月狼聖杯記

12章:ラピニシア - 1 -

 星暦五〇三年十ニ月十七日。ラピニシア決戦の日。
 彼誰時かはたれどき、空にはまだ細い月が輝いているが、ラギスは戦闘準備を始めていた。
 他の男たちも起きだして、準備にとりかかっている。鎧を纏い、短剣を仕込み、武器を確認する。もはや躰に染みついた、儀式の一部ともいえる戦闘準備だ。
 決戦の日も、日課は怠らない。
 朝夕の斥候せっこうは交代制で、今朝はラギスの番だった。
 クィンに跨って陣幕を抜けると、部下を引き連れた将官たちが集まってきた。
 登攀を乗り越えた月狼たちは、出兵前と比べて、顔つきがだいぶ変わった。
 一見華奢に見えるジリアンも、ネヴァール山脈に心身を鍛えられ、以前よりもしなやかな筋力を纏い、瞳には自信と闘志をみなぎらせている。
 全員がそうだ。
 あの極限世界を乗り越え、今ここにたち、荒々しいエネルギー、興奮と緊張、焔の高揚とを感じている。
 ラギスも、闘技場に立つときのような、ひりついた空気を肌に感じていた。
「異変があればすぐに知らせろ。終わったら集合だ」
 短く指示をだし、自らも白銀の森に分け入った。
 辺りには雪がうずたかく積もり、灰色に覆われた空は重たく、時折、雪を降りこぼしている。
 セルトの奇襲部隊が密かに活動を始めた時、青の羽飾りをつけたアレッツィア兵たちは、ペルシニアに面して布陣していた。
 中央に槍兵隊を配し、両脇をアルトニアから支給された最新鋭の銃を構える兵隊で、十重二十重とえはたえに固めている。
 正面から見れば隙のない布陣だが、背後はがら空きである。
 ペルシニアから攻めてくる軍勢が陽動と知らぬ彼等は、この時点では、まさか、背後にそびえる絶壁の霊峰から、新手が現れるとは露ほども思っていなかった。
 シェスラはネロアでも敵の背後をつくことで、万軍を圧倒したが、ここでも同じ理論を実践したのである。
 こうなる事態を敵は誰一人見抜けなかった――否、一人だけ警句を発した者がいた。
 アルトニアの若き少年将校、ダーシャンである。
 十六歳の冴えた将校は、シェスラの奇策を見抜いたわけではなかったが、ラピニシア攻略が見た目道理でないことを、心理的に読んでいた。
 ネロア防衛に奇策を投じて勝利したシェスラが、力任せにラピニシア奪還に挑むとは思えなかったのだ。
 彼は上官に意見したが、考えすぎだと受け容れられなかった。
 確かに、相対峙あいたいじするヴィヤノシュの布陣の不気味さは、精神的に圧倒するものがある。これまでに彼の冒した焼き討ち、蛮行の残虐さは、冷静沈着といわれる水霊族をも戦慄せた。
 この正体不明の恐怖こそが奇策といっても過言ではないが、まだ何か隠している、ダーシャンはそう感じていた。
 彼は、自らの推察を立証すべく、無謀にも護衛を二人だけ連れて、斥候せっこうに赴いた。月狼たちの霊峰に足を踏み入れたのである。
 そして霊峰に潜む兇手に気づき、畏怖すると同時に、やはり自分は正しかったのだと確信を得た。
 彼は、この戦いの帰趨きすうを察した。
 お見事――大王シェスラは、悪魔のような奸策かんさくろうする奇術師に違いない。まさかまさか、危険極まる霊峰登攀とうはんを成功せしめるとは!
 しかし感心している場合ではない。
 これはまずい・・・
 背後を捉えた軍隊――総数はアレッツィアに遥かに劣るものの、最高の配置に秘され、恐らくはその実力も破壊と死をもたらす大王シェスラの決勝部隊に違いない。
 遂に見抜いたダーシャンだが――矢の如く馬を走らせたところで、味方に知らせる前に、出撃の喇叭は鳴ってしまうだろう。
 間にあわない。
 こうなると、残されたアレッツィアの手札は少ない。どれだけ被害を最小に抑えて、次の戦い・・・・に備えることができるかどうか……
 ダーシャンは、ここで引き返せば良かったかもしれない。
 彼は、少しでも多くの情報を集めようと、隠された軍隊を追跡しようとしてしまった。
 彼は追跡するうえで、絶対にしてはならぬ失敗を冒した。くしゃみをしてしまったのだ。
 哨戒しょうかいで気を張っている耳敏い月狼の斥候せっこうが、気づかないわけがなかった。
何奴なにやつ!」
 茂みから現れた月狼は、佩剣はいけんの柄に手をかけて誰何すいかを叫んだ。水霊族の護衛が身を呈して、硬直するダーシャンの前に踊りでた。
「――危ないッ」
 異端の兵器、短銃を抜きかけた彼は、白刃の閃きによって、自らの血の池に沈んだ。
 物騒な物音を聞きつけて、斥候にでていたラギスも、すぐさまその場に駆けつけた。
 ラギスがその場に割って入った時、地面には見知らぬ兵士が二人、血を流して伏しており、年若い少年兵が縄で縛りあげられていた。
「何があった?」
 部下は振り向くと、
「帝国の斥候せっこうのようです――おい、名前と所属部隊をいえ」
 後半を少年に向けて放つ。
 少年は顔をあげた。幼さの残る、少女のように美しく可憐な、優しげな顔立ちをしていた。
「貴方が、黒狼隊のラギス殿ですか?」
 怯えるでもなく、澄んだ声でまっすぐに見つめてくる少年に、ラギスは面くらってしまった。なめらかな月狼の公用語を操ることにも驚かされた。
「そうだ」
 ラギスは、間近に水霊族を見るのは、これが初めてだった。全ての水霊族がそうであるように、彼もまた神秘的な青い髪に銀眼の持ち主だ。華奢な外見に加えて、髪を少し長めに揃えているので、いっそう少女めいて見える。
「私はダーシャンといいます」
 水霊族の少年もまた、ラギスに魅入っていた。
 筋骨たくましい立派な体躯。月狼の特徴の耳と尾をもち、浅黒い肌に黒い総髪のした鋭い瞳が黄金に光って、荒い気性をうかがわせる。
 噂に聞いた通りだ。雄々しくも、月狼の王アルファング聖杯オメガであるからなのか――弱さや媚態とはまるで無縁の外貌ながら、不思議と惹きつけられる。
「殺しますか?」
 部下が冷静に訊ねる。泰然としていたダーシャンは、緊張に顔を強張らせた。
 ラギスは躊躇った。
 敵対するアルトニア人だと判っているが、まだ幼い少年である。月狼に比べてアルトニア人はただでさえ骨格が華奢なのに、十五、六歳の少年ともなれば、ラギスの眼に敵とは映らなかった。
 だが、単騎で斥候せっこうにもぐりこんできた素性の知れぬアルトニア人を見逃すわけにもいかない。
「連れて帰りますか?」
 ラギスの迷いを読んだように、部下が訊ねた。それすらも、ラギスは躊躇った。
 敵対するアルトニア人の、美しい少年が月狼の群れに放りこまれたら、果たしてどんな目にあうことか。ジリアンよりもさらに線の細い少年である。捕虜にするには忍びないと思ってしまった。
「いや……放してやれ」
「よろしいのですか?」
 部下は驚いたように訊いてきたが、ラギスは頷いた。捕虜の扱いは、捕まえた者に、もしくはその上官に権利がある。
「まだ子供だ。見逃してやれ」
 ダーシャンはほっと胸を撫でおろし、感謝の目でラギスを見つめた。
「ありがとうございます、貴方様は命の御恩です」
「今回は見逃すが、次に戦場で見かけたら容赦しないぞ」
 ラギスが釘をさすと、ダーシャンは丁寧に一揖いちゆうして背を向けた。
 騎乗して、去っていく後ろを姿を見送り、ラギスも潔く背を向けた。すると部下も、仕方なく後ろにつき従った。
徽章きしょうをご覧になったでしょう。あれはただの斥候ではなく、相当な身分の将校ですよ」
 部下は少々不満げにいい足したが、
「済んだことだ」
 ラギスがぴしゃりと撥ねのけると、それ以上の不満は控えた。
 しかし――
 この時の決断は、苦いおりとなって、永いことラギスの心の底に沈みこむことになる。
 奇しくもあの少年こそは、シェスラと生涯に渡って競いあうことになる好敵手、のちのダーシャン公である。
 この時、情などかけずに殺しておけば、シェスラの治世は遥かに助けられたのだろうか――未来永劫判らない疑問である。