月狼聖杯記
11章:神の坐す山 - 9 -
星暦五〇三年十一月三十日。行軍六十日目。
アガの里を出立して四日目。
起きあがると、山々に朝陽が当たり始めていた。ご機嫌は良さそうだ。
蜂蜜の欠片を舐めて、荷を確認し、靴や防寒衣のなかに決して雪が入らぬよう装備を確認して、いざ出発。
折返し地点まであと少し。
雪が膝まで覆い、踏みだす一歩を重たく感じる。
玻璃のような青を仰ぎ見ながら、焦らず、一歩ずつ、自分の体重を運んでいく。
風も弱く、天候に恵まれ、昼には標高七五〇〇メートルに達した。
とうとう辿り着いた。
ここが折返し地点だ。
我等が騎士団の軍旗が翻ると、隊伍 から歓声が沸き起こった。
山頂まであとニ〇〇〇メートル以上もあるが、山の上部が目の前に見えて、あれだけ遠くに感じられた霊峰が近くに感じられた。
そうはいっても、標高七五〇〇メートルからさらにニ〇〇〇メートルある山……空の上に山があるようだ。あの場所には、山の神が棲まうに違いない。
登頂が目的ではないので、ラピニシアまでの最短距離が見込める、ここが折返し地点となる。八五〇〇メートルまで登れば、さらに距離を短縮できるが、どんなに屈強な月狼であっても、高度順応できるのは八〇〇〇メートルが限界とされている。
地上七五〇〇メートル。
孤高の風が吹き渡る、天と地のあわい。
まさに言語を絶する景観である。
空気は地上よりもずっと希薄で、空は驚くほど青い。
空の奥に拡がる、宇宙の天蓋が透けて見えているように感じられる。
雲の上の世界から、感慨深く天下の絶景をみおろす。
はるか眼下には、美しい氷の斜面に宿る妙 なる光と影とが、此の世のものならぬ幻想美をたたえている。
遠く、野裾に拡がる雪の大海原――聖地ラピニシア
白い荒野の真ん中で、石造りの遺跡が、もの哀しく凝然 と聳えている。
その前方に豆粒のように小さく見えるのは、アレッツィアの布陣だ。正面から迫ってくるであろうヴィヤノシュ北上軍を見据えているのだろうが、まさか、このような遙か頭上から眺めおろされているとは思うまい。
ここから拝めば絶景の一部だが、あの場所に降り立てば、ぱっとしない眺望と思うことだろう。
あの痩せた土地を得る為に、何世紀も昔から、大勢の月狼が血を流してきたのだと思うと、なんともいえない漠とした気持ちにさせられる。
幾千年もの間、争いの火種にされた聖地。
幾つもの宗教が生まれた始まりの場所は、ラギスの瞳にうら寂しい土地にしか見えなかった。
周囲を見回すと、これから攻略する土地を無感動に眺めている者もいれば、跪いて祈りを捧げる敬虔な兵士もいた。
稜線は暖かく、陽のあたる磐に触れることができる。
すると、雪のなかに咲く可憐な花に目が留まる。気づいた兵士たちは、巨躯を屈めて眺めていたりした。
この極限の地に咲く花もあるのかと、ラギスも、ひたむきな強さを感じた。
屈強とされる月狼も、ネヴァール山に比べればちっぽけな存在だ。ここでは月狼も、鳥も、小さな虫も、花も、同じ生命だ。
難関登攀を為し得た今、誰もが大きな自信を掴んだが、奢り高ぶることはない。攀 るほどに、自然に対して畏怖し、謙虚になるのだ。
出発の前に、二十歳の大王は、月狼の姿で兵の前に現れた。
その姿は、見た者の胸に、大いなる予兆を稲妻のように閃かせた。
雪に覆われた霊峰を背に、四肢で立つ白銀の月狼は、神の遣いのように神々しかったのである。
「“北西を見よ”」
王の声は、アミラダの仕掛ける巧妙な音響効果により増幅され、連なる全将兵らの頭上に、堂々と重々しく響き渡った。
北西――遥かなる聖地に全員が目をやった。
雪の海原に浮かぶ石の要塞。まだ遠いが、肉眼で見える位置にまで目的地に近づけたことは確かだった。
「“ここまで、よく耐えてくれた。我々の遠征は、もうなしえたも同然だ。あそこはもう、聖地である!”」
威風堂々と哮 ける勝利宣言は、全軍に浸透した。
ラギスも、全身が総毛立つのを感じた。
蹶起 し、セルトを立った日を、もう遥か昔のように感じる。戦いはこれからだが、数千人を率いてここまでやってきた月狼の王 に、あらためて畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
曇り無き瞳で眺めおろせば、侘しい土地と思ったその向こうに、なめらかな弧を描く水平線があることに気がついた。
ラピニシア湾だ。
天、地、海。ここから見る世界に、無限の拡がりを感じる。
「“ここから先は下りだけだ。あとは勝つのみ。戦闘を終えれば、我々は聖地を手中に収めることができる”」
眺望を指しての演説は、効果覿面だった。兵士達の顔は、みるみるうちに明るくなっていった。
頬を嬲る朔風が、粉雪を舞いあげて谷底へ連れていく。
全将兵が遥かなる聖地を目に焼きつけた。生涯忘れられない光景になることは、間違いなかった。
自軍の勝利を確信し、爛漫 の兆 しのなか、悠々とペルシニア領を通って凱旋帰還を果たす光景を、心に描いたのだった。
出発を告げる金管の音が、厳かな峻厳に響き渡ると、全将兵が勇ましい鬨 の声をあげた。
進もう。聖地ラピニシアが待っている。
アガの里を出立して四日目。
起きあがると、山々に朝陽が当たり始めていた。ご機嫌は良さそうだ。
蜂蜜の欠片を舐めて、荷を確認し、靴や防寒衣のなかに決して雪が入らぬよう装備を確認して、いざ出発。
折返し地点まであと少し。
雪が膝まで覆い、踏みだす一歩を重たく感じる。
玻璃のような青を仰ぎ見ながら、焦らず、一歩ずつ、自分の体重を運んでいく。
風も弱く、天候に恵まれ、昼には標高七五〇〇メートルに達した。
とうとう辿り着いた。
ここが折返し地点だ。
我等が騎士団の軍旗が翻ると、
山頂まであとニ〇〇〇メートル以上もあるが、山の上部が目の前に見えて、あれだけ遠くに感じられた霊峰が近くに感じられた。
そうはいっても、標高七五〇〇メートルからさらにニ〇〇〇メートルある山……空の上に山があるようだ。あの場所には、山の神が棲まうに違いない。
登頂が目的ではないので、ラピニシアまでの最短距離が見込める、ここが折返し地点となる。八五〇〇メートルまで登れば、さらに距離を短縮できるが、どんなに屈強な月狼であっても、高度順応できるのは八〇〇〇メートルが限界とされている。
地上七五〇〇メートル。
孤高の風が吹き渡る、天と地のあわい。
まさに言語を絶する景観である。
空気は地上よりもずっと希薄で、空は驚くほど青い。
空の奥に拡がる、宇宙の天蓋が透けて見えているように感じられる。
雲の上の世界から、感慨深く天下の絶景をみおろす。
はるか眼下には、美しい氷の斜面に宿る
遠く、野裾に拡がる雪の大海原――聖地ラピニシア
白い荒野の真ん中で、石造りの遺跡が、もの哀しく
その前方に豆粒のように小さく見えるのは、アレッツィアの布陣だ。正面から迫ってくるであろうヴィヤノシュ北上軍を見据えているのだろうが、まさか、このような遙か頭上から眺めおろされているとは思うまい。
ここから拝めば絶景の一部だが、あの場所に降り立てば、ぱっとしない眺望と思うことだろう。
あの痩せた土地を得る為に、何世紀も昔から、大勢の月狼が血を流してきたのだと思うと、なんともいえない漠とした気持ちにさせられる。
幾千年もの間、争いの火種にされた聖地。
幾つもの宗教が生まれた始まりの場所は、ラギスの瞳にうら寂しい土地にしか見えなかった。
周囲を見回すと、これから攻略する土地を無感動に眺めている者もいれば、跪いて祈りを捧げる敬虔な兵士もいた。
稜線は暖かく、陽のあたる磐に触れることができる。
すると、雪のなかに咲く可憐な花に目が留まる。気づいた兵士たちは、巨躯を屈めて眺めていたりした。
この極限の地に咲く花もあるのかと、ラギスも、ひたむきな強さを感じた。
屈強とされる月狼も、ネヴァール山に比べればちっぽけな存在だ。ここでは月狼も、鳥も、小さな虫も、花も、同じ生命だ。
難関登攀を為し得た今、誰もが大きな自信を掴んだが、奢り高ぶることはない。
出発の前に、二十歳の大王は、月狼の姿で兵の前に現れた。
その姿は、見た者の胸に、大いなる予兆を稲妻のように閃かせた。
雪に覆われた霊峰を背に、四肢で立つ白銀の月狼は、神の遣いのように神々しかったのである。
「“北西を見よ”」
王の声は、アミラダの仕掛ける巧妙な音響効果により増幅され、連なる全将兵らの頭上に、堂々と重々しく響き渡った。
北西――遥かなる聖地に全員が目をやった。
雪の海原に浮かぶ石の要塞。まだ遠いが、肉眼で見える位置にまで目的地に近づけたことは確かだった。
「“ここまで、よく耐えてくれた。我々の遠征は、もうなしえたも同然だ。あそこはもう、聖地である!”」
威風堂々と
ラギスも、全身が総毛立つのを感じた。
曇り無き瞳で眺めおろせば、侘しい土地と思ったその向こうに、なめらかな弧を描く水平線があることに気がついた。
ラピニシア湾だ。
天、地、海。ここから見る世界に、無限の拡がりを感じる。
「“ここから先は下りだけだ。あとは勝つのみ。戦闘を終えれば、我々は聖地を手中に収めることができる”」
眺望を指しての演説は、効果覿面だった。兵士達の顔は、みるみるうちに明るくなっていった。
頬を嬲る朔風が、粉雪を舞いあげて谷底へ連れていく。
全将兵が遥かなる聖地を目に焼きつけた。生涯忘れられない光景になることは、間違いなかった。
自軍の勝利を確信し、
出発を告げる金管の音が、厳かな峻厳に響き渡ると、全将兵が勇ましい
進もう。聖地ラピニシアが待っている。