月狼聖杯記

1章:王と剣闘士 - 3 -


 星暦五○三年。一月二十九日。
 ドミナス・アロの闘技場は満席だった。
 王は、露台に設けられた席で頬杖をついている。彼はようやく少年の域をでたような二十歳の青年だが、堂々たる風格を備えていた。
 豪奢な戦装束に白貂しろてんの毛皮を羽織り、白銀の頭髪に金冠を戴く姿は、まさしく月狼の王アルファングだ。
大王ロワ・アルファ様を讃えよ!」
 神官が声を張りあげると、蒼穹に月の角笛ホルンと黄金の喇叭らっぱが高らかに鳴り響いた。
 闘技場は、感謝の賛歌に満たされる。
 シェスラはすっくと立ちあがると、昂然こうぜんと頭をかかげて、錫杖しゃくじょうで天をさした。
 刹那、円形の闘技場に雷鳴のような拍手喝采が鳴り響いた。
 開戦の合図である。
 大歓声に包まれて、剣闘士達の試合は始まった。
 ラギスとロキの前に二試合あり、彼等の勇ましい試合は、観衆の期待と興奮を最高潮に高めた。
「ロキ、ラギス、お前達の番だ」
 部屋の錠を外して、支配人が扉を開いた。二人は無言で立ちあがると、廊下にでて入り口へと向かう。
 何遍も歩いてきた闘技場へと続く道に、続々と剣闘士達が姿を見せた。
「……どうなってる?」
 ラギスは今日始めて、ロキに声をかけた。彼も怪訝そうに眉をひそめている。
 これから、ラギスとロキの対決をするのではないのか?
 二十人以上の奴隷剣闘士が入り口に並ばされ、互いの足首を鎖で連結された。顔を見合わせ、答えを探すように闘技場に目を凝らしている。
 ラギスも、堅牢な檻の鉄柱の合間から闘技場を見た。
 ふと、この場に似つかわしくない、魅惑的な柑橘の香りが鼻孔を擽った。
 香源を探していると、遥かな高みで見物をしている王の姿に、目を惹き寄せられた。
 一陣の風が吹く。
 長い脚を組み、大して関心なさそうに眺めていたシェスラは、頬杖をほどいて、何かを探すように耳をそばだてた。
「開けろ!」
 支配人が叫ぶと、重たい鋼の音を響かせて、檻は直上に持ちあがった。
 闘いが始まる。集中しなければ――ラギスは王の存在を意識の外に追いやった。
 しかし、いつもとは勝手が違う。
 剣闘士達は足首を鎖で連結されたまま、闘技場の中央に横一列に並ばされた。
 訝しんでいると、奥の檻の扉が持ちあがり、畏るべき三つ頭の疫獣えきじゅう、タイダロスが姿を現した。
「タイダロス!?」
 歓声は悲鳴に変わる。
 屈強な剣闘士達でさえ、タイダロスを前にふるえあがった。
 極めて凶暴で殺傷能力の高い疫獣だ。倒すには、専用の武器と屈強な戦士が十人はいる。
「セルト国と大王様に、レイール女神のご加護を! 屈強なる戦士と疫獣の闘いを供儀くぎに捧げる!」
 神官が声を張りあげると、タイダロスの三つの首に結ばれた鎖が解き放たれた。腹を空かせた疫獣は、牙を剥きだしにして咆哮する。
「ふざけるな! こんなの、ただの殺戮の見世物だ!」
 剣闘士の一人が叫んだ。全く同意で、ラギスはロキを見た。これでも信仰心を保っていられるか? 視線で問うと、ロキは顔をしかめた。
 だが、彼は冷静だった。状況を即時に理解し、周囲の剣闘士を一喝する。
「杭を抜け!」
 奴隷達の足枷は、全て一つの杭に繋がっている。ロキの声に全員がはっとなり、一斉に射程圏外に向かって駆けだした。
「ぎゃあァッ!!」
 杭は地面から抜けたが、その間に幾人か疫獣に食われた。
 千切れた鎖の端と端をラギスとロキは掴み、タイダロスの爪をかいくぐって、右の後ろ脚に搦めた。その隙に、別の男が杭を穿たんとする。
「ぐあるるるるッ」
 三つの頭は、後ろと前からの攻撃に気を取られ、別々の動きをして混乱に陥った。
「杭だッ」
 ロキが叫ぶと、剣闘士達は、先端の尖った杭をひっつかみ、疫獣の喉笛に突き刺さんとした。
 獣は死にもの狂いで暴れ、剣闘士達を次々と爪の餌食にしていく。
 鮮血は、観客席前の防壁にまで飛び散った。
 攻防の果てに、転がった杭をロキが拾い、心臓の上に突きたてた。
「ぐあぁるるッ!!」
 疫獣は恐ろしい断末魔の叫びをあげる。
 苦痛にのたうちまわる獣の正面に回ると、ラギスは真ん中の頭の大きなあぎとに手をかけて、力任せに引っ張った。
 骨の砕ける凄惨な音に、観衆は慄えあがった。
 哀れな疫獣は、泡を吹いて息絶えた。死闘の果てに生き残ったのは、ラギスとロキの二人だけだ。
 高台から、弓兵が二人を照準していた。手を振り下ろそうとしている神官を見て、ラギスは笑った。
「結局、殺すのかよ」
 ただで殺られるつもりはない。横たわるタイダロスを背にして立ち、腰を低くして矢の雨に身構える。
「――やめよッ」
 凄まじい覇気が闘技場を打った。
 弓兵は構えをほどき、観客も処刑の興奮を忘れて露台を仰ぐ。
 剣闘士に命乞いは赦されない。
 殺し合いを中断できるのは、この場でただ一人。王だけだ。
「二人を連れてまいれ」
 王のお召しだ。両脇を兵士に挟まれて、ラギスとロキは幅の広い階段を上ってゆく。
 近づくにつれて、ラギスは異変に気がついた。
 さっきまで闘いの興奮で気づかなかったが、王から漂う甘い香気に頭がくらくらする。
(なんだ? この匂い……)
 近づくほどに、匂いは強くなる。
 心臓は煩いほど騒ぎ、身体中の細胞が目醒めていく。王から目を離せない。
 聞きしに勝る、慄えあがるような美貌だ。
 黄金比に整った顔は、白磁のように滑らかな肌をしている。頬の輪郭を艶やかな白銀毛に縁取られ、色づいた唇と、水晶の瞳を信じられないほど鮮やかに際立たせている。
「見事な働きだった」
 美貌に魅入っていたラギスは、我に返って、挑むような眼差しをシェスラに向けた。
「……ぐっ」
 王に忠実で最強の近衛、四騎士の一人に首の後ろを剣の柄で殴られた。
「やめよ」
 シェスラが諫めると、美しい近衛はラギスを睥睨したまま姿勢を正した。
「この勇敢な剣闘士達に褒美を与えよう。皆はどう思う?」
 シェスラが会場に問いかけると、大歓声が沸き起こった。
 剣闘士が闘技場の主に褒美をたまわるのは、最高の栄誉とされているのだ。
「名は何という?」
 ロキは恭しく拝跪はいきすると、王を仰いで口を開いた。
「ロキといいます」
「では、ロキ。望みを申せ」
「自由を」
 彼は迷わずにいった。シェスラは鷹揚に頷くと、錫杖で天をさした。ねがいを聴き容れた証だ。
 闘技場が大歓声に震えるなか、ロキの顔に希望が拡がっていくのを、ラギスは冷静に眺めていた。深紅の瞳がラギスを見る。ロキは案じるような表情になり、よせ、と唇を動かした。
「そなたの名は?」
 厳かに、丁寧な口調で名を訊かれて、ラギスは一瞬返答に詰まった。
「……ラギスといいます」
「ラギス、そなたも自由を望むか?」
 王の言葉に、いや、とラギスは答えた。
「王に、決闘を挑みたい」
 王の傍に控える四騎士は、殺気を滲ませた。特に白金髪の青年は、射殺しそうな瞳でラギスを睨んでいる。
「ほぅ?」
 シェスラは、新しい玩具を手にした子供のように、水晶の瞳を煌かせた。
「その傷で闘えるのか?」
「問題ない」
 肩と腕から血を流していたが、ラギスは王の瞳を見ていいきった。
「よかろう。そなたの雄姿に免じて、一騎相いっきあいの勝負、受けて立つ!」
 王の宣告に、会場はこれ以上ないというほど沸き立った。
 四騎士の一人、白金髪に淡紫うすむらさきの瞳をした麗しい近衛が、王の傍に進みでた。
「我が大王きみ、いかなる申されようか。この男が奴隷であることをお忘れか」
「何か問題が?」
「剣を交える価値など、どこにありましょう?」
「構わぬ。私の剣を持ってまいれ」
「正気の沙汰とは思えませぬ――」
 不服げに反駁はんばくする男の肩に、別の騎士、長い青銀髪の青年が窘めるように手を置いた。
「ヴィシャス、控えなさい」
 落ち着いた口調でいう。するとヴィシャスと呼ばれた白金髪の青年も、己の激昂に気がついたように視線を伏せた。
「文句をいうな。ちょうど良い、退屈していたところだ」
 シェスラは笑って掌を仰向けた。
 四騎士の一人、赤髪の美丈夫が、見事な二つの剣をシェスラに差しだした。
「うむ」
 シェスラは白貂を脱ぐと、二本の剣を受け取り、優雅な足取りで自ら闘技場におりていく。
 美しい後ろ姿を見つめながら、ラギスは心の内で狂喜した。
 なんという千載一遇の好機!
 闘技場で、堂々と王を殺せる。
 十七年前――奈落に突き落としてくれた唾棄すべき王族を、この手でほふれるのだ!
 遥か頭上で、祝福の鐘が鳴り響いたような気がした。