月狼聖杯記

4章:月光の微笑 - 6 -

 食堂をでて練兵場へ戻る途中、廊下の奥まった陰から、いい争う声が聞えてきた。無視を決めこんで素通りしかけたが、ジリアンの声だと判り足を止めた。
「――私に触るな」
 ジリアンはよく手入れされた細刃の剣を、対面する騎士に向けていた。味方同士の抜刀は法度はっとであることを、真面目な少年が知らないはずはない。
「誰に剣を向けているか判っているのか? 見習い騎士が、調子に乗るなよ」
「身分を張るおつもりなら、私も卿に劣りませんが?」
 悠々と答えるジリアンに、男は忌々しそうに舌打ちをした。
「私の領土に召しあげてやろうといっているのに、無礼な……」
「ジリアン!」
 険悪な空気に割って入ると、二人ははっとしたようにラギスを見た。男はラギスを知っているらしい。気障ったらしく襟を正して笑みかけた。
「これは、聖杯殿」
 ラギスは顔をしかめながら、ジリアンの隣に並んだ。少年は目をあわせようとせず、力ない動作で、剣を金糸で織られた鞘にしまった。
「俺の従卒に何の用だ?」
「いえ、ほんの世間話をしていただけですよ」
「本当か?」
 ジリアンに視線を向けると、少年は悔しそうに唇を噛みしめた。男にいい寄られているところを見られて、羞恥の極に耐えているようだ。
「この少年は俺の従卒だ。勧誘するのはやめてもらおうか」
「誤解ですよ、勧誘だなんて滅相もありません」
「忘れるなよ?」
 男に釘を刺し、ラギスはきびすを返した。ジリアンを見ると、怯えたような眼差しを向けてきた。
「こい」
 かしこまりました、と硬い声で返事をする。
 ラギスは廊下を歩きながら、強張った表情のジリアンを見下ろした。
「生半可綺麗な顔に生まれると、苦労するな」
「……」
 ジリアンの落ちこんだ様子を見る限り、さっきのようなことが以前にもあったのだろう。
「しけたつらするな。お前の剣の腕は確かだよ。そんじょそこらの男には負けやしねェ」
 ぶっきらぼうにラギスがいうと、ジリアンはゆるゆると顔をあげた。
「いろんな奴と戦ってきたけど、お前は強いよ。立派な一人前の戦士だ。恥じることはない。しゃんと顔をあげてろ」
「はい、ラギス様」
 ジリアンはきりっと顔をあげた。瞳は輝きを取り戻し、感謝の色は涙に変わっていく。ラギスは気づかないふりをして歩きだしたが、
「ラギス様……」
 おずおずと声をかけられて、足を止めた。
「どうした?」
 ジリアンは唇を緊張に震わせ、決意を秘めた瞳でラギスを見つめた。
「……私は子供の頃、父から折檻を受けていました。降り懸かる暴力から、身を守る術を持たない弱い子供でした」
 唐突な告白にラギスが面食らっていると、ジリアンは躊躇った様子で言葉を切り、数秒ほどしてから唇を開いた。
「ですが、ラギス様の試合を見て、変わろうと思ったのです」
「俺?」
「はい。初めて拝見したのは、私が八歳の時、ネロアの闘技場でした」
 ネロアにいたのは、八年以上も昔のことだ。驚きに目を瞠るラギスを見つめて、ジリアンは胸を両手で押さえた。
「ラギス様の試合を見て、この胸は熱くなりました。このままではいけない、強くなりたい――そう思って騎士団にいる伯父上を頼り、騎士になることを決意しました」
「……」
「ラギス様は、いつでも、どんな相手にも勇敢に立ち向かい、勝ってみせた。プリザム、ネロア、チェスカ、ドミナス・アロ……貴方の剣は、私に誇りと勇気を与えてくださったのです」
 ラギスは驚きに目を瞠った。
 今あげた都市は全て、ラギスが過去にいた闘技場だ。この少年は、ラギスの試合をどれだけ見てきたのだろう?
「ラギス様は、私が強くなろうと思ったきっかけであり、騎士を志す過程、そしてお仕えさせていただいている今に至るまで、私の生きる目標なんです」
 真っすぐな崇敬の眼差しを向けられて、ラギスは困惑し、頭を掻きながら視線を泳がせた。
「……俺には、そんなこといってもらう価値なんてねぇよ」
「いいえ!」
 ジリアンらしからぬ、強い口調で応じてきた。
「貴方に忠誠を誓い、お仕えできることが、私は心の底から嬉しくて、誇らしいのです! いつか、この気持ちをお伝えしたいとずっと思っておりました」
「……」
「ラギス様。僭越ながら、貴方が私にくださった言葉を、私からも贈らせてください。立場や身分に関係なく、貴方はどんな時でも誇り高い戦士です」
 ジリアンは勇敢に主張した。ラギスは戸惑いながらも、近頃は下降気味であった自尊心が潤うのを感じた。
「……ありがとう」
 感謝を口にすると、途端にジリアンは真っ赤になった。ぱちぱちと目を瞬き、頬を染めて足元に視線を落とす。
「い、いいえ、出過ぎたことを、も、申しまして……」
 どうやら彼は、極度に緊張すると吃音がでるらしい。うまく喋れずに、焦っている。
 完璧な礼節を身に着けている少年の意外な一面を知り、ラギスは自然と口元を緩めた。
「お前は、俺にはもったいないくらい優秀な従卒だよ。そんな風にいってくれて、感謝する」
 頭に手を置いて、無造作にぐしゃぐしゃと撫でると、ジリアンの瞳が輝いた。
「いいえ、私の方こそもったいないお言葉です! お礼を申しあげるのは私の方です、ラギス様」
「おう」
 ラギスはそっけない返事をしたが、ジリアンは心底嬉しそうにほほえんだ。吃音もやんでいる。
 疑うべくもなく、善良な少年だ。
 今思えば、出会った日に、拝謁の栄を賜り光栄に存じます――なんて慇懃無礼な挨拶をしたのも、単純に緊張していただけだろう。
 向けてくれる敬意は、上辺でなく彼の本心だった。
 貴族だからと疑い、斜に構えて、率直な善意を曇らせていたのは、ラギスの偏見と頑なな冷徹さだ。
 昏く陰惨な過去十七年間の無情が、ラギスの魂を酸のように蝕んでしまった。
「このあと、また練兵場にいかれるのですよね?」
「……ああ」
「必要なものを取って参ります」
 ジリアンが照れ隠しにそういったことは、ラギスにも判った。
 駆けていく背中が眩しくて、ラギスはすぐに動くことができなかった。
 輝くような幸せと、善意と希望とに満ちていた子供時代が、かつてラギスにもあったのだ。
 遥かなるヤクソン――昏く陰惨な過去十七年間の無情に、魂を蝕まれながら、ヤクソンは、変わらず心にある永遠永久とことわ故郷ふるさとだった。
 記憶のなかできらめく懐かしい光景に、たとえようのない哀憐と、愛おしさとを感じていた。