月狼聖杯記

11章:神の坐す山 - 8 -


 あくる朝、ラギスはシェスラと共に、母とアモネの小屋へ赴いた。二人は浮き立つようにいそいそとして、
「ようこそいらっしゃい」
 と眩しげに微笑した。質素ながらよく磨かれた胡桃くるみ材の卓に招き、鴨肉の卵雑炊を振る舞った。
 温かく、うまい。
 鴨肉も卵も、黄金色の栗のようにほくほくとしたじゃが芋といい、厳しい土地で、これほどいい味の食材が手に入るのかとラギスは驚いた。
「うまい」
 ラギスがいえば、二人は心底嬉しそうな様子で尾を揺らし、シェスラも同じようにいうと、恍惚うっとりと卒倒しそうな様子になって頬を赤らめた。
 二人とも心から暖かく、本当の好意をもってもてなしくてくれた。
 朝食を馳走になり、用事があるからとシェスラがでていく際には、良き母と娘は、丁寧に深くお辞儀をして見送った。
 ラギスは残って二人の手伝いを申しでた。出立まで、まだ時間はある。
 屋根の修繕や調度の移動を頼まれ、よしきたと引き受けると、先ず傷んだ屋根を直し、扉の金具を取替え、重い調度の移動などを手伝った。
 母は声に不自由しているが、他のことで不便することないようだった。お勝手仕事も、畑仕事もなんでも立派にこなしていた。思えば昔から、家族の誰よりも早くから起きて、仕事を始めるような女性ひとだった。自分の時間をすべて、家族と大切な人に使うような、優しい人なのだ。
 休憩になると、温かい茶をアモネが淹れてくれた。ラギスが礼を口にすると、嬉しそうにはにかむ。
 親子三人、雪かまくらのなかで温かい茶を啜る。
 昼間、アミラダがやってきて、喉に良い薬を分けてくれたのだと、母は嬉しそうに報告してきた。ラギスも嬉しくなり、今度アミラダに礼をしようと心に思う。
 寛いだ空気になり、ラギスはアモネに訊いてみることにした。
「あのな、ホシウスはお前とつがいたいといっているんだが……アモネはどうだ?」
「あの人と同じ気持ちです、お兄さん」
 と、アモネは茱萸ぐみの実みたいに頬を朱くした。母も優しい表情で頷いている。
 ならばもう、ラギスにいうことはなかった。
 十七年間、ラギスに代わって二人の面倒を見てくれていた立派な男だ。文句などない。
「そうか。アモネが嫁ぐなら、母さんは……闘いが終わったら、俺とセルトにくるか?」
 母は微笑し、首を振った。住み慣れた家を離れるよりは、ここにいたいようだった。
 ラギスも闘いに明け暮れるであろう日々を思うと、セルトに招くことは躊躇われた。ここにはよくしてくれる村人や、ホシウスもアモネもいる。
 それに、母とアモネがここにいるのだと知っていれば、また会いにくることができる。生きていれば、また会えるのだ。
 様子を見にホシウスがやってきた時、ラギスは、ホシウスをじっと見つめて静かに一揖いちゆうした。
「どうか、アモネを幸せにしてやってくれ」
 ホシウスは瞳に感謝の色を浮かべて、嬉しそうに頷いた。
 雑談のあと、ラギスはもう一働きするといって、厩舎に向かった。
 馬に飼い葉をやり、水をやり、躰に香油と刷毛をかけて毛並みを整え、鬣と尾を美しく編みこんだ。床の麦藁を変え、飼い葉桶を掃除し、隣馬との喧嘩を宥めて一息つくと、同じ厩舎に繋がれているクィンが、ラギスの背中に鼻面を押しつけてきた。我も構えと甘えてくる。
「よしよし……次はおまえだ。具合はどうだ?」
 優しく声をかけ、クィンの前肢をあげさせ、馬の膝を自分の大腿にのせた。蹄の裏につまった泥を鉄爪でかきだしながら、蹄鉄の状態を調べる。湯で丁寧に洗い、後肢も同じようにしたあとで、刷毛で油を塗りこんでやった。
「おら、綺麗になったぞ」
 ラギスはクィンの馬の首を軽く叩いた。クィンは甘えるように長い顔をラギスにすり寄せてくる。ラギスもなんだか幸せな気分になり、頬擦りを返した。
 気位の高い馬だが、ラギスにはよくなついている。ネロア防衛の時もそうだが、勇敢で、忠誠心の厚い良い軍馬だ。クィンの傍にいられる点だけでも、騎士になった甲斐はあったかもしれない。
 夕方になると、シェスラたちは里の寺院に向かった。高僧たちによる、祈祷を受けるためだ。
 同胞の霊魂を鎮め、軍旅の無事と勝利をよみしてもらうのである。
 ところが高僧たちは、アミラダを見るなり畏敬をこめてひれ伏してしまった。
 結局、アミラダが祭壇にたち、高僧たちは彼女の手伝いをしながら、勤勉に眺めるに落ち着いた。
 ラギスは、幼き日の烈々たる大火焔だいかえんのあと、ビョーグの亡骸を埋めながら、同時に信仰心をも葬ったが、今は再び、神妙に思いを馳せるようになっていた。
 滑落から生還したこともそうだが、家族と再会できたことには、なにか目に見えぬ大いなる力が働いたように感じていた。
 人智を超えた、霊妙神秘なる山神のお導きがあったのだ。

 ネヴァールのあるじ
 聖名みなを崇めさせ給え
 御為ならば我ら月狼
 心尽くし仕え奉らん

 往きて逝きし友よ
 感謝に満ちて偲び
 玉響たまゆらに祈らば
 苦難の狼生に休息を
 苦痛から解き放たれ
 気高き魂よ祖国に眠れ

 往きて生きし友よ
 勇をして進め
 眼下にたなびく白雲
 さながら勝利の軍旗
 千仞せんじんの谷底から吹く風
 我ら軍勢の追い風
 燃ゆる血汐に深く
 滾る熱い闘志を持て
 約束の地を目指さん
 聖墓が我らに帰すれば
 新しい世が明け染める

 山陽の御稜威みいつ
 み光の加護を垂れ
 往き還りを祝福めぐみ給え

 アミラダの唱える祈祷に耳を澄ませながら、皆が、不可視で、霊妙神秘なるものへ畏怖と感謝をこめて、両手をあわせた。
 祈祷を終えると、不思議と心身が澄み渡り、万事がうまくいくように思われた。
 食料の目処もたち、ホシウスと数名の里の者が、道案内人として麓まで同行を申しでると、将兵らの顔はさらに輝いた。
 同行する里のうちの一人は、筋骨たくましい壮漢そうかんで、傷跡のある顔が信じられないほど凶悪に見えるが、信頼のおける男だとホシウスは太鼓判を押した。
 準備は整った。
 いざ出発の時。
 旅立つシェスラたちを、村人総出で見送りにやってきた。そのなかにはラギスの母と妹もいて、二人とも心配そうな顔をしていた。
 母のアッカラがなにか囁くのを、アモネが耳をそばだて、熟練のわざでひろう。物憂げにラギスを仰ぎ見ると、
「母さんが、これから寒くなるのに、兄さんにどうやって服を送ればいいのかと気にしています」
 ラギスの心は、掻きむしられるように痛んだ。この母をおいて戦場へいくことが躊躇われほどに、心を揺さぶられた。
 だが、涙ぐむ母の肩を、アモネが力づけるように叩いた。
「兄さんは、大王様の大切な御方だから。食べ物にも服にも困ることはないのよ。大丈夫なのよ」
 ラギスはたまらない気持ちになって、母とアモネを抱きしめた。二人とも小さくて、両腕でまとめて抱きすくめることができる。このように屈強な大男に対して、防寒の心配をしてくれるのは、この母くらいのものだろう。
「必ず戻ってくる。ここで健やかに過ごしていてくれ」
 母は唇の端を震わせほほえみながら、潤んだ目でラギスを見つめた。あふれんばかりの愛情が伝ってきて、ラギスはしっかりと頷き返した。
 名残惜しいが、シェスラが号令を発したので、ラギスはアモネを見つめた。
「母さんを頼む」
 妹はしっかりと頷き返した。
 隊伍たいごが動きだすにあわせて、見送り人たちは声をかけた。
「ご武運を」
「どうぞお気をつけて!」
 道中の無事を口々に唱え、手を振ってくれる。その光景を、いつまでも噛み締めていたかったが、いかねばならない。
 遠ざかる前に振り返ってみると、金色の靄のかかった薄明かりのなかで、母と妹が手を振ったのが判った。その姿に、影絵でも見ているかのような、非現実的な美しさを感じた。
 正面を向いた時、隣にロキが並んだ。ラギスの顔を見てにやりと笑う。
「なんだ、泣いてないのか」
 ラギスは唸り声を発した。
「うるせぇよ」
 ロキは肩を揺りあげ、
「良かったじゃないか、家族に会えて」
 明るい朗らかな笑みを見て、まぁな、とラギスは頷いた。なんとなく、他の連中からも、温かく励ますような視線を感じる。
 照れ臭さをごまかすように上を向けば――暮れなずむ空が視界に飛びこんでくる。
 金泥こんでいを混じえた眩しいかがやきのなか、双翼を広げた鷲が滑空していった。