月狼聖杯記

12章:ラピニシア - 2 -

 哨戒しょうかいから戻ったラギスは、最右翼の最前衛に配され、出撃命令を待っていた。
 騎兵隊は三列横隊に並ぶ。ラギスを中央先頭にして、副官のロキとグレイブが左右に、その周囲を護衛兵が囲め、オルフェやジリアンもいる。
 緊張に満ちた無限の一瞬一瞬。
 重たい曇天の奥から、蒼褪めた朝陽が冷たい光を放ち、時折、烈風が粉雪を舞いあげ、彼岸ひがんを霞ませた。
 傾斜のしたには、一望蕭殺しょうさつたる雪と氷に覆われた曠野こうやが、地のてまで拡がっている。
 無彩色の世界。
 まるい丘や低木の生い茂る、平たい大地の連なる寒々とした真冬の寂しい景色――ラピニシア。
 色のない景は、見る者の胸に犇犇ひしひしと寂寥を感じさせる。
 レイール教の唯一女神、レイール女神降臨の地として知られているが、この荒涼とした土地から、聖なる威厳は感じられない。
 だが、月狼たちがこの土地をめぐって、涯てし無い闘争を繰り返してきたことは紛れもない史実であり現実である。
 荒涼とした大地のしたには、神秘性とは無縁の、無限のかばねはがねが埋められているのだ。
 今、シェスラは、アレッツィアの万全なる布陣の背後を捉え、歩兵隊、騎兵隊を少しずつ前進させ、密かに敵との間合いを詰めようとしていた。
 士気は高いが、望遠鏡で敵の基地と、その奥に展開された陣容を目にした将らは、敵の威容に圧倒されていた。
 こちらは敵の背後を捉え、歯牙にかけたも同然なのだが、扇型に幅広く、分厚く、展開された陣容は強大で、総数ではとても敵わないと思わせられる。
 さらにラピニシア湾には、アルトニアから送りこまれた艦隊が無数に押し寄せており、海岸沿いに追いこまれたが最後、砲撃の餌食にされてしまう。
 歴戦の将であっても、決戦の凄まじさ、覚悟を迫られる光景だった。
 シェスラも望遠鏡で薄闇の彼方に目を凝らし、その威容を認めた。
 確かに、視覚的には圧倒される。
 見事な隊列の合間に等間隔に櫓が配され、外来の新兵器、火銃をもつ銃兵が、前方に布陣せしめるヴィヤノシュ率いる傭兵軍団に銃口を向けている。
 とつ
 ダ――ンと殷々轟々いんいんごうごうたる大砲の轟きが耳を劈くばかりに聞こえた。続いて幾千幾百もの砲口一斉に火を噴きあげた。
 これには、勇猛果敢な月狼銀毛騎士団も戦慄した。なんとした爆撃であることか。あれはアルトニアのもたらす、悪魔の兵器ぞ!
「恐れるな!」
 シェスラは一喝した。立ちすくむ同胞の先頭へ馬を走らせ、颯々さつさつと進みでた。
 兜をかぶらず、金属製の装身具をまとい、短い白い毛皮の外套を纏っている。総大将にしては質素ないでたちだが、紅い絹と真鍮に鎧われた軍馬に騎乗し、四騎士を従える姿は、凛然として美しかった。
「諸君の目指す地は眼前にある。天もほほえんでくださる!」
 王が自軍を鼓舞するように馬を走らせると、将兵らは天をどよもすときの声をあげた。
 威厳あふれる白皙はくせき月狼の王アルファングに、彼等は完全に魅了されていた。
 このような開戦の場面では、しばしば統率者の求心力が試される。彼のもたらす一言が、前線に立つ者たちをふるい立たせるのだ。
 演説はシェスラの得意とするところで、彼はまた、言葉を惜しまなかった。耳をぴんとそばだて聞き入る将兵らを見渡し、いっそう声を張りあげた。
「我が勇猛なる将兵たちよ。命ある限り突貫し、敵の喉笛に噛みついてみせよ――先鋒隊突撃! 騎士団の王旗を掲げ、悪鬼豺狼さいろう共を掃攘そうじょうするのだ!」
 凛とした声でいい放つや、剣をかざしシェスラは、率先して馬を走らせた。
 パッパッパ――ッ! 進軍喇叭らっぱが鳴り響く。
 突撃前の緊張と興奮が、大王の命令一下いつか、解き放たれ、光矢の如く疾駆する。
 殆ど崖を垂直に駆け下り、烈風が雪煙を巻きあげるなか、左翼のインディゴ部隊が、凄まじい勢いで突き進んだ。
 鼓手こしゅと喇叭手が突撃の楽を奏しつつ、これに続く。
「わぁっ」
「おぉぉぉッ」
 喚声かんせいにつぐ喚声かんせいだ。
 シェスラは馬を走らせながら、百頭の戦蜥蜴に突撃させた。アレッツィアの誇る三列銃隊に向かって、大驀進だいばくしん! 
 正面に意識を割いていたアレッツィア兵は、背後に突如現れた悪魔軍団に、度肝を抜かれた。
「ぎゃァッ!」
「何事ッ!?」
「戦蜥蜴だァッ!!」
 阿鼻叫喚が迸る。
 彼等にしてみれば、背後は自然の要塞に守られており、自分たちの基地がある、安全な絶対領域であるはずだった。
 それなのに、地獄の裂け目から魑魅魍魎どもが押し寄せ、悪鬼軍勢となって迫ってくるとは!
「後ろだ! 撃てッ!」
 敵の伍長ごちょうが怒号を飛ばす。火筒の響きが鼓膜を連打するが、雪崩こんだ戦蜥蜴が敵のしんがりに突っこむと、慌てふためく悲鳴にかわった。
「ぎゃあぁッ!」
 兜をつけたまま首が千切れて、源泉げんせんを突いたみたいに、勢いよく鮮血が噴きあがる。血飛沫が目に入った馬が恐慌をきたしていななき、たちまち混沌と化した。
 海岸から上陸しようとしていたアルトニア兵団も、これにはぎょっとさせられた。
 戦蜥蜴は、彼等が初めてお目にかかる漆黒の悪魔だった。冷静沈着とされる水霊族の銀色の瞳は、敏捷な怪物に魅せられ、恐怖をまじえた唖然とした表情で大きく見開かれた。
 なんとしてもこの凶悪な怪物を退けなければ――アレッツィア兵と束になってセルト軍を襲うどころではなくなり、想定外の敵、戦蜥蜴の応戦を余儀なくされてしまう。
 遠距離から狙いを定めようとしたところ、放物線を描いて甲板に落ちてきた矢に眉を潜めた。
 この強烈な匂いはなんだ?
 矢に、腐臭を放つ肉を包んだ布が結ばれているのを見て、彼等は訝しげに顔を見あわせた。
 それが恐怖の疑似餌だと気がついた時には、腹を空かせた戦蜥蜴が、海面に飛びこんだあとだった。
 沼に生息する彼等は、水の下では指の合間の水かきをつかって、陸上よりもさらに高速で動ける。硬い皮膚に鎧われた、凶暴極まりない走る凶器が、ついに甲板に顕れた。
 阿鼻叫喚。
 銃を撃とうにも、頑丈な鱗には通らない。腹を空かせた捕食者は、容赦なく、柔い肌に鋭い牙を突きたてた。
「ぎゃぁ゛――ッ」
 鮮血と悲鳴を迸らせ、瞬く間に大混乱に陥った。
 援軍がかけつけるはずの海岸は地獄に染まり、しかも大王の麾下きか連隊が白刃をかかげて迫ってくる。
 陣形が乱れると、最新鋭の武器をもつ銃兵隊は、なんの役にも立たなかった。
 装填そうてんに時間がかかりすぎるのだ。
 効率化のための三列横隊も、高速で駆けてくる戦蜥蜴に背中から噛みつかれては機能しない。
「ぎゃああぁッ」
 もたもた装填している兵は、恐ろしい爪や牙の餌食になり、不定形状の肉片に粉砕された。
 こうなっては弾をこめて撃つより、銃把じゅうはで相手を殴るか、腰に履いた三日月刀を振るった方が、よほどましだった。
「おのれぇッ!」
 アレッツィアの伍長ごちょうも長銃をなげうって、佩剣はいけんを抜いた。
 畢竟ひっきょう、銃兵騎兵も関係なく白兵戦に突入したのである。