月狼聖杯記

11章:神の坐す山 - 7 -

 夜も更け、四方山話よもやまばなしに移ると、族長ガルージャは締めの時宜じぎを述べた。
 ラギスは母と妹が小さな家に入っていくのを見送ったあと、族長の屋敷に戻った。家人の案内で、シェスラと共に寝所の部屋へいこうとしたが、ホシウスに呼ばれて客間に戻った。
 厚い石壁を透して、戸外の吹雪く音は凄まじく響いてくる。人のいない室内は森寂しんとして、暖炉にくべた薪の爆ぜる音が、妙に際立って聞こえた。
 てっきりラギスは、自分が呼ばれたのはヤクソンの話だろうと思っていた。だから、ホシウスが緊張した面持ちで発した次の言葉に、心底驚かされた。
「俺は、アモネとつがうつもりだ」
「何だと?」
 途端に、ラギスの表情が険しくなった。ぶわっと尾を膨らませ、喉の奥で唸る。
「……アモネは了承しているのか? 母はなんといっている?」
 ホシウスは深く頷いた。
「母君は承諾してくださった。実は、すぐにでも祝言をあげようとしたんだが、ちょうどセルトの進軍が始まり、ラギスが生きているという噂を耳にした。それが本当なら、家長の赦しをえねばなるまいと思った次第だ」
 真摯な目を見て、ラギスは険を和らげた。筋を通そうとする、実直な男ではないか。
「そうか……うむ、そうだな……こんな話をできる日がくるとは……俺はてっきり皆、死んだと思っていた」
 ラギスの言葉に、ホシウスは重々しく頷いた。
「大勢死んだ。俺の家族も……俺は、皆の亡骸の下敷きになって、見つからずに済んだ。ラギスの父君は、最後まで守ってくれた。だから俺も、この命は仲間のために使うと決めていた」
 ラギスはホシウスをじっと見つめた。
「なぜ俺たちに支援を申しでた? セルトに恨みはないのか」
 そういうお前はどうなのだ。問うようにホシウスはラギスを見つめたあと、こう続けた。
「少年王の噂は耳にしていた。傀儡かいらいと思っていたが、摂政のバシリアから政権を奪い返した。さらにナガラ教の迫害を禁ずる発布はっぷを見て、考えを改めた」
 ラギスは頷いた。
 氷の美貌で知られる少年王は、自ら伯父を滅ぼしたあと、大驀進だいばくしんを遂げた。十五歳で初陣を飾り、瞬く間に、幾つも内乱を平定してみせた。
 神かりの連戦連勝もそうだが、彼の名声を高めた理由の一つに、宗教に寛容だったことがあげられる。
「若き王は前王と違う。戦も強い。セルトかアレッツィアかと訊かれたら、答えは決まっている」
 ホシウスの言葉の通り、前王は狂信的なレイール女神一神教の信者で、異教徒を容赦なく迫害したが、融通無碍ゆうずうむげなシェスラは共存を良しとしていた。
“私は人々の信仰を区別しない”という王の言葉は、広く人口に膾炙かいしゃしたのである。
 若く聡明つ勇敢で進取の気性に富んだ王ならば、傾きかけたセルト国の大廈たいかを支えられるのでは――多大な期待が寄せられたこともむべなるかな。
 厳しい渓谷にまで逃げた隠道士や信者たちは、シェスラの威光が増すにつれて、故郷に戻り始めた。
 ヤクソンもナガラ教徒が大勢いたので、生き残った者たちは、迫害を恐れて山奥へ逃れたという。そうして山の部族に溶けこみ、密かに暮らしてきたのだ。
「よく生きていてくれた」
 ラギスはホシウスの肩を力強く叩いた。
 里にいた頃から、ホシウスは戦意旺盛な月狼には珍しく、穏やかで、争いを好まぬ性質たちの男だった。親切で、とりわけ女子供に優しかった。今は頑健な躰に厳めしい髭面だが、本質は変わらない。良い男だ。アモネの良き夫になるだろう。
「ヤクソンの結束は不滅だ。友が助けを求めているのならば、俺たちは必ず応える」
 力強い言葉に、ラギスは感謝の意をこめて頭をさげた。全ての月狼がそうあるように、彼もまた有事に直面しては戦士となり、剣をとるのだ。
「母と妹を守ってくれて、ありがとう。婚儀の件は……アモネに話を聞いてから返事しても良いか?」
「もちろんだ」
 ホシウスは笑顔で頷いた。
 長らく語らい、空が白み始めた頃になって、ラギスは寝室へ戻った。
 格子天井に唐草模様の装飾を施されたこの部屋に、毛皮と天鵞絨びろうどを積み重ねた寝台のうえで、シェスラは眠っていた。
 彼は、眠る姿も美しかった。
 瑕瑾かきんすらない陶器のように白い肌、艶やかな白銀の毛並み。銀色の眉は弧を描き、同じ色をした長い睫毛は、目元に神秘的な陰影を落としている。まっすぐな鼻梁、官能的な曲線を描く桃色の唇……彼の美しさを形容するのに、ラギスの語彙ではいい尽せない。
 この男に関しては、天に憩う神々が創造したのだとしても、驚きはしないだろう。
 男の顔に興味などないが、シェスラだけは別だ。彼の寝顔なら、夜が明けるまで見ていられる気がする。
 褥に並んで寝そべり、ラギスはシェスラの白銀の髪を指で梳いた。長い髪は絡まることなく、さらさらとラギスの太い指の間をすり抜けていく。
 絹のような感触が心地よくて、ラギスは飽くことなく髪をもてあそんでいた。髪の幾条かを指に絡ませてはほどいて、銀色に煌く光を視線で追いかける。
 形の良い耳を撫でると、ぴくっと反応して、ラギスの指から逃げていった。
「……戻ったのか」
 寝起きの掠れ声でシェスラはいった。ラギスは、ああ、と短く答えて、なおも銀色の髪を梳いていた。と、シェスラは完全に目を開けてじっとラギスを見つめてきた。
「家族に会えて、良かったな」
 穏やかで優しい言葉に、ラギスはなにか思案するように、ちょっと間を置いて頷いた。それから静かに水晶の瞳を見つめ返した、
「ずっと心残りだったんだ。ビョーグの弔いしかできなかったことが……」
 彼が自分のことを話すのは珍しい。シェスラは身を起こして、聴きいる姿勢を整えた。ラギスは自分の手をじっと見つめた。
「あの時は、雪が積もって何も見えないから、とにかく手で掻いた。指先が血まみれになったけれど、やめられなかった」
 シェスラはラギスの指先をじっと見つめた。彼の爪は硬くて短い。指先までもが鋼のように硬くて、節くれだった戦士の手をしている。石のような指先を、シェスラはそっと口に含んで、舌で濡らした。言葉では慰めようもない過去の苦しみを、少しでも癒そうとして。ややして、指を抜いてから、
「その時、そなたの傍にいてやりたかった」
 起こり得ない話だ。だがラギスの心は慰められた。今は傍にいてくれるじゃないか……そういおうとして気恥ずかしくなり、別のことを口にした。
「お前に、身内はいないのか?」
「親しい血縁は全員死んだ。どうでも良い縁戚は大勢いるがな」
「そうか……」
 シェスラは身じろいで、ラギスの胸に頬を寄せた。
「……母は、頑是ない子供の私を愛し導いて、道理を教えてくれた。私はその教えを守り、敬おうとしたが、母が亡くなってからは考えを改めた」
「なぜだ」
「母は私を庇って死んだ。慈悲深い者は、野心ある者に奪われる。生殺与奪を握るのは、いつの時代でも強者だ。だから私は、奪われる側ではなく、奪う側でいようと決めた。……今は少し違うがな」
 シェスラがこうして、過去を披瀝ひれきするのは始めてかもしれない。思わずラギスはシェスラの顔を覗きこんだが、彼は静かに目を閉じていた。ラギスはシェスラの肩を撫でてやりながら、
「……俺の兄も、俺を庇って死んだ。あんなに良い兄さんを、どうして助けてくれなかったのかと、永いこと女神には不満ばかりぶつけていたが……今夜ばかりは感謝をせねばなるまい。お前にも」
 シェスラは目を閉じたままだったが、唇を優しく笑みに和らげた。
 この時ラギスは、ふと思った。この男にいつか家族を作ってやりたいと。自分がそのような発想に至るとは思いもよらなかったが、悪くない考えだと思った。シェスラの腕を撫でてやりながら、耳に唇を押し当てた。
「お前はよくやっているよ」
 シェスラは一瞬身を強張らせ、それから弛緩させた。衝動的にか、ラギスの胸のシャツをぐっと握りしめた。
「お前は、俺をここまで連れてきてくれた」
 今度は俺が、お前のいきたいところまで連れていってやろう――そういおうとして、こころよい睡魔に襲われ始めた。
 感動のあとの精神的虚脱、興奮の反動が眠気を招いたのだろう。
 身を横たえて目を閉じると、今度はシェスラがラギスの髪を撫で始めた。
「そなたの母君と妹に会えて、私も本当に嬉しい。ラギスの身内だと思うと、我が家族のように感じるのだ」
 ラギスは頷いた。返事をしようと思うが、温かく抱かれ、我にもあらずまどろみかけていた。
「そなた、アモネとホシウスが恋仲だと気づいていたか? いおうか迷ったが、そなたがアモネの演奏にあまりに聴きいっているのでな……」
 シェスラが小さく笑う。ラギスが喋らなくなると、慈しむように額に唇を落とした。
 髪を優しく梳かれて、頬やこめかみに口づけを送られると、自分が巨漢の剣闘士ではなく、愛玩される小動物にでもなったような気分になる。
 だが悪くない。
 深い安心感に包まれ、優しい手の虜になって筋肉が弛緩していく。間もなくラギスは意識を手放した。