月狼聖杯記

1章:王と剣闘士 - 4 -


 決闘の準備は整った。
 闘技場に散った死体は屋内へ運ばれ、血で濡れた石床には、闘士達が足を滑らせぬよう、一面に白砂が撒かれた。
 シェスラは長い白銀の髪を後ろで一つに結いあげ、豪奢な外套も金冠も外している。盾は持たず、二本の剣をそれぞれの手に構えている。
 対するラギスも盾は使わない。甲殻獣をも断つ長大な剣を両手に構えている。
 王と剣闘士の決闘が始まろうとしている。
 闘技場の空気は極限まで張り詰め、観客席は水を打ったように静まり返った。誰もが手に汗を握り、剣を構える二人に視線を注いでいる。
 試合の進行役が櫓に上り、銅鑼の前に立った。
「――始めッ!!」
 戦闘開始を告げる銅鑼の音が、蒼穹に響き渡った。
 刹那! ラギスは一瞬の躊躇もなく、王の首を狙って剣を振りかざした。
 キィン――白刃はくじんに受け流される。
 火花散る剣戟けんげきの応酬に、会場は一瞬にして悲鳴に怒号、大歓声に包まれた。
 だが、熱狂的な大音響はラギスの意識外にある。
 研ぎ澄まされた空気のなか、シェスラの姿しか瞳に入らない。
 流線の閃きに、鳥肌を覚えずにはいられなかった。
 本物だ。
 王の強さは、虚仮威こけおどしではない。
 戦場の百戦錬磨、史上最強といわれる月狼の王アルファングだ。一瞬でも気を抜けばられる。
「いい腕をしている!」
 巧みに双剣を操りながら、シェスラは笑みすら浮かべていった。
 峻烈な閃光が走る。
 紙一重で躱したラギスの黒髪が、幾条か宙を舞った。
「らぁッ!」
 裂帛れっぱくの気迫で、ラギスは剣をいだ。
 鳩尾を狙って渾身の一撃を放つ。
 並みの男なら吹き飛ぶところ、シェスラは交差させた双剣でしなやかに流した。
 王は双剣の遣い手として有名だ。
 たとえ重装歩兵と戦う時にも、盾を必要としない。神速剛剣を習得しているからこそ、許される戦法である。
 鉄をも断つ剛剣を、しなやかに受け流す。
 型通りの剣技応酬ではなく、蹴りや頭突きも混ぜているのに、ことごとく躱される。
 繊細な麗貌に反して、王は荒事に精通していた。
(強い)
 旋回する双剣を躱す度に、速さを増していく。
 鋭い刃音が鳴る。
 瞬閃を紙一重で避ける度に、武具の一部や髪の幾条かが宙を舞った。
 巨躯のラギスと比ぶべくもなく華奢な体躯をしているのに、しなやかな身のこなしはどうしたことか。
 この男の剣術は、格調高い舞のようだ。
 完全に鋼に同化し、鋭い陽光を反射して煌く鋼の延長と化している。
(強い!!)
 何百、何千回と闘技場に立ち、同じ数だけ相手を殺してきたラギスであっても、凄まじい剣の腕を認めざるをえない。
「ッ!」
 空気が変わった。
 これまでラギスの猛攻を受け流していたシェスラは、攻めに転じた。
 霊気を乗せた剣を受けとめ、ラギスの腕に痺れが走る。
 これが王のふるう剣。
 鋼から、幾条もの閃き――鮮烈な蒼、淡い紫、氷のような銀色、彩なす霊気の結晶がほとばしり、空気を薙いだ。
「ぐァッ!」
 脚を踏ん張って衝撃破に耐えたが、剣の方が耐え切れず、ひび割れて真っ二つに折れた。
「この男に、もっとまともな剣を渡してやれ」
 折れた剣をなおも構えるラギスを見て、シェスラは余裕綽久よゆうしゃくしゃくにいった。近衛の差しだす剣を、ラギスは無言で受け取る。
「――らァッ!」
 ラギスが斬りこみ、再び激しい剣戟けんげきが始まった。
 刃を弾くたびに、衝撃破は空気を引き裂いて、闘技場全体を震わせた。
 誰も見たことのない、名勝負だ。
 生死を越えた闘いに、闘技場の視線は釘づけになっている。
 永劫に続くかと思われた闘いは、一瞬の隙を突いて繰りだされたシェスラの一閃により決した。大きく剣を弾かれ、無防備に開いたラギスの腹に、強烈な蹴りが決まる!
「ぐッ!」
 咄嗟に受け身をとるが、したたかに石床に背中を打ちつけて、すぐには起き上がれない。
大王ロワ・アルファシェスラ!」
偉大なる月狼の王ドミナス・アルファング!」
偉大なる必勝の戦神ドミナス・レビュテ・ソーマ!」
 観衆達は、若き王を大歓声で讃えている。
 王の覇気を解放して、悠々とシェスラが近づいてくる。
 剣は遠い。まだ動けない――負けを悟り、ラギスは潔く膝をついた。
 剣闘士は命乞いなどしない。
 背中を見せることもしない。
 死ぬ時は正面を向いて。
 肉体が滅んだとしても、霊魂不滅の呪いをかけてやる――ラギスは昂然こうぜんと頭をかかげた。
 逆光で、王の表情はよく判らない。
 シェスラが剣を振りあげると、観衆は大歓声をあげた。刀身が陽の光を弾いて、ラギスの顔を射る。
 振りかぶる刃を覚悟したが、王は流れるように剣を鞘にしまった。
「……どういうつもりだ」
 血と砂埃で汚れた顔をあげて、膝をついたまま、ラギスはシェスラを睨みつけた。
「殺すには惜しい。私の近衛に召しあげてやろう」
「なんだと?」
「――王に挑んだ勇ましい剣闘士を讃えよ! この者に祝福を与える!」
 シェスラは観衆に向かって、凛と響く声でいい放った。
 ワァッ――観衆は大歓声で応えた。王は剣闘士を生かすと決めたのだ。
「アレクセイ」
 シェスラは青銀髪の近衛を傍に呼ぶと、唖然としているラギスを見つめながら唇を開いた。
「アミラダに知らせて、この男に治療を受けさせてやれ。そのあとで私のもとに連れてくるように」
「何のつもりだッ!?」
 起きあがろうとするラギスを、数人がかりで兵士は上から押さえつけた。
「そなたも、判っているはずだ」
 水晶の瞳に、青い炎が灯る。王の躰から、背筋がふるえるような強烈な香気が漂った。
 返事に詰まるラギスの顔を数秒ほど眺めて、シェスラは背を向けて歩き始めた。
「おいッ……待て!」
 歩みを止めたシェスラは、端整な顔を横向け、艶めいた流し目でラギスを見た。
 目が遭った途端に、ラギスは息ができなくなった。
 王は謎めいた微笑を唇に浮かべ、長い白銀の髪を後ろにはらい、優雅な足取りで今度こそ背を向けた。