月狼聖杯記
4章:月光の微笑 - 10 -
夜の帳が降りてくる。
濃密な情事を終える頃、空は黄昏が濃くなり、部屋のなかにも青みがかった暗闇が忍びこんでいた。
夜空には月が昇り、星屑が無数に散っている。
シェスラは躰を起こすと、ラギスの唇に触れるだけのキスを落とした。裸に繻子をひっかけて部屋をでていく。じきに戻ってきて、ぼんやり天蓋を仰いでいるラギスの顔を上から覗いた。
「ラギス、こい」
「……」
シェスラは、のろのろと躰を起こすラギスの手を引いて、湯を張った純銀製の盥の前に連れていった。そうして自ら麻布を湯にひたして、ラギスの躰を拭き始める。
この男は何なのだろう――甲斐甲斐しく世話をする、美しい月狼の王 を眺めながら、ラギスは不思議に思った。
これまでにも何遍も考えて、その度に、あらゆる言葉をあてはめてきた。
番 。
その言葉がいつでも真っ先に思い浮かぶのだが、ただの音の連なりのようにも聞こえる。
では、一体何なのだろう?
湯浴みをして身なりを整えた後、シェスラは手燭 を手に、ラギスを部屋の外へ連れだした。
廊下の格子は開いており、七月の宵の、心地よい風が流れてこんでいる。
着いた先は落ち着いた内装の書斎で、壁の左右に本棚があり、長い梯子が立てかけられていた。
不思議な部屋だ。
この部屋の匂いを、知っている気がする――部屋を眺めるラギスを、シェスラは黙って見つめている。
真新しい絨毯や書斎机の傍に、年代物の置時計や、小箱などが置かれている。
置時計は、文字盤の上に、月の満ち欠けを示す仕掛けが施されていた。樫の板を張られており、小さな傷が入っている。
(……なんだ? どこかで見たような……?)
指で触れていると、傍にシェスラが寄ってきた。
「そなたの為に整えた書斎だ。好きに使うといい」
ラギスはシェスラの顔をまじまじと見つめた。
「文字は習得したのだろう?」
「前よりはな」
書架に並べられた蔵書の中に、ヤクソンにまつわる資料を見つけて、ラギスは目を瞠った。
「……これ」
「ヤクソンの資料を集めてある。好きに読むといい」
革表紙で綴じた写本や、巻物状の書物、特別な稀覯 書がきちんと並んでいる。内容は、ヤクソンの歴史や自然、風俗や芸術に至るまで多岐に渡る。
本棚の端から目で追いかけていき、一冊の画集本に惹かれた。
表紙に、豊かな森が印刷されている。
ヤクソンの森を描いた、全編色のついた画集本だ。
紙を捲る手が、止まらなくなった。
記憶のなかの通りのヤクソンが、色彩豊かに描かれている。
美しい山河、雪化粧に覆われた冬景色、豊かな森に暮らす鳥獣たち。狩猟しているヤクソンの月狼達……
穏やかで、幸せな日々。
記憶のなかで、少年の姿をしたラギスとビョーグが、笑顔で、野を力強く駆けていった。
幼い笑い声が、今も耳の奥に遺 っている。
(……遠いな)
もう一度、あの豊かなヤクソンの森に還れたら、どんなにいいだろう。
言葉を失くして挿絵に魅入るラギスの肩を、シェスラは優しく抱き寄せた。
「美しいな」
「ああ……俺の故郷だ」
一枚、一枚に魅入りながら、ゆっくり捲る。
夏の果樹園を描いた様子に、思わず手が止まった。
平和と豊穣の子供時代。
夏の間、お決まりの遊び場にしていた。
緑と橙 に染まる杏の並木。
枝もたわわに実をつけて、天に向かって呻吟 していた。
今でも鼻孔に、風に運ばれてくる甘い香りが遺っている。
緑の傘の下を、ビョーグと一緒に走り抜けていった。瞳をきらきら輝かせて、満面の笑みを浮かべて。
――ラギス!
懐かしい声が呼んでいる。朗らかで、まばゆいばかりのビョーグの笑顔。
首から下げた小袋が熱を持った気がして、ラギスは服の上から小袋の上に手を当てた。
「どうした?」
「……いや」
手を離して、ラギスは再び画集を捲り始めた。
はらり、はらり……
紙を捲りながら、心は、遠い故郷への帰路を辿っていく。
悠久の海のような時の中を、漂っているようだった。
二人とも黙っているから、ラギスはもの思わし気な空想をほしいままにしていた。
静かな時間が流れていく。王の傍で、これほど穏やかに憩うのは、初めてのことかもしれない。
「……ヤクソンの森にいるそなたを、見てみたかったな」
吐息のような囁きに、ラギスは画集から顔をあげた。
凪ぎの海のような静謐な蒼い瞳は、真摯な光を灯してラギスを映していた。
「十五歳までは、本当に幸せだった。火の海に呑まれてしまったが……その時、あんたはまだ即位していなかったんだよな」
この時、ラギスは初めて贖罪めいた言葉を口に乗せたが、シェスラは表情を変えずに頷いた。
「そうだな」
「……あんたはガキの頃から、ふてぶてしそうだな」
「そうでもない。覇権争いで、しょっちゅう死にかけていたぞ」
「あんたが?」
「子供の頃は、力を持たないことが忌々しくて仕方なかった」
「それで、性格が歪んじまったのか」
シェスラは冷ややかな目をラギスに向けた。
「そなたは少し、言葉を慎んだらどうだ」
「正直なだけだ。今じゃもう、逆らう奴は誰もいないわけだ」
「ふ、歯向かってくるのは、そなたなくらいだ」
ラギスが鼻を鳴らすと、シェスラは形の良い唇を笑みに和らげた。
水晶の瞳が蕩けて、じわりと頬が熱くなる。動揺を誤魔化すようにラギスは視線を逸らした。
「もし、お前が……」
「うん?」
もし、あの時にシェスラがヤクソンにきていたら。出会っていたら。官吏の横暴を止めてくれただろうか?
起こりえなかった未来、可能性を思い描き、ラギスは諦めるように瞼を伏せた。
「……なんでもない」
画集に視線を落とすと、紙を捲るラギスの手の上に、シェスラはそっと手を重ねた。
「希 わくば、もっと早くに出会いたかった」
白皙 の美貌に、悔しげな、遣る瀬無い影が射した。
「……会えたとしても、お前はようやく歩きだした子供だったろう」
「悔しいが、年の差ばかりはどうにも埋まらん」
憮然と呟く顔が年相応の青年に見えて、ラギスは戸惑った。蒼い視線で問われて、かぶりを振る。
シェスラは心の奥底まで見透かすような、水晶の瞳でラギスを見つめた。
「……そなたと出会ってから、当時の地方官吏を調べあげた。ヤクソンに兵を送りこんだ官吏を突き止めた」
はっと息を呑み、ラギスはまじまじとシェスラを見つめた。
「残念というべきなのか迷うが、既に死んでいた。五年前、病死だ」
ラギスは言葉がでてこなかった。一瞬、何もかもが空虚に感じられたが、長年の霧が晴れたような、ある種の決着を感じた。
「……苦しめて、すまなかった」
シェスラは水晶の瞳を翳らせ、悔いと決意の滲んだ声でいった。
「そなたの故郷を護れず、誇りを傷つけ、永く苦しめたことを後悔している」
「……後悔、だと」
一瞬、ラギスは凄みのある、ぞっとした表情を浮かべた。シェスラは怯むことなく、彼をじっと見つめた。
「どのような言葉も無意味だと判っている。ヤクソンを蘇らせることはできない……ただ、哨戒 と復興を兼ねて、ヤクソンに巡察隊を送った」
「何?」
「少しずつ、瓦礫を片づけさせている。亡骸はヤクソンの土に埋めて、墓標を立てさせている」
ラギスは驚愕に目を見開いた。
「……あんたが指示したのか?」
「司祭を送る段取りまで済んだら、そなたにいおうと思っていた」
なんともいいようのない漠とした感情が、ラギスの心に忍び入ってきた。
「……故郷の件は別としても、聖杯である俺にあんたがしたことは、最低最悪の度し難い屈辱だと思ってる」
後悔に翳る端麗な顔を見て、ラギスはくぐもった呻き声を漏らした。
「……だが、俺もあんたを殺そうとした。処刑されても文句はいえまい。それなのに、あんたはヤクソンの同胞を弔ってくれたという……なら、もういい。謝罪はもういい」
「ラギス……」
水晶の瞳に光が灯るのを、ラギスはじっと見つめた。ややあってから視線を逸らす。
「二度と俺の意思を無視して、支配しようと思うなよ」
釘を刺すと、判っている、とシェスラは頷いた。
「そなたの不羈 の精神を、私は好ましく思っている。支配したいわけではない」
「……」
「力で支配しても渇きは満たされぬ……そなたを失いかけて、思い知らされた」
確かに、生死の淵を彷徨い、目醒めてから王は変わった。
態度を改め、聖杯を敬い、ラギスを労わり……ついには、王としてラギスに畏敬の念を抱かせた。
静寂が流れる。部屋の調度を眺めるラギスの視線を辿り、シェスラは唇を開いた。
「この部屋の調度は、ヤクソンの森の朽ち木や、瓦礫から持ちだした石で造らせた」
その言葉に閃くものがあり、ラギスは目を瞠った。シェスラを見つめると、じっと見つめ返してくる。ややあって、ラギスはもう一度部屋を眺め、置時計に目を留めた。
「……この樫の時計」
「集落の瓦礫から持ちだしたものを、持ち帰って修理させたのだ」
「……見たことがある」
祖母の家にあった時計に似ている――思った瞬間に、目の前に果樹園の並木道が現れた。
祖母の家に続く小路だ。
萌える新緑の枝葉から木漏れ陽が降り注ぐ。
懐かしい光景を幻視していると、シェスラは後ろに立ち、そっと腕を回してきた。その腕が、緊張で幽 かに震えていることに気がついた。
「……いつか、見にいこう」
静かな言葉に、福音書的な響きを感じた。ラギスは前を向いたまま頷くと、少し躊躇ってから、シェスラの目を見て唇を開いた。
「……感謝する」
水晶の瞳は喜びに輝いた。月狼の王は、安堵したように肩から力を抜いて、ほほえみすら浮かべた。
月光のように優しく、美しい笑みを。
敬愛の眼差しを向けられて、ラギスの胸は複雑怪奇に乱された。戸惑い、視線を逸らす。
「そなたと、二人で……」
囁くようにシェスラがいう。
奇妙なことだが、ラギスにはその提案を強固に跳ねのける気にはなれなかった。数ヶ月前からしてみれば、信じられないことだ。
(……どうかしている)
内心で首を捻りながら、彼がまだ月光のような笑みを浮かべているのか、確認したくなった。
顔をあげたい衝動を堪えて、手元の版画に視線を落とす。
美しい、ヤクソンの森。
印刷された、緑の版画を指でそっとなぞって、密やかな会話を留めるように、開いた項に栞を挟んだ。
+
星暦五〇三。
セルト国の大王、シェスラはラピニシア攻略に向けて、次のように正式表明を国領に示した。
国領を侵した賊国に鉄槌を下す。
月狼の有志と共に連合軍を率いて、聖地ラピニシアに向けて出兵す。
アルトニア帝国と手を組んだアレッツィア勢への宣戦布告である。
北のチャヴァル連邦都市国家からの、アレッツァ離反以来、沈黙を保っていた各家門の長は、身の振り方を再び問われることになる。
北の最大都市アレッツァに倣い帝国に従うべきか、或いは、シェスラの手を取り連合軍となるべきか――
それぞれの思惑が揺れる中、アレッツィアから五千の侵攻軍が南下を始めた。
敵の侵攻経路が読めぬなか、シェスラはラギスを伴い、草原のネロアに赴く号令を発する。
ドナロ大陸制覇の前哨戦、アレッツィア勢との闘いの火蓋が切って落とされてようとしていた。
第二部「誓い」 (2017年9月開始)
濃密な情事を終える頃、空は黄昏が濃くなり、部屋のなかにも青みがかった暗闇が忍びこんでいた。
夜空には月が昇り、星屑が無数に散っている。
シェスラは躰を起こすと、ラギスの唇に触れるだけのキスを落とした。裸に繻子をひっかけて部屋をでていく。じきに戻ってきて、ぼんやり天蓋を仰いでいるラギスの顔を上から覗いた。
「ラギス、こい」
「……」
シェスラは、のろのろと躰を起こすラギスの手を引いて、湯を張った純銀製の盥の前に連れていった。そうして自ら麻布を湯にひたして、ラギスの躰を拭き始める。
この男は何なのだろう――甲斐甲斐しく世話をする、美しい
これまでにも何遍も考えて、その度に、あらゆる言葉をあてはめてきた。
その言葉がいつでも真っ先に思い浮かぶのだが、ただの音の連なりのようにも聞こえる。
では、一体何なのだろう?
湯浴みをして身なりを整えた後、シェスラは
廊下の格子は開いており、七月の宵の、心地よい風が流れてこんでいる。
着いた先は落ち着いた内装の書斎で、壁の左右に本棚があり、長い梯子が立てかけられていた。
不思議な部屋だ。
この部屋の匂いを、知っている気がする――部屋を眺めるラギスを、シェスラは黙って見つめている。
真新しい絨毯や書斎机の傍に、年代物の置時計や、小箱などが置かれている。
置時計は、文字盤の上に、月の満ち欠けを示す仕掛けが施されていた。樫の板を張られており、小さな傷が入っている。
(……なんだ? どこかで見たような……?)
指で触れていると、傍にシェスラが寄ってきた。
「そなたの為に整えた書斎だ。好きに使うといい」
ラギスはシェスラの顔をまじまじと見つめた。
「文字は習得したのだろう?」
「前よりはな」
書架に並べられた蔵書の中に、ヤクソンにまつわる資料を見つけて、ラギスは目を瞠った。
「……これ」
「ヤクソンの資料を集めてある。好きに読むといい」
革表紙で綴じた写本や、巻物状の書物、特別な
本棚の端から目で追いかけていき、一冊の画集本に惹かれた。
表紙に、豊かな森が印刷されている。
ヤクソンの森を描いた、全編色のついた画集本だ。
紙を捲る手が、止まらなくなった。
記憶のなかの通りのヤクソンが、色彩豊かに描かれている。
美しい山河、雪化粧に覆われた冬景色、豊かな森に暮らす鳥獣たち。狩猟しているヤクソンの月狼達……
穏やかで、幸せな日々。
記憶のなかで、少年の姿をしたラギスとビョーグが、笑顔で、野を力強く駆けていった。
幼い笑い声が、今も耳の奥に
(……遠いな)
もう一度、あの豊かなヤクソンの森に還れたら、どんなにいいだろう。
言葉を失くして挿絵に魅入るラギスの肩を、シェスラは優しく抱き寄せた。
「美しいな」
「ああ……俺の故郷だ」
一枚、一枚に魅入りながら、ゆっくり捲る。
夏の果樹園を描いた様子に、思わず手が止まった。
平和と豊穣の子供時代。
夏の間、お決まりの遊び場にしていた。
緑と
枝もたわわに実をつけて、天に向かって
今でも鼻孔に、風に運ばれてくる甘い香りが遺っている。
緑の傘の下を、ビョーグと一緒に走り抜けていった。瞳をきらきら輝かせて、満面の笑みを浮かべて。
――ラギス!
懐かしい声が呼んでいる。朗らかで、まばゆいばかりのビョーグの笑顔。
首から下げた小袋が熱を持った気がして、ラギスは服の上から小袋の上に手を当てた。
「どうした?」
「……いや」
手を離して、ラギスは再び画集を捲り始めた。
はらり、はらり……
紙を捲りながら、心は、遠い故郷への帰路を辿っていく。
悠久の海のような時の中を、漂っているようだった。
二人とも黙っているから、ラギスはもの思わし気な空想をほしいままにしていた。
静かな時間が流れていく。王の傍で、これほど穏やかに憩うのは、初めてのことかもしれない。
「……ヤクソンの森にいるそなたを、見てみたかったな」
吐息のような囁きに、ラギスは画集から顔をあげた。
凪ぎの海のような静謐な蒼い瞳は、真摯な光を灯してラギスを映していた。
「十五歳までは、本当に幸せだった。火の海に呑まれてしまったが……その時、あんたはまだ即位していなかったんだよな」
この時、ラギスは初めて贖罪めいた言葉を口に乗せたが、シェスラは表情を変えずに頷いた。
「そうだな」
「……あんたはガキの頃から、ふてぶてしそうだな」
「そうでもない。覇権争いで、しょっちゅう死にかけていたぞ」
「あんたが?」
「子供の頃は、力を持たないことが忌々しくて仕方なかった」
「それで、性格が歪んじまったのか」
シェスラは冷ややかな目をラギスに向けた。
「そなたは少し、言葉を慎んだらどうだ」
「正直なだけだ。今じゃもう、逆らう奴は誰もいないわけだ」
「ふ、歯向かってくるのは、そなたなくらいだ」
ラギスが鼻を鳴らすと、シェスラは形の良い唇を笑みに和らげた。
水晶の瞳が蕩けて、じわりと頬が熱くなる。動揺を誤魔化すようにラギスは視線を逸らした。
「もし、お前が……」
「うん?」
もし、あの時にシェスラがヤクソンにきていたら。出会っていたら。官吏の横暴を止めてくれただろうか?
起こりえなかった未来、可能性を思い描き、ラギスは諦めるように瞼を伏せた。
「……なんでもない」
画集に視線を落とすと、紙を捲るラギスの手の上に、シェスラはそっと手を重ねた。
「
「……会えたとしても、お前はようやく歩きだした子供だったろう」
「悔しいが、年の差ばかりはどうにも埋まらん」
憮然と呟く顔が年相応の青年に見えて、ラギスは戸惑った。蒼い視線で問われて、かぶりを振る。
シェスラは心の奥底まで見透かすような、水晶の瞳でラギスを見つめた。
「……そなたと出会ってから、当時の地方官吏を調べあげた。ヤクソンに兵を送りこんだ官吏を突き止めた」
はっと息を呑み、ラギスはまじまじとシェスラを見つめた。
「残念というべきなのか迷うが、既に死んでいた。五年前、病死だ」
ラギスは言葉がでてこなかった。一瞬、何もかもが空虚に感じられたが、長年の霧が晴れたような、ある種の決着を感じた。
「……苦しめて、すまなかった」
シェスラは水晶の瞳を翳らせ、悔いと決意の滲んだ声でいった。
「そなたの故郷を護れず、誇りを傷つけ、永く苦しめたことを後悔している」
「……後悔、だと」
一瞬、ラギスは凄みのある、ぞっとした表情を浮かべた。シェスラは怯むことなく、彼をじっと見つめた。
「どのような言葉も無意味だと判っている。ヤクソンを蘇らせることはできない……ただ、
「何?」
「少しずつ、瓦礫を片づけさせている。亡骸はヤクソンの土に埋めて、墓標を立てさせている」
ラギスは驚愕に目を見開いた。
「……あんたが指示したのか?」
「司祭を送る段取りまで済んだら、そなたにいおうと思っていた」
なんともいいようのない漠とした感情が、ラギスの心に忍び入ってきた。
「……故郷の件は別としても、聖杯である俺にあんたがしたことは、最低最悪の度し難い屈辱だと思ってる」
後悔に翳る端麗な顔を見て、ラギスはくぐもった呻き声を漏らした。
「……だが、俺もあんたを殺そうとした。処刑されても文句はいえまい。それなのに、あんたはヤクソンの同胞を弔ってくれたという……なら、もういい。謝罪はもういい」
「ラギス……」
水晶の瞳に光が灯るのを、ラギスはじっと見つめた。ややあってから視線を逸らす。
「二度と俺の意思を無視して、支配しようと思うなよ」
釘を刺すと、判っている、とシェスラは頷いた。
「そなたの
「……」
「力で支配しても渇きは満たされぬ……そなたを失いかけて、思い知らされた」
確かに、生死の淵を彷徨い、目醒めてから王は変わった。
態度を改め、聖杯を敬い、ラギスを労わり……ついには、王としてラギスに畏敬の念を抱かせた。
静寂が流れる。部屋の調度を眺めるラギスの視線を辿り、シェスラは唇を開いた。
「この部屋の調度は、ヤクソンの森の朽ち木や、瓦礫から持ちだした石で造らせた」
その言葉に閃くものがあり、ラギスは目を瞠った。シェスラを見つめると、じっと見つめ返してくる。ややあって、ラギスはもう一度部屋を眺め、置時計に目を留めた。
「……この樫の時計」
「集落の瓦礫から持ちだしたものを、持ち帰って修理させたのだ」
「……見たことがある」
祖母の家にあった時計に似ている――思った瞬間に、目の前に果樹園の並木道が現れた。
祖母の家に続く小路だ。
萌える新緑の枝葉から木漏れ陽が降り注ぐ。
懐かしい光景を幻視していると、シェスラは後ろに立ち、そっと腕を回してきた。その腕が、緊張で
「……いつか、見にいこう」
静かな言葉に、福音書的な響きを感じた。ラギスは前を向いたまま頷くと、少し躊躇ってから、シェスラの目を見て唇を開いた。
「……感謝する」
水晶の瞳は喜びに輝いた。月狼の王は、安堵したように肩から力を抜いて、ほほえみすら浮かべた。
月光のように優しく、美しい笑みを。
敬愛の眼差しを向けられて、ラギスの胸は複雑怪奇に乱された。戸惑い、視線を逸らす。
「そなたと、二人で……」
囁くようにシェスラがいう。
奇妙なことだが、ラギスにはその提案を強固に跳ねのける気にはなれなかった。数ヶ月前からしてみれば、信じられないことだ。
(……どうかしている)
内心で首を捻りながら、彼がまだ月光のような笑みを浮かべているのか、確認したくなった。
顔をあげたい衝動を堪えて、手元の版画に視線を落とす。
美しい、ヤクソンの森。
印刷された、緑の版画を指でそっとなぞって、密やかな会話を留めるように、開いた項に栞を挟んだ。
+
星暦五〇三。
セルト国の大王、シェスラはラピニシア攻略に向けて、次のように正式表明を国領に示した。
国領を侵した賊国に鉄槌を下す。
月狼の有志と共に連合軍を率いて、聖地ラピニシアに向けて出兵す。
アルトニア帝国と手を組んだアレッツィア勢への宣戦布告である。
北のチャヴァル連邦都市国家からの、アレッツァ離反以来、沈黙を保っていた各家門の長は、身の振り方を再び問われることになる。
北の最大都市アレッツァに倣い帝国に従うべきか、或いは、シェスラの手を取り連合軍となるべきか――
それぞれの思惑が揺れる中、アレッツィアから五千の侵攻軍が南下を始めた。
敵の侵攻経路が読めぬなか、シェスラはラギスを伴い、草原のネロアに赴く号令を発する。
ドナロ大陸制覇の前哨戦、アレッツィア勢との闘いの火蓋が切って落とされてようとしていた。
第二部「誓い」 (2017年9月開始)