月狼聖杯記

2章:饗宴の涯て - 1 -

 発情してから、三日が過ぎた。
 饗宴はまだ続いている。
 シェスラは、城の最奥にある壮麗な部屋をラギスに与え、贅沢な美味珍味でもてなした。
 仕立屋を呼んで、ラギスの逞しい身体にぴったりとあう、上等な衣装を十着も用意させた。
 驚くべきことに、貴族階級の従卒まで与えた。ジリアンという名の美しい少年騎士で、肩で揃えた真っすぐな白金髪に、印象的な翠瞳すいとうの持ち主である。上品な物腰をしているが、貴族特融の高慢な雰囲気があり、ラギスは苦手だった。
 ここは別世界だ。
 遠い故郷の、素朴な木造家屋とはまるで違う。ましてや、血と汗の匂いが立ちこめる、薄暗く湿った奴隷宿舎とはかけ離れている。
 高い天井、豪奢な家具、絹の絨毯、錦織を張られた寝椅子がそちこちにあり、分厚いクッションが幾つも重ねられている。
 惜しみない贅沢を与えられているが、首輪をつけられ、部屋に軟禁されている現状を考えると、以前よりも状況は悪化している。奴隷宿舎では、少なくとも共用部屋を自由に歩くことはできた。
 しかも部屋には常に媚香が焚かれており、ラギスの思考を曖昧模糊あいまいもこにぼかす。
 ここは美しい、破滅の牢獄だ。
 不沈城グラン・ディオは、堂々たる威容を誇る巨大な石造りの城塞である。
 銃眼じゅうがんつきの四つの矩形くけいからなる外壁は厳めしく、中は繊細緻密な設計になっている。ラギスのいる内壁の最深部――王の居住区は乳白色の大理石で造られている。
 外へでるには、堅牢な門を幾つも突破せねばならない。
 おまけに月狼銀毛騎士団の本居地でもある。
 日夜、胸壁きょうへきの合間には、騎士団の歩哨ほしょうが睨みを利かせている。
 彼等の目を盗んで外壁まで辿りつけたとしても、城塞の外周には人口池が張り巡らされている。鉄の落とし格子戸をくぐって跳ね橋を渡らねば、外にはでられない。
 自力で脱出するのは不可能に等しい。
 いっそこのまま目が醒めなければいいのに――どんなに夜明けを呪っても、無慈悲に陽は差しこみ、首から垂れさがる鎖を照らした。
 黄昏が濃くなると、召使達の手で引きずられるようにして浴室に連れていかれる。躰の隅々まで洗浄されて、王を迎える準備を施されるのだ。
 部屋に戻り食事を済ませ、夜になるとシェスラがやってくる。
 そして、悦楽にふける。
 王は多忙を極めていても、夜毎ラギスの部屋を訪れ、烈しく抱いた。
 時間がある時は、朝にもう一度抱く。
 時間がなくても、ラギスの乳首や陰茎をしゃぶり、溢れる琥珀の霊液サクリアを飲みほした。淫らな行為に、ラギスは昼夜を問わず啼かされたが、シェスラものめりこんでいた。
 今宵も宴が始まろうとしている。
 格子窓から傾く西陽を眺めながら、ラギスは獏とした感情に苛まれていた。
(なんで、こんなことになっちまったんだろう……)
 聖杯に堕ちた現実を、まだ受け留めきれずにいる。何度考えても、心が拒否してしまう。
 絵画のように美しい茜空を、この世の終わりのように感じる。
 もうすぐこの部屋にシェスラがやってくる。そうしたらまた、正体不明になるまで抱かれるのだ……
 暗澹あんたんとしていると、銀盆を手に召使が部屋に入ってきた。
 真珠貝を象嵌ぞうがんされた紫檀したんの卓に、艶やかで、誇らしげに輝く銀食器が並んだ。
 最上級の葡萄酒、甘い無花果いちじくに乗せた鵞鳥がちょうの胆料理、しぎ肉の香草焼き。冷えた果物……次から次へと運ばれてくる。
「ラギス」
 珍しく、食事中にシェスラが部屋に入ってきた。顔をしかめるラギスを見て、嫣然と笑みかけながら、当然のように隣に座る。
 彼の放つ馥郁たる香気が漂い、ラギスは意識を奪われぬようきつく眉間に皺を寄せた。
「食べていないのか?」
 料理に手をつけていないラギスを見て、シェスラは訊ねた。
「……」
 豪勢な料理を前にしても、そのあとのことを考えると、食欲はなかった。
 だが、頬にシェスラの視線を感じて、仕方なく匙をすくう。
 大抵は美味しいと感じるが、お目にかかったことのない料理も多く、口に入れたものが好みでないと、ラギスは遠慮構わず床に吐きだした。
「……そなたには、教育係も必要だな」
 無作法を見てシェスラは眉をひそめたが、ラギスは無視した。卓に敷かれた、繊細な透かし刺繍の入った布で口を拭うと、シェスラはこめかみを抑えた。
「発情が落ち着いたら、早急に手配しよう」
「うるせぇ。不満があるなら、俺をとっとと解放しろ」
 租借しながら口を動かすラギスを見て、シェスラはうんざりしたように眉をひそめた。
「せめて口を閉じて食べたらどうだ」
 ラギスは胸の内で悪態をつきながら、ばくばくと噛りついた。気取った食事は好きになれそうにない。
 だが、繊細な風味の醸造酒は気に入っていた。至上の美酒だ。しかも好きなだけ飲める。
「気に入ったか?」
 喉を潤していると、シェスラが訊ねてきた。
 上品に肉を切り分け、口に運ぶシェスラを見て、なんとなく疑問を口にした。
「……どんな食べ方をしたって、胃に納まれば一緒だ。よくそんな、くそ面倒な食べ方をする気になれるな」
「より美味しく、味わって食べることができる。そなたも学ぶべきだ」
 シェスラは真面目な顔でいった。ラギスは鼻を鳴らすと、視線を背けた。
「……奴隷を囲っていないで、もっと他にすることがあるんじゃないのか?」
 侮蔑の眼差しを向けると、シェスラは憎らしいほど余裕の笑みを浮かべた。
「聖杯を愛でる時間くらいあるさ」
「その色欲に濡れたつらを、一遍民衆に晒してみたらどうだ? え?」
 痛烈な嫌味をいったつもりだが、シェスラは平然と肯定した。
「演説なら毎日している。そなたが不沈城グラン・ディオにいるだけで、山のように献金が集まるのでな」
 ラギスは鼻を鳴らした。
 王は臣民を駕御がぎょせんが為に、帰還してからというもの華々しく広報に勤しんでいる。
 不沈城は連日連夜、大盛況だ。
 公儀の間は、謁見を賜ろうとする請願者と臣民でごった返し、露台に立てば、国中の民が集まっているのではないかというほど、大勢の信奉者が麗しの王を一目見ようと集まってくる。
 王が神的威厳に満ちた凛とした声で、セルト国の繁栄と薔薇色に輝く未来を語ると、聴衆はうっとり陶酔に満ちた顔で耳をそばだてるのだ。
「くそ野郎が。とっととくたばれ」
「ふふ、資金繰りが楽でいい。感謝しているぞ」
 ラギスは悪態をついたが、シェスラを喜ばせるだけなので、すぐにやめた。
「……ロキはどうしてる?」
「ロキ?」
「闘技場で俺の隣にいた、剣闘士だ」
「ああ……騎士団に配属されたそうだ」
 では、念願が叶ったのだ。黙考するラギスを、シェスラは注意深く観察した。
「そなたも、騎士団に入りたいか?」
「は?」
「近衛をする気があるのなら、発情が落ち着いたあとで、配属してやるが」
「誰がてめぇの近衛なんか」
 顔をしかめるラギスを見て、シェスラは軽く肩をすくめた。
「まぁ、どちらでもよい。いずれにせよ、出兵する時はそなたも連れていく」
「は? なんで俺が、てめぇの戦争につきあわないといけないんだ」
「私が城を空けている間に、発情したらどうするつもりだ?」
 そういいながら、シェスラは召使を呼び寄せ、卓の上を片づけさせた。
「一人で隠れていればいいだけの話だ」
「馬鹿者。隠し通せると思っているのか?」
「誰にも会わなければいいだけの話だ。てめぇはさっさと、ドミナス・アロをでていけ」
「あいにくだが、夏の終わりまではここを拠点にする。じきに忙しくなる。それまでは……」
 シェスラは部屋から全員をさがらせると、蠱惑的な流し目でラギスを見つめた。
 一秒を永遠のように感じる。
 しなやかな腕が伸ばされ、襟を留めている縞瑪瑙しまめのうぼたんに指が触れたところで、ラギスは思いきり躰を引いて拒絶した。
「……ラギス」
 首輪についた鎖をひかれて、鋼の硬質な音が鳴る。前のめりに手をつくラギスに、シェスラは再び触れようとした。
「ぐぅぅッ!」
 獣化を試みても、首輪と四肢の戒めが食いこんで、月狼になれない。苦しむラギスを見てシェスラは笑った。
「やめておけ。首を痛めるだけだぞ」
「ぐッ、くそ、なんで俺なんかを抱くんだ! 他に幾らでも女がいるだろうが!?」
「美しいだけの女には飽きたのさ。それに……聖杯の魅力には、どんな美貌も及ばない」
 シェスラはラギスを抱き寄せ、首すじに唇を押し当てた。
「ッ」
 唇の触れたところが、燃えるように熱い。
 減らず口を叩いていても、少し顔を寄せられるだけで反発心を手折られてしまう。本能が王への服従を、呪わしいほどに囁いてくるのだ。