月狼聖杯記
2章:饗宴の涯て - 5 -
発情から八日目の朝。
薄闇のなかでラギスは目を醒ました。いつものように、背中越しに体温を感じる。しなやかな腕が、ラギスに腰に回されていた。
うんざりしたが、妙に頭が冴えていることに気がついた。
発情が治まろうとしている。
意識した途端に、あれほど躰を炙っていた熱が、嘘のように引けていくのを感じた。
忘我の境地から帰還し、曖昧模糊 とした意識が晴れていく。思考が鮮明になるにつれて、躰は緊張に強張っていった。
「起きたのか?」
幽 かだが、明瞭なシェスラの声に、ラギスは弾かれたように躰を起こした。
瞬時に殺意が膨れあがる。
腕を伸ばし、シェスラの首が寝台にめりこむほど強く締めつけた。ラギスの逞しい腕は太い血管が脈打ち、指先から鉤爪が飛びだしていた。
「ぐっ」
苦しげに呻き、シェスラは首を絞めつける指を引きはがそうとした。
殺す――強い意思をもってラギスは腕と指に力をこめた。
水晶の瞳に、魔性の光が灯る。
冷気がたちこめ、シェスラの躰から仄青い燐光が溢れでた。
白い息を吐きながら、ラギスは渾身の力で押さえつけたが、霊力を開放したシェスラに弾かれた。
「ラギスッ!」
怒りを瞳に灯したシェスラは、一瞬でラギスを寝台に組み敷いた。負けじとラギスも応戦する。
寝台は悲鳴をあげて、大きな音を響かせた。四柱が揺れて、卓上の水差しが床に落ちて砕け散る。
「我が大王 ! ご無事ですか!?」
部屋の外から、近衛が叫んだ。
「くるなッ!!」
シェスラはラギスを見据えたまま、声を張りあげた。
「殺してやるッ」
血走った目で、ラギスは死にもの狂いで暴れた。偶然、シェスラの麗しい顔に一発入り、形の良い唇から血が一筋流れた。冴え冴えとした麗貌が怒りを孕む。
「……全く、発情が治まった途端にこれか」
手の甲で血を拭うと、シェスラは外見に反する剛腕で、ラギスの首を押さえつけた。
「ぐるぁッ」
ラギスは獣のような咆哮をあげた。獣化を試みるが、首を絞められ、思うようにいかない。憤怒に歪んだ表情を見下ろして、シェスラは酷薄な笑みを口元に刻んだ。
「無駄だ。そなたは私の聖杯なのだ。逆らおうとしても、月狼としての本能が堰き止める」
「ッ!?」
ラギスは目を瞠った。シェスラのいう通りだった。これほど殺してやりたいと思っているのに、王の覇気に怯んで、躰がいうことをきかない。
(くそっ、動けッ、コイツを殺るんだッ!!)
焔のような怒りが、服従の声を凌駕した。己の身の内に眠る獣性を開放し、一瞬で四足の月狼に転じる。
「グガァッ」
一遍の躊躇なく飛びかかると、シェスラも白銀の月狼になって応戦してきた。
体格は明らかにラギスの方が一回り以上大きいが、月狼の王 の牙と鉤爪は強力だった。
巨躯の獣が烈しく暴れ回るせいで、部屋が壊れてゆく。
護衛が慌てて飛びこんでくるが、月狼の凄まじい闘いに、手をだしあぐねている。
「“私に歯向かうなッ!”」
月狼の操る声なき念で、シェスラが怒りを叫ぶ。負けじとラギスも念を練った。
「"るせェ、死ねッ!!”」
霊力解放した月狼同士の争いは、純粋な殺しあいだ。
焔のような闘志に支配されて、二頭の月狼は壮絶に争った。ラギスの黒毛は千切れ、鼻頭に走る爪痕からは血が滲んでいる。だがシェスラの白銀の毛並みも、無傷とはいかなかった。
「ぐるるる……ッ」
激戦の末に、咽を血が滲むほど噛みつかれて、ついにラギスは床に伏した。
獣化がほどけた途端に、近衛に手と足首に枷をつけられた。
「ぐ、ごほッ、離せッ!」
床に押さえつけられ、怒りの咆哮をあげるラギスを、シェスラは冷たい水晶の瞳で睥睨した。
「よく頭が冷えるまで、この阿呆を部屋に閉じこめておけ」
薄絹を羽織ったシェスラは、部屋の片づけを兵士に指示すると、億劫そうに髪を払いながら部屋をでていった。
ラギスは別の部屋に閉じこめられた。
扉の外から鍵をかけられ、格子窓の外は絶壁で、仮に窓を破れたとしても降りることはできそうにない。
むしゃくしゃして、腹が立って仕方なかった。殺意で人を殺せるのなら、シェスラはとっくに死んでいるだろう。
(……ふざけんなよ、こんなところでていってやる)
霊力を部分的に開放して、躰を作り変えていく。鎖を引きちぎり、左肩から腕にかけて月狼の剛腕に変えると、扉を睨みつけた。
「グルル……」
扉に向かって体当たりをした。強烈な衝撃に、壁や天井は烈しく振動で震えた。
廊下を駆けてくる複数の足音が聞こえる。ラギスはあえて躰を離すと、扉の死角に立ち、開くのを待った。
「何事だッ!?」
雪崩こむ兵士の頭上を飛び越え、ラギスは最初に目があった兵士の武器を奪い、廊下を走りながら、追いかけてくる兵士に斬りかかった。
「ぎゃぁッ」
血を噴き上げ、兵士が頽 れる。追撃を蹴散らしながら、出口を探す。
あと少しで、外に通じる渡り廊下にでる。
しかし、踊り場に着地したラギスを、槍を構えた大勢の兵士が取り囲んだ。奥にはシェスラの姿もある。
「ラギスッ!」
シェスラは、絶対的な支配を一喝した。忽 ち躰の自由を奪われ、ラギスは金縛りにあったように動けなくなった。
王の悋気に、本能が怯えたのだ。
否応なしに完全な人形 に戻り、ラギスはがくりと膝をついた。
「……くそッ!」
暴れたせいで、霊力を一気に消耗してしまった。悠然と近づいてくるシェスラに応戦しようとするが、足がふらついて、壁に烈しく肩をぶつけてしまう。
しなやかな腕に抱きとめられ、うなじを噛まれた瞬間、足から力が抜け落ちた。
「ぐっ……」
どうにか両脚に力をこめようとするが、立ちあがれない。兵士に包囲されて、四肢と首にも鎖をつけられた。
「離しやがれッ!」
鬼の形相で叫んだが、兵士達も必死の形相でラギスを抑えこむ。引きずられていくラギスの背を、シェスラは冷たい眼差しで見送った。
薄闇のなかでラギスは目を醒ました。いつものように、背中越しに体温を感じる。しなやかな腕が、ラギスに腰に回されていた。
うんざりしたが、妙に頭が冴えていることに気がついた。
発情が治まろうとしている。
意識した途端に、あれほど躰を炙っていた熱が、嘘のように引けていくのを感じた。
忘我の境地から帰還し、
「起きたのか?」
瞬時に殺意が膨れあがる。
腕を伸ばし、シェスラの首が寝台にめりこむほど強く締めつけた。ラギスの逞しい腕は太い血管が脈打ち、指先から鉤爪が飛びだしていた。
「ぐっ」
苦しげに呻き、シェスラは首を絞めつける指を引きはがそうとした。
殺す――強い意思をもってラギスは腕と指に力をこめた。
水晶の瞳に、魔性の光が灯る。
冷気がたちこめ、シェスラの躰から仄青い燐光が溢れでた。
白い息を吐きながら、ラギスは渾身の力で押さえつけたが、霊力を開放したシェスラに弾かれた。
「ラギスッ!」
怒りを瞳に灯したシェスラは、一瞬でラギスを寝台に組み敷いた。負けじとラギスも応戦する。
寝台は悲鳴をあげて、大きな音を響かせた。四柱が揺れて、卓上の水差しが床に落ちて砕け散る。
「我が
部屋の外から、近衛が叫んだ。
「くるなッ!!」
シェスラはラギスを見据えたまま、声を張りあげた。
「殺してやるッ」
血走った目で、ラギスは死にもの狂いで暴れた。偶然、シェスラの麗しい顔に一発入り、形の良い唇から血が一筋流れた。冴え冴えとした麗貌が怒りを孕む。
「……全く、発情が治まった途端にこれか」
手の甲で血を拭うと、シェスラは外見に反する剛腕で、ラギスの首を押さえつけた。
「ぐるぁッ」
ラギスは獣のような咆哮をあげた。獣化を試みるが、首を絞められ、思うようにいかない。憤怒に歪んだ表情を見下ろして、シェスラは酷薄な笑みを口元に刻んだ。
「無駄だ。そなたは私の聖杯なのだ。逆らおうとしても、月狼としての本能が堰き止める」
「ッ!?」
ラギスは目を瞠った。シェスラのいう通りだった。これほど殺してやりたいと思っているのに、王の覇気に怯んで、躰がいうことをきかない。
(くそっ、動けッ、コイツを殺るんだッ!!)
焔のような怒りが、服従の声を凌駕した。己の身の内に眠る獣性を開放し、一瞬で四足の月狼に転じる。
「グガァッ」
一遍の躊躇なく飛びかかると、シェスラも白銀の月狼になって応戦してきた。
体格は明らかにラギスの方が一回り以上大きいが、
巨躯の獣が烈しく暴れ回るせいで、部屋が壊れてゆく。
護衛が慌てて飛びこんでくるが、月狼の凄まじい闘いに、手をだしあぐねている。
「“私に歯向かうなッ!”」
月狼の操る声なき念で、シェスラが怒りを叫ぶ。負けじとラギスも念を練った。
「"るせェ、死ねッ!!”」
霊力解放した月狼同士の争いは、純粋な殺しあいだ。
焔のような闘志に支配されて、二頭の月狼は壮絶に争った。ラギスの黒毛は千切れ、鼻頭に走る爪痕からは血が滲んでいる。だがシェスラの白銀の毛並みも、無傷とはいかなかった。
「ぐるるる……ッ」
激戦の末に、咽を血が滲むほど噛みつかれて、ついにラギスは床に伏した。
獣化がほどけた途端に、近衛に手と足首に枷をつけられた。
「ぐ、ごほッ、離せッ!」
床に押さえつけられ、怒りの咆哮をあげるラギスを、シェスラは冷たい水晶の瞳で睥睨した。
「よく頭が冷えるまで、この阿呆を部屋に閉じこめておけ」
薄絹を羽織ったシェスラは、部屋の片づけを兵士に指示すると、億劫そうに髪を払いながら部屋をでていった。
ラギスは別の部屋に閉じこめられた。
扉の外から鍵をかけられ、格子窓の外は絶壁で、仮に窓を破れたとしても降りることはできそうにない。
むしゃくしゃして、腹が立って仕方なかった。殺意で人を殺せるのなら、シェスラはとっくに死んでいるだろう。
(……ふざけんなよ、こんなところでていってやる)
霊力を部分的に開放して、躰を作り変えていく。鎖を引きちぎり、左肩から腕にかけて月狼の剛腕に変えると、扉を睨みつけた。
「グルル……」
扉に向かって体当たりをした。強烈な衝撃に、壁や天井は烈しく振動で震えた。
廊下を駆けてくる複数の足音が聞こえる。ラギスはあえて躰を離すと、扉の死角に立ち、開くのを待った。
「何事だッ!?」
雪崩こむ兵士の頭上を飛び越え、ラギスは最初に目があった兵士の武器を奪い、廊下を走りながら、追いかけてくる兵士に斬りかかった。
「ぎゃぁッ」
血を噴き上げ、兵士が
あと少しで、外に通じる渡り廊下にでる。
しかし、踊り場に着地したラギスを、槍を構えた大勢の兵士が取り囲んだ。奥にはシェスラの姿もある。
「ラギスッ!」
シェスラは、絶対的な支配を一喝した。
王の悋気に、本能が怯えたのだ。
否応なしに完全な
「……くそッ!」
暴れたせいで、霊力を一気に消耗してしまった。悠然と近づいてくるシェスラに応戦しようとするが、足がふらついて、壁に烈しく肩をぶつけてしまう。
しなやかな腕に抱きとめられ、うなじを噛まれた瞬間、足から力が抜け落ちた。
「ぐっ……」
どうにか両脚に力をこめようとするが、立ちあがれない。兵士に包囲されて、四肢と首にも鎖をつけられた。
「離しやがれッ!」
鬼の形相で叫んだが、兵士達も必死の形相でラギスを抑えこむ。引きずられていくラギスの背を、シェスラは冷たい眼差しで見送った。