運をお祈りしておきましょう。ですが、私の言葉をお忘れなきよう」
かろうじて威厳を保ち、一礼で応えた。