月狼聖杯記

1章:王と剣闘士 - 2 -


 十七年後、現在。星暦五〇三年一月。
 ラギスは勇ましい奴隷剣闘士に成長した。
 勇猛果敢なヤクソンの戦士に相応しい、並々ならぬ頑丈な長身巨躯。外貌がいぼう扁平へいぺいながら迫力があり、額や鼻、顎はがっしりしている。肩から胸にかけて走る刀傷が、強靭な肉体をより威嚇的に見せていた。
 ラギスはヤクソンで捕まったあと、辺境の闘技場を点々としてきた。各地で名をあげて、五年前、ついに王の膝元であるドミナス・アロの闘技場に連れてこられた。
 荒々しい剣技、圧倒的な強さが民衆の心を掴み、たちまち人気者になった。
 王都にきて僅か一年の間に、闘技場で一、二の人気を争う剣闘士にまで上り詰めた。
 態度が生意気だとラギスを鞭打っていた支配人も、最近はラギスに手揉みして機嫌を取ろうとする。
 狭くて汚い大勢が詰めこまれている共同部屋から、二人部屋に移された。相部屋の剣闘士は、ラギスと人気を二分している、ロキという名の巨躯の男だ。
 彼は今夜はいない。
 婦人の夜のお相手として貸しだすべく、支配人が貴族の饗宴きょうえんに連れていったのだ。ラギスも普段なら連れていかれるのだが、昨日の試合で顔に傷を負っており、今夜は免れた。
 部屋で微睡んでいると、奴隷宿舎に似つかわしくない、白粉の甘い香りが鼻孔を擽った。
「――王都はお祭りみたいな騒ぎだぜ」
 部屋に入ってきたロキは、外套を椅子にひっかけながらいった。
「……へぇ」
 ラギスが相槌を打つと、ロキは襟を緩めながら振り向いた。
 襟足だけ長い黒髪に、黒い肌をしており、鮮やかな赤瞳を引き立たせている。年は三十前後で整った顔立ちをしているが、背はラギスよりも更に高く、かなり威圧感がある。夜の相手に指名する婦人達は、恐らく彼の強い獣性に惹かれるのだろう。
「今夜は王がきていた。初めて本物を見たけど、驚いたぜ。若いし、聞きしに勝る美貌だった」
「噂通りか」
 春の息吹と共に、一年ぶりに遠征から帰還した王の話は、隔絶された奴隷宿舎にいても聞こえてくる。
 セルト国に常勝をもたらす戦略戦術の天才、宗教祭事と軍事と政治の最高責任者である美貌の王は、国民の絶大な支持を集めているようだ。
「噂以上だ。瞳は水晶の輝き、白皙はくせきの頬に髪は銀色の月光を放つ――陳腐な詩人の口上と思っていたが、まさしくその通りの絢爛けんらんな容姿をしている」
 いつでも落ち着いているロキにしては、興奮気味に語る。ラギスが一つ相槌を打つたびに、王がどれほど眩く、注目を浴びていたか十の言葉で答えた。
「大王は、帝国に喧嘩を売ったんだろ? 貴族の饗宴に顔をだす余裕なんてあるのかよ」
 ラギスが鼻を鳴らすと、ロキは口角を少しだけあげた。
「愛想も時に必要だ。華々しく凱旋して、貴族に感じよく振る舞っておけば、有事の命令も浸透しやすい」
「資産を巻きあげないといけないしな……大王は、本当に帝国と戦争すると思うか?」
「間違いない。公表はされていないが、稼ぐ気でいる傭兵達は、もう集まってきているみたいだぜ」
「あんたも、志願したいのか?」
 そうだ、とロキは頷いた。目と目が遭い、ロキは不敵に笑った。
「明日は遠慮しないぜ」
 明日、ドミナス・アロの闘技場に大王が観戦にくる。
 一番の出し物は、剣闘士の中で人気を二分しているラギスとロキの試合だ。
 支配人の計らいで、これまで対決することのなかった二人の勝敗の行方に、王都中が注目していた。
「俺が勝つ」
 ラギスが断言すると、ロキはにやっと口角をあげた。
「どうかな?」
「この時をずっと待っていた。悪く思うなよ。俺はあんたを倒して王に挑む」
「……阿呆か、お前?」
「俺は本気だ。一騎相いっきあいの勝負を挑む」
「相手は誰もが認めるこの国の英雄で、月狼の王アルファングだぞ?」
「知ったことか。俺にとっては故郷の仇だ」
「……大馬鹿者がここにいる」
 憮然と口を閉ざすラギスを見て、ロキは肩をすくめた。
「故郷のことは残念に思うが、大王を恨むのは筋が違う。ヤクソンの焼き討ちは前王の時代だ。お前が子供の時、今の大王は三歳なんだぞ」
「前王の血を引いている。あの焼き討ちに関わりのある奴は、誰であろうと殺す。大王はその筆頭だ」
 低めた声には、陰惨な響きが滲んでいた。暗がりに浮かぶ金色の瞳に、昏い復讐の焔が揺れている。
「ラギス、復讐に生きるのはやめろ。お前は民衆の人気者だ。勝ち続ければ、解放奴隷になれる望みだってあるんだぞ?」
「復讐は俺の全てだ」
 寝台に寝転がり、背中で会話を拒むラギスを見て、ロキは思慮深いため息をついた。
「真剣勝負が叶ったとしても、相手は雲の上の存在、この国の王で、連戦連勝をもたらした英雄だぞ」
「俺だって闘技場の王者だ。実力なら負けねェよ」
「それ以前の問題だ。お前は、実力を発揮することすら許されないぞ。これから帝国相手に戦争しようとしている英雄が、民衆の前で負ける姿を見せるはずがないだろ」
「観衆は俺の味方だ。王が背を向けるようなら、腰抜け、降りてこいって大声で叫んでやる」
「そんな真似をしてみろ、即刻殺されるぞ」
 ラギスは身体を捻って上体を起こすと、ロキを睨みつけた。
「王を殺せるなら、なんだってする。邪魔をする奴は、全員殺す」
「やれやれ……血の気が多いな、お前は」
 ロキは呆れたようにいった。
「俺には、大人しく鎖で繋がれている奴らの気が知れねェよ」
「誰もがお前のように、強い心を持っているわけではない」
「あんたは違う」
「ありがとよ。だが、俺は復讐が目的じゃない。自由になる為に戦っている」
「百勝したら解放っていう、あれか? んなの、連中が守るかよ。あんたはここの稼ぎ頭だ。死ぬまで戦わせられるぞ」
 今度はラギスが呆れたようにいった。
「信じなければ、何も始まらない」
「俺は何も信じない。ナガラ教もレイール教も、くそくらえだ」
「罰当たりな奴め」
 ロキは嘆かわしそうにいうと、かぶりを振った。
「そっちこそ、奴隷剣闘士にさせられて、よく信仰心を持ち続けていられるな」
「信仰は、貧しい者の救いだ」
 静かにいうロキの顔を、ラギスはじっと見つめた。ロキは、奴隷から生まれた奴隷の子だ。獣化を制限され、塀の中の暮らしか知らない。自由は、彼の悲願だった。
「俺は無神論者だ。神の加護が本当にあるのなら、なんで俺の故郷は焼かれたんだ」
「生きている限り試練はある。復讐にはやる気持ちは判るが、視野を狭くしては、見えるものも見えなくなるぞ」
 真面目な顔でいわれて、ラギスは低くうめいた。
「説諭は勘弁してくれ……なぁ、本当に志願するつもりなのか?」
「ああ。解放奴隷になれば市民権を得られる。そしたら、戦争に従軍する」
 その言葉に、ラギスは愕然となった。
「剣闘士をやめて、今度は戦場にいくのかよ」
「この屈強な身体が唯一の資産だ。功労を立てれば、元奴隷でものしあがることができる」
「せっかく助かった命も、戦場で落とすかもしれないぞ」
「まぁな。だが、功績を挙げる近道だ」
「自分から志願するなんざ、血迷っているとしか思えねェな」
「そういうラギスはどうなんだ? 剣闘士をやめたらどうする? 復讐以外で答えてみろ」
 話を振られて、ラギスは考えこむように視線を上向けた。
「……一度、ヤクソンの様子を見にいこうとは思っている」
「そのあとは? そこで暮らしていくのか?」
「そうだな。弔いを終えたら、山に籠って狩猟でもして、街に卸すのもいいかもな」
「うん。ここをでたら、きっとそうするといい」
 ようやく展望のある未来を語らせることができて、ロキは満足そうに笑った。
「……どうかな」
 ラギスは小さく笑うと、再び背を向けた。
 これまでいろんな奴を見てきたが、ロキは心も体も屈強な、尊敬に値する剣闘士だ。
 王都へきてから、彼には何度も助けられた。
 口にはしないが、友だと思っている。
 今日まで互いに生き延びてこれたが、明日はどちらかが死ぬことになるだろう……
 本気で挑まなければ、ロキには勝てない。
 彼を失うと考えるだけで、心は凍りつきそうになるが、それでもラギスは勝たなければならない。
 故郷の為に。
 家族の為に。
 躊躇ってはならない。
 いつかは、こういう日がくると知っていたはずだ。
 奴隷剣闘士になった時から、数え切れないほど命を奪ってきた。後悔は、彼等の想いを踏みにじることになる。
 ラギスは首から下げた小袋を握りしめ、瞼を閉じた。
 遥かなる故郷――豊かなヤクソンの森を思い浮かべながら、眠りに落ちていった。