月狼聖杯記

1章:王と剣闘士 - 1 -


 十七年前――星暦四八六年。
 タタラ山の中腹にある、深い森に囲まれたヤクソン村では、八十戸ほどの月狼が狩猟で生計を立てながら、慎ましく暮らしていた。
 およそ波乱のないひなびた村だが、麓に大きな軍道があり、近頃は武装した隊伍たいごが頻繁に砂埃を巻きあげていた。
 セルト国の残忍な老王バングルが、宗教統一を名目に、大軍をあらゆる戦場へ送りこんでいるのだ。
 隣接諸国を侵略し、北のチャヴァル連邦国家にも迫る勢いであったが、最大都市アレッツィアから送りこまれた僅か百の精鋭に敗れた。
 老王は、夢半ばにして戦場で潰えた。
 彼には七人の息子がいたが、王座を争った末に六人が倒れ伏した。
 残ったのは三歳の末子、シェスラただ一人。
 シェスラは幼いながらも賢く、白銀毛に水晶の瞳を持つ美貌で知られていた。
 とはいえ、国を導くには幼すぎる。
 摂政の座に納まり、実権を握ったのはバシリアという狡猾な男で、前王に負けず劣らず酷薄で野心に満ちていた。
 火の粉は、深い雪で覆われた辺境の集落、ヤクソンにも降り懸かる。
 年の暮れ、王都から高圧的な態度の官吏がヤクソンにやってきて、部族戦争の従軍に応じるよう命じた。
 族長は訴えた――村には女、子供、年寄りも多い。これから厳しい冬将軍を迎えるというのに、働き盛りの男衆を失っては、村の存続は危ぶまれる。
 官吏は納得する風を装って引き下がったが、族長の壁にかけられた、ナガラ教の占星具を見逃さなかった。
 セルト国は、レイール女神を唯一神として崇める宗教国家で、その他の宗教、中でもナガラ教信者を迫害してきた経緯がある。
 十日後、軍を率いて戻ってきた官吏は、王の紋章印を押された許可証を広げて、騎乗したまま高圧的にいった。
「王の勅令である! 従軍はレイール女神の天啓。背く者は、国家反逆罪とみなし裁判にかける!」
 非情な宣告に、ヤクソンの住人は牙を剥いた。
 門扉もんぴが杭で破壊されると、烈しく交戦した。
 その様子を、十五歳のラギスは三つ年上の兄であるビョーグと共に息を潜めて物陰から見ていた。
 普段の平和な村の様子からは、想像もつかぬ修羅に、ラギスの扁平へいぺいな顔には絶望と恐怖が浮かんでいた。
 ビョーグの整った顔にも緊張と悲壮が滲んでいたが、弟想いの優しい兄は、震える手でしっかりラギスを抱き寄せ、黒毛の髪や耳を宥めるように優しく撫でていた。
「こ、このままじゃ、皆が……っ」
 ラギスは震える声を絞りだした。村の男衆も果敢に応戦しているが状況は劣勢だ。
 村のいたる所で火事が起きている。いよいよ自分達の家に火矢が放たれたのを見て、ラギスは唇を噛みしめた。
「うぅぅッ」
 唸りながら茂みから飛びだそうとするラギスを、ビョーグは強く抱きしめた。
「駄目だ!」
 火はたちまち猛炎となった。木造の家を丸のみにしていく。
 屋根が崩れ落ちる寸前で、幼い妹を抱いた母がまろび出てきた。目敏く気づいた兵士が、母をひっ捕らえる。
「――ッ!!」
 強烈な怒りがこみあげて獣化をきざすラギスを、ビョーグは痛いほどの力で抱きしめた。耳元に唇を寄せて冷静に囁く。
「俺がいく。お前は逃げろ」
 ラギスは目を剥いた。
「俺もいく!」
「駄目だ。逃げるんだ」
「嫌だ!」
 泣きそうな顔をしているラギスを見て、ビョーグは笑った。いつものように。
「心配するな。母さんとアモネを連れて、あとから追いかける」
「嫌だッ」
「ラギス! 聞くんだ。森にいけ、あそこなら見つからない。判るな?」
 森には、狩猟に使うほらが幾つか点在している。いつでも手入れがされており、越冬に耐えうる備蓄もそなえていた。
「俺独りでいくのかよ」
「そうだ。あそこなら、足跡や匂いを雪が隠してくれる。母さん達を助けたら、俺もあとから追いかける。先にいって、準備をして待っていてくれ」
 眼淵まぶちに涙をためるラギスを見て、ビョーグはふっと優しい笑みを浮かべた。
「頼りにしてるぞ」
「必ずこいよッ!?」
 涙の幕が張ったラギスの目元を、ビョーグは親指でこすった。
「約束する。さ、いくんだ」
 しっかと頷いて、ラギスは森に逃げた。何遍も戻りたい衝動に駆られたが、必死に足を動かした。
 勝手知ったる森の中、慎重に逃げるラギスを追いかけてくる者は一人もいなかった。
 枯れ木で入り口を隠された洞は、数日前に手入れをされたまま、何一つ変わっていなかった。
 中に入り、備蓄に変化がないことを確かめる。かめに汲んだ水も、食糧も問題なかった。
 一息つくと、ラギスは壁を背にして蹲った。
 ここで待っていれば、ビョーグが迎えにきてくれる――自分にいい聞かせて、息を潜めて辛抱強く待った。
 しかし、三日が経ってもビョーグは現れなかった。
 外は相変わらずの吹雪で、森に入りたくとも入れないのかもしれない――ラギスの不安は募った。
 村に降りてみようか?
 何遍も迷ったが、とても外を歩ける天候ではない。吹雪は容赦なく道という道を覆いつくし、一寸先を雪で遮断していた。
 七日後、ようやく雪はやんだ。
 洞を出ると、森は白銀に覆いつくされていた。
 村に降りたラギスは、そこで目にした光景に言葉を失くした。
 長閑のどかな村は、無残な姿に変わり果てていた。
 倒壊し、消し炭と化した家屋に、分厚い雪が降り積もっている。
 死と、凄惨な破壊以外に、何も残っていなかった。
 血痕も戦塵せんじんむくろも雪に覆われて、無人の廃墟と化している。
 動いているのは、ラギスしかいない。
 恐る恐る我が家に近づくと、戸口に落ちた剣を見て、ひゅっと喉が鳴った。
「う、ぁ……そ、そんなッ」
 ビョーグの剣だった。瓦礫の隙間に、蒼白く凍ったビョーグの亡骸が見えた。
 堪らず、両手で口を押えた。
 どこかで生きていると信じていたのに。雪が酷くて、迎えにこれないだけだと――
「いやだ……ビョーグ……やだ、そんな……」
 母と妹を連れて、あとからくると約束したではないか。
「あぁぁ――ッ」
 重たい灰色の空に、ラギスの慟哭が虚しく反響した。鋭い哀しみに身体を貫かれる。
 目の眩むような怒りに支配された。
 何をしたというのだ。ヤクソンの皆は、ただ平和に暮らしていただけだ。なぜ襲った。なぜ殺した。なぜ――!
「ごめん、ごめんよぉッ」
 冷たくなったビョーグの傍に蹲り、ラギスは涙を流した。昏い焔が胸に灯る。瞬く間に業火となって燃え盛った。
(――許さないッ)
 身の内の獣性が膨れあがり、四肢は黒毛に覆われた。布が悲鳴をあげて、ラギスは乱暴に服を脱ぎ捨てた。
「オォ――ンッ!」
 鈍色の空に向かって咆哮する。
 普段なら同胞が応えてくれるのに、森はしんと静まり返り、ラギスの遠吠えだけが空しく響き渡った。
(こんな国、亡んじまえッ!)
 非情の官吏も、彼を遣わしたセルト国の王も、家族を襲った兵士も、何もかもが呪わしかった。
 復讐を誓う。
 いつか必ず、この苦しみの責を負わせてやる。一人残らず、地獄の裂け目に突き落としてやる。
「う、あぁ、ぁ……ッ」
 ひとしきり咆哮をあげたあと、ラギスは人形ひとがたに戻った。
 灰に塗れた大地に蹲って、人の声で泣く。
 一晩中涙に暮れていたが、空が白み始める頃になると、ふらふらと立ちあがった。頬についた幾筋もの涙の跡を袖で拭い、改めて村を眺める。
 せめて墓標を立てよう……そう思い、瓦礫をどかして始めた。躯は清めて、大地に還さねばならない。
「……ッく、ひぃっく」
 熱い涙がぼろぼろと零れ落ちる。
 瓦礫の下から引っ張りだしたビョーグの亡骸を横たえると、髪を少し切り、耳飾りを外して小袋にしまった。
 血の滲んだ手で、目や鼻をこすりながら、更に瓦礫をどかしていく。母と小さい妹は、どこにいるのだろう?
「――おい、子供がいるぞ」
 濁声にはっと顔を上げると、複数の傭兵がラギスを指さしていた。ラギスは咄嗟に駆けだしたが、あっという間に捕まってしまった。
「は、離せッ!」
 手足を振るって暴れると、こん棒のような腕で、頬をひっぱたかれた。
「ぐぁっ」
 まだ未熟な身体は、蹴鞠のように宙を舞い、ごろごと地面を転がった。
 起きあがる度に殴られ、あっという間に傷だらけになった。鼻から血を噴きだし、片方の目は腫れあがり、開かなくなっている。
 抵抗が弱々しくなると、巨岩のような傭兵はラギスの両手首に鉄の枷を嵌めた。
「くそッ、離せよ!」
 悪態をつくラギスを見て、威勢がいいな、と男は酷薄な笑みを浮かべた。鎖を力任せに引っ張る。
「痛ッ……おぃッ! どこに連れていく気だ!?」
「黙って歩け」
 鎖を引っ張る兵士は、面倒そうにラギスを見て呟いた。
 他にも鎖に繋がれている、襤褸切れのような月狼がいた。道すがら、彼等は諦念の浮いた瞳でラギスに教えてくれた。
 王に歯向かった月狼は、罰として、軍や邸に仕える奴隷として働かされるのだと。
 威勢の良いラギスは、地方の闘技場に売られた。
 想像を絶する暴力の世界――十七年もの月日を、ラギスは奴隷剣闘士として過ごすことになる。