月狼聖杯記
2章:饗宴の涯て - 4 -
発情から五日目。
ラギスは褥の準備の為に、湯浴みに向かっていた。
入浴する時も、首輪を外されることはない。
召使に傅かれていても、獣化を赦されないのなら奴隷と同じだ。呼び名が、奴隷剣闘士から聖杯に変わっただけ。戦士としての誇りを傷つけられている今の方が、精神的には酷い。
それでも、ラギスは耐えていた。
機は必ず訪れる。発情が落ち着くまでは、耐え忍ぶのだ。
入浴を終えて部屋に戻る道すがら、これからの情事を考えまいとし、代わりにロキのことを考えた。
軍役を望んでいたが、どうしたのだろう?
騎士団に配属されたと聞いたが、まだ城に留まっているのだろうか。
思い耽っていると、石柱の影から、夜闇よりもなお暗い衣装を纏った刺客が現れた。
鎖に戒められ、相手が殺気を滲ませていなかった故に、ラギスの反応は遅れた。短剣の閃きを躱し損ねて、腕から血が噴きだす。
「ぐッ」
「ラギス様!」
後ろで、年若い従卒が叫ぶ。華奢な少年ではひとたまりもないだろう――ラギスは背にジリアンを庇ったが、予想に反して彼は抜刀するやラギスの前に飛びだした。
「ひっこンでろッ!」
ラギスは怒鳴ったが、ジリアンは躊躇いもなく敵に斬りかかった。
意外なことに、彼は強かった。それもかなり。
敵は五人組で、三人をジリアンが斬り伏せ、一人ははラギスが体術でねじ伏せ、残った一人は、奪った剣でラギスが斬り捨てた。
辺りに静けさが戻ると、ジリアンはラギスの傷を見て慌てた。
「どうってことねェよ」
ラギスにとってはかすり傷程度のものだったが、ジリアンは悔しそうに唇を噛みしめた。手際よく清潔な麻布で患部を縛る。
すぐに衛兵が駆け寄ってきて、彼等は二人を油断なく守りながら、安全な寝室まで送り届けた。
部屋に戻ると、ジリアンは改めて丁寧な処置を施した。
これまで気にも留めていなかった従卒の少年に、ラギスは初めて興味を抱いていた。大人しく手当を受けながら、端正な顔に視線を注ぐ。
剣を持ったこともないような、天使めいた外貌をしているが、刺客を瞬殺した剣技は目を瞠るものがあった。
「剣は、騎士団で習ったのか?」
声をかけられたのがよほど意外だったのか、ジリアンは驚いたように顔をあげた。
「はい。七歳の頃に、騎士見習いを始めました」
「いい腕だな」
「ありがとうございます」
ジリアンは恥ずかしそうに視線を伏せると、口元に柔らかな笑みを浮かべた。これまでまともに口を利いたこともなかったが、どうやら好意的な感情を向けられているようで、ラギスは戸惑った。
「……騎士ってのは、もっと居丈高で無駄に偉そうで、恰好ばかりの貴族が金で買う称号だと思ってたぜ」
にべもない酷評に、ジリアンは口元を僅かに緩めたが、すぐに引き結んで笑みを消した。
「若輩ではありますが、月狼銀毛騎士団の騎士に相応しくあるよう、精進しております」
「お前みたいな奴もいるんだな」
「……ありがとうございます」
ジリアンは頬を染めてはにかんだ。
「騎士団で何を学んだ?」
「多岐に渡ります。剣技はもちろん、広範な教養と、礼節と正義、寛容さ。清貧の生活を知り、己を律すること。主君に忠誠を誓うこと、騎士道精神に至るまで、学ぶことは多くございます」
「はっ、聖人かよ」
呆れたようにラギスがいうと、ジリアンはかぶりを振った。
「騎士は皆、大王様の藩屏 です。あのお方は、仕えるに値する素晴らしい月狼の王 です」
「お前も信奉者か」
声に批判を感じとり、ジリアンは怯んだ。その様子を見て、ラギスは頭をかきながら、こうつけ加えた。
「……別に、責めてるわけじゃない。どう思うかは、個人の自由だ」
「は、はい……」
「お前もついてないな、王ではなく、俺の従卒にさせられて」
同情の目で見ると、いいえ、とジリアンは強い口調で否定した。
「王の大切な方にお仕えすることができて、誇りに思っております」
曇りのない眼差しを向けられて、今度はラギスが怯んだ。そうかよ、とぶっきらぼうにいって視線を外す。
なんともいえぬ沈黙が流れる。
王の訪 いを告げる衛兵の声に、静寂は破られた。ジリアンと入れ替わるようにして部屋に入ってきたシェスラは、ラギスの腕を見て眉をひそめた。
「そなたは頻繁に血を流しているな」
「うるせぇ」
「だが、今回に関しては私の責だ。王の居住区に刺客を放った阿呆に、相応の礼をしなくてはな」
凄惨な笑みを浮かべると、シェスラはつと腕を伸ばし、ラギスの首の枷を外した。
「……いいのかよ」
「枷があった方が良かったか?」
「んなわけないだろ」
ラギスは顔をしかめていった。
「二度と私の居住区を荒させはしないが、そなたにも多少の自由はあった方が良いだろう」
「……」
今なら月狼になれる。喉笛に噛みつける――ラギスは身の裡 にざわめく獣性を意思の力で抑えこんだ。
まだ早い。万全ではない……発情の焔と媚香に、躰を支配されている。
「ラギス……」
シェスラは艶めいた目でラギスを見つめた。端正な顔を、ラギスの太い首にうずめる。誘うように肌を食 まれて、ラギスはきつく目を瞑った。
(発情が明けたら、殺す)
それまでは耐えてみせる。復讐の焔を胸に、シェスラに身を委ねた。
躰を寝台に押し倒され、汗ばんだ肌に白い指が触れる。
声をあげまいとするラギスの強情を愉しむように、シェスラは時間をかけてラギスを抱いた。
翌 る朝。
星歴五〇三年。二月四日。
シェスラは、のちの史実に残る不沈城 事変――反シェスラ派による、聖杯暗殺と国家転覆の反逆罪を問う軍事裁判に臨んだ。
国内外で圧倒的支持を誇るシェスラにも、敵対勢力はある。彼等は王の失脚を狙って、ドミナス・アロでも暴動を起こしていた。
それくらいで傾くような支持率ではないシェスラにとって、反対勢力の存在は、これまで微々たる問題に過ぎなかった。
だが、ラギスの暗殺を目論むとなれば話は別だ。
王は、一夜にして反対勢力に名を連ねる有権者を捕らえ、厳しい軍事裁判にかけた。
「私を退けたあと、どのようにしてセルト国を導いていくのか、納得できるだけの根拠があるのなら聞こう」
シェスラの問いに、捕らえられた官僚のうち、気概のある幾人かは自説を口にした。
一言でいうと、北の最大都市アレッツィアの同盟を退け、帝国に挑むのは愚策である――という主張だが、結局のところ、彼等はシェスラを妬んでいるだけだった。あまりにも優秀な王を擁したばかりに、活躍の場を奪われていると感じていたのだ。< 彼等の主張を、シェスラはことごとく論破した。
恐ろしく明晰な頭脳を持つ王に、誰一人として太刀打ちできなかった。
「――残念だが、その程度では生かすに値しないな。憂うことはない。そなたら以上の働きを以 て、私がこの国を導くと約束しよう」
凄艶な笑みを浮かべるシェスラを見て、捕らえられた官僚達は慄えあがった。
セルト国において、王は、臣下に対する生殺与奪の権利を有している。
シェスラは、一人残らず処刑を宣告した。
斧を手に現れた獄吏は、彼等の尾を断ち切ってから、一人ずつ引きずっていって首を跳ねた。
正視に耐えかねる光景であったが、シェスラは全て見届けてから、裁判の席を立った。
彼は計算していたわけではなかったが、毅然とした采配は、上院、下院の双方から高く評価された。
名門であっても臆せず処罰を課し、番 を守ろうとする姿勢が、身分に関係なく大衆に支持されたのである。
ラギスは褥の準備の為に、湯浴みに向かっていた。
入浴する時も、首輪を外されることはない。
召使に傅かれていても、獣化を赦されないのなら奴隷と同じだ。呼び名が、奴隷剣闘士から聖杯に変わっただけ。戦士としての誇りを傷つけられている今の方が、精神的には酷い。
それでも、ラギスは耐えていた。
機は必ず訪れる。発情が落ち着くまでは、耐え忍ぶのだ。
入浴を終えて部屋に戻る道すがら、これからの情事を考えまいとし、代わりにロキのことを考えた。
軍役を望んでいたが、どうしたのだろう?
騎士団に配属されたと聞いたが、まだ城に留まっているのだろうか。
思い耽っていると、石柱の影から、夜闇よりもなお暗い衣装を纏った刺客が現れた。
鎖に戒められ、相手が殺気を滲ませていなかった故に、ラギスの反応は遅れた。短剣の閃きを躱し損ねて、腕から血が噴きだす。
「ぐッ」
「ラギス様!」
後ろで、年若い従卒が叫ぶ。華奢な少年ではひとたまりもないだろう――ラギスは背にジリアンを庇ったが、予想に反して彼は抜刀するやラギスの前に飛びだした。
「ひっこンでろッ!」
ラギスは怒鳴ったが、ジリアンは躊躇いもなく敵に斬りかかった。
意外なことに、彼は強かった。それもかなり。
敵は五人組で、三人をジリアンが斬り伏せ、一人ははラギスが体術でねじ伏せ、残った一人は、奪った剣でラギスが斬り捨てた。
辺りに静けさが戻ると、ジリアンはラギスの傷を見て慌てた。
「どうってことねェよ」
ラギスにとってはかすり傷程度のものだったが、ジリアンは悔しそうに唇を噛みしめた。手際よく清潔な麻布で患部を縛る。
すぐに衛兵が駆け寄ってきて、彼等は二人を油断なく守りながら、安全な寝室まで送り届けた。
部屋に戻ると、ジリアンは改めて丁寧な処置を施した。
これまで気にも留めていなかった従卒の少年に、ラギスは初めて興味を抱いていた。大人しく手当を受けながら、端正な顔に視線を注ぐ。
剣を持ったこともないような、天使めいた外貌をしているが、刺客を瞬殺した剣技は目を瞠るものがあった。
「剣は、騎士団で習ったのか?」
声をかけられたのがよほど意外だったのか、ジリアンは驚いたように顔をあげた。
「はい。七歳の頃に、騎士見習いを始めました」
「いい腕だな」
「ありがとうございます」
ジリアンは恥ずかしそうに視線を伏せると、口元に柔らかな笑みを浮かべた。これまでまともに口を利いたこともなかったが、どうやら好意的な感情を向けられているようで、ラギスは戸惑った。
「……騎士ってのは、もっと居丈高で無駄に偉そうで、恰好ばかりの貴族が金で買う称号だと思ってたぜ」
にべもない酷評に、ジリアンは口元を僅かに緩めたが、すぐに引き結んで笑みを消した。
「若輩ではありますが、月狼銀毛騎士団の騎士に相応しくあるよう、精進しております」
「お前みたいな奴もいるんだな」
「……ありがとうございます」
ジリアンは頬を染めてはにかんだ。
「騎士団で何を学んだ?」
「多岐に渡ります。剣技はもちろん、広範な教養と、礼節と正義、寛容さ。清貧の生活を知り、己を律すること。主君に忠誠を誓うこと、騎士道精神に至るまで、学ぶことは多くございます」
「はっ、聖人かよ」
呆れたようにラギスがいうと、ジリアンはかぶりを振った。
「騎士は皆、大王様の
「お前も信奉者か」
声に批判を感じとり、ジリアンは怯んだ。その様子を見て、ラギスは頭をかきながら、こうつけ加えた。
「……別に、責めてるわけじゃない。どう思うかは、個人の自由だ」
「は、はい……」
「お前もついてないな、王ではなく、俺の従卒にさせられて」
同情の目で見ると、いいえ、とジリアンは強い口調で否定した。
「王の大切な方にお仕えすることができて、誇りに思っております」
曇りのない眼差しを向けられて、今度はラギスが怯んだ。そうかよ、とぶっきらぼうにいって視線を外す。
なんともいえぬ沈黙が流れる。
王の
「そなたは頻繁に血を流しているな」
「うるせぇ」
「だが、今回に関しては私の責だ。王の居住区に刺客を放った阿呆に、相応の礼をしなくてはな」
凄惨な笑みを浮かべると、シェスラはつと腕を伸ばし、ラギスの首の枷を外した。
「……いいのかよ」
「枷があった方が良かったか?」
「んなわけないだろ」
ラギスは顔をしかめていった。
「二度と私の居住区を荒させはしないが、そなたにも多少の自由はあった方が良いだろう」
「……」
今なら月狼になれる。喉笛に噛みつける――ラギスは身の
まだ早い。万全ではない……発情の焔と媚香に、躰を支配されている。
「ラギス……」
シェスラは艶めいた目でラギスを見つめた。端正な顔を、ラギスの太い首にうずめる。誘うように肌を
(発情が明けたら、殺す)
それまでは耐えてみせる。復讐の焔を胸に、シェスラに身を委ねた。
躰を寝台に押し倒され、汗ばんだ肌に白い指が触れる。
声をあげまいとするラギスの強情を愉しむように、シェスラは時間をかけてラギスを抱いた。
星歴五〇三年。二月四日。
シェスラは、のちの史実に残る
国内外で圧倒的支持を誇るシェスラにも、敵対勢力はある。彼等は王の失脚を狙って、ドミナス・アロでも暴動を起こしていた。
それくらいで傾くような支持率ではないシェスラにとって、反対勢力の存在は、これまで微々たる問題に過ぎなかった。
だが、ラギスの暗殺を目論むとなれば話は別だ。
王は、一夜にして反対勢力に名を連ねる有権者を捕らえ、厳しい軍事裁判にかけた。
「私を退けたあと、どのようにしてセルト国を導いていくのか、納得できるだけの根拠があるのなら聞こう」
シェスラの問いに、捕らえられた官僚のうち、気概のある幾人かは自説を口にした。
一言でいうと、北の最大都市アレッツィアの同盟を退け、帝国に挑むのは愚策である――という主張だが、結局のところ、彼等はシェスラを妬んでいるだけだった。あまりにも優秀な王を擁したばかりに、活躍の場を奪われていると感じていたのだ。< 彼等の主張を、シェスラはことごとく論破した。
恐ろしく明晰な頭脳を持つ王に、誰一人として太刀打ちできなかった。
「――残念だが、その程度では生かすに値しないな。憂うことはない。そなたら以上の働きを
凄艶な笑みを浮かべるシェスラを見て、捕らえられた官僚達は慄えあがった。
セルト国において、王は、臣下に対する生殺与奪の権利を有している。
シェスラは、一人残らず処刑を宣告した。
斧を手に現れた獄吏は、彼等の尾を断ち切ってから、一人ずつ引きずっていって首を跳ねた。
正視に耐えかねる光景であったが、シェスラは全て見届けてから、裁判の席を立った。
彼は計算していたわけではなかったが、毅然とした采配は、上院、下院の双方から高く評価された。
名門であっても臆せず処罰を課し、