月狼聖杯記

11章:神の坐す山 - 6 -

 星暦五〇三年十一月二十五日。行軍五十五日目。
 標高六七〇〇メートル。早暁。
 まだ空は暗く、北東に見えるネヴァール頂上の向こう側の空が、うっすらと青くなっていくのが判る。はじめはだいだいの光が射し、その周囲が少しずつ青に染められていく。
 活動するにはまだ早いが、輜重しちょう確保を急ぐために、隊伍たいごは調えられた。
 将兵らの頭上には、素晴らしい星空の天蓋が広がっている。
 高所から見る夜空は、てがないほど広い。
 夜でも煌々こうこうと篝火の炊かれている不沈城グラン・ディオでは、まずお目にかかれない星空だ。落ちてこんばかりの星が空にかれ、宇宙にいるような心地を味わう。
 星空の下、ラギスは、落ち着かない気持ちでいた。
 胸から下げた革袋をあけて、ビョーグの耳飾りをそっととりだした。夜空の頂からあふれる月光にかざせば、涙滴型の美しい形をした、二つの石がきらりと光る。
(ビョーグ……母と妹は本当に生きているのだろうか?)
 里へ向かうみちみち、ヤクソンの記憶の一部始終を、本を開くように思いだしていた。
 元気だった頃の母、アッカラの優しい笑顔。あどけない妹を高い高いしてやった自分。アモネは無邪気な声で楽しそうに笑っていた。年の離れた妹を、家族全員でかわいがっていた。
 あの頃は幸せに満ちていた……
 朝陽が昇る頃、白銀の樹間このま雪洞ぼんぼりのような明かりが揺れて見えてきた。
 集落の篝火だ。
 何もかもが真っ白いので分かり辛いが、峨久ががたるいわを背に、家屋が点在している。どの家も半分ほど雪に埋まっており、窓から溢れる明かりがなければ、完全に雪景色と同化してしまっている。
 このような物凄い高所に、集落があるとは思えなかったが、確かに月狼が住んでいるようだ。極限世界でも力強く生い茂るもみの樹が、彼らの暮らしを支えているのかもしれない。
 間もなく、集落の者が角燈を手に迎えにやってきた。誰もが山岳部族特有の仮面をつけているが、先頭の大柄な男はつけていない。彼が族長だろう。毛皮の外套に帽子、腰に反りをうった偃月刀えんげつとうを履いている。
「よくきてくれた」
 族長は、深い緑の瞳を和ませていった。
 彼は先ず、集落の男たちに食料の補給を指示した。これで助かる――インディゴを始めとする各隊の将校は、居住まいを正し、深々と頭をさげた。
 輜重しちょうの監督はインディゴに任せ、シェスラとラギスは、族長の屋敷に招待された。
 質素ながら、よく磨かれた民芸風の調度に、郷愁を喚び醒まされた。壁にはナガラ教の聖旗や、占星具が飾られている。少し前までは迫害の対象だったが……と、ラギスがさりげなくシェスラを盗み見ると、彼は気にした風もなく寛いでいた。
 気を張り詰めていたラギスもなんだか毒気を抜かれ、所在投げに杯を傾けた。
 部屋に、仮面をつけた男が入ってきた。ラギスは緊張を漲らせたが、男がその仮面を外した時、奇妙な既視感に包まれた。
 見覚えのある顔だ。なかなか漢気のある、生真面目な印象の……
「久しいな、ラギス」
 耳に懐かしい、ヤクソン訛りの語尾でいった。ラギスは目を瞠った。男の目にじっと目を注ぐ。この男は、まさか――
「……ホシウス?」
「そうだ。俺はヤクソンの生まれだ。あの日・・・、貴方の父君に命を救われて生き延びることができた」
「生きていたのか!」
 ラギスは驚嘆の声をあげた。
「あなたの母君と妹も、生きている」
「!」
 息をのんだラギスは、本当か? 絞りだすような声で訊ねた。
「ああ。この集落にいる」
「会えるだろうか?」
 ホシウスは笑みを深めた。
「もちろんだ。二人も会いたがっている」
 呼ばれてやってきた二人を見、ラギスの四肢が震えた。
 皺の増えた母の隣に、優しい面差しのほっそりした若い娘がいる。アモネなのか。母の腕に抱かれていた幼い妹は、すっかり年頃の娘に変貌していた。深緑に精緻な刺繍の施された民族風の衣装に身を包み、焦げ茶の長い髪を左右に編み込んで垂らしている。
 記憶のなかで何遍も再生してきた朧な輪郭が、今はっきりと、ラギスの目の前にある。
 と、二人の金色の瞳がみるみる潤んだ。手を伸ばしてくる母をみて、ラギスも思わず手を伸ばし、二人ごと抱きしめた。
「ラギス……会いたかったよ」
 しゃがれた母の声に、心臓を鷲掴みにされた。あの大火事で喉を傷めたのだろう。百も二百も生きた老婆のような声だった。
 ラギスは、二人を両腕にかき抱いた。二人の暖かさが、ラギスの胸を穿った。説明しようのない感動でいっぱいだった。燃えるような、胸苦しいほどの感動だった。
(生きていてくれた)
 首からさげた小袋が熱を持った気がして、思わず握りしめた。目の錯覚なのか、一瞬、二人の背後にほほえむビョーグと、父の姿を見た気がした。
 ――ラギス、母さんとアモネを頼んだよ
 幻の声が脳裏に蘇り、万感こもごも胸にせまる激情に、ラギスは目を瞑った。
「嗚呼っ」
 喉奥から嗚咽を漏らした。
 ビョーグの弔いしかできなかったことが、ずっと心残りだった。あの日、朝まで探したけれど父と母、妹の亡骸は見つけられなかった。もしかしたら、無事でいてくれるかもしれない、一縷いちるの望みを託しつつ、奴隷として連れていかれたあとは、身動きがとれずに失意に沈んだ。
 いつか絶対に戻ってこようと心に誓っていた。
 戦が終ったら、供養にヤクソンを訪れるつもりでいたが、まさか生きて再び会えるとは思ってもみなかった。
 小さい頃、母の腕は暖かく、いつでもラギスを包みこんでくれた。大柄なひとだと思っていたが、今こうして腕に抱いていると、信じられないほど小さく感じる。しがみついてくる腕の細さに、流れた月日を思い、新たな涙が盛りあがった。
 傍で守ってやらねばならなかったのに、十七年もの間、何もできなかった。女手一つで、小さなアモネを養っていくのは、どれほどの苦労があったことだろう!
「お兄さん、私、アモネです。ようやく会えました」
 アモネは涙に濡れた顔をあげて、ラギスに笑みかけた。母に似た優しい面差し、素顔の美しさよ。ラギスとは似ても似つかぬ美人だが、目元は少し似ている。同じ金色の虹彩が涙に濡れて、煌めいている。
 成長したアモネの姿が眩しくて、幼いアモネを立派に育てた母が誇らしくて、力になれずにいた不甲斐ない我が身が口惜しくて、様々な感情が渦巻いて、躰のなかで沸騰し、ラギスの目頭は燃えるように熱くなった。
 ――生きていてくれた!
 ようやく会えたこの二人のためならば、ラギスはどんなことでもするだろう。
 めぐり合わせてくれた天の配慮に、感謝しなければならないだろう。今この瞬間、どうしても、嗚咽をこらえることができなかった。涙が滾々と溢れる。
「すまない、ずっと会いにいけなくて、すまない……っ」
 母とアモネはしきりに首を振った。もう、言葉にならなかった。
 奔流にも似た時代の激動のなかで、こうして再会できたことは奇跡に等しい。今日まで、歯を食いしばって生き延びてきた苦労が、全て報われた気がした。
 ホシウスは、ようやく再会をはたした三人のために、人払いのされた客間を貸してくれた。ラギスたちは温かい配慮に感謝しつつ、部屋へ入った。
 扉は、鉄のびょうを一面に打ちこんだ頑丈な樫材で、なかは広く、簡素ながら全ての燭台に火が灯され、大きな暖炉にも白樺薪たきぎがくべられ、居心地よく温められていた。
 三人は暖炉の前に座り、お互いの身の上話をした。
 これまでどんな風に暮らしてきたのかを教え、聞く方は相槌を挟みながら、熱心に耳を傾けた。
 ラギスが、ビョーグの形見を見せると、母は目を瞠った。震える指をのばし、それに触れて、滂沱ぼうだの涙をこぼした。耳飾りは母の手作りだった。
「ビョーグ、ビョーグ……ッ」
 細い嗄れた声で兄を呼ぶ声に、ラギスもアモネも涙せずにはいられなかった。
 あの焼き討ちを逃れたあと、母は大変な苦労をしたろうに、愚痴らしき愚痴は一言もこぼさなかった。様々な人に助けられたのだと、感謝を口にするばかり。ラギスは母の苦労をみんな聞いてやりたかったが、皺のよった温かい手で、肩や腕をさすられると、無理に聞きだそうとは思えなかった。ただただ頭がさがる思いがした。
「俺が不沈城グラン・ディオに召しあげられた経緯は知っているか?」
 母とアモネはおずおずと頷いた。
「大王さまが兄さんの試合をご覧になって、その勇猛果敢な闘いぶりをよみされて、直接お声をかけられたと聞いています」 
 アモネはきらきらした瞳でいった。
 実際は試合などではなまぬるい、殺戮の見世物だったが、ラギスは黙って頷くに留めた。
 奴隷剣闘士の過酷さや、不沈城グラン・ディオに召しあげられた往時の苦労や屈辱を、そっくりそのまま二人に聞かせようとは思わなかった。
 ただ今は、シェスラを月狼の王として、伴侶として認めており、聖杯の身を受け入れている。この軍旅にも自分の意思でついてきたことを伝えた。
 仔細を聞かせるには、お互いに、もうしばらく時間が必要だった。生きていれば、そのうち、胸の内を明かすこともあるだろう。
 今はただ、生きているというだけで、胸がいっぱいだった。
 ラギスたちが族長のに戻ると、皆は暖かな表情で迎えてくれた。
 下座にいこうとする母と妹を、ラギスは傍に座らせた。二人は恐縮しきりで、
「お目もじできて光栄に存じます、大王様。何なりと、仰せの通りに……」
 と、額づこうとするので、よせよせ、とラギスは腕をとってやめさせた。すっかり緊張している二人に、シェスラは思いのこもった眼差しを向けた。
「温かいもてなしに感謝する。二人に会えて嬉しく思う」
 母とアモネは真っ赤になった。あまりにも美しい月狼の王アルファングに、心を奪われていることは一目瞭然だった。
 ラギスは咳払いし、シェスラをちらと見てから、母とアモネの顔を見た。
「俺のつがい、シェスラだ」
 その言葉に、二人が驚いたことはもちろん、どういうわけかシェスラもちょっと意外そうな顔でラギスを見つめてきた。
 視線が集まり、えへん、とラギスはもう一度咳払いした。
「俺の母、アッカラと、妹のアモネだ」
 ラギスの言葉に、シェスラは笑みを深めた。優しく目を細めて、二人に視線を向ける。
「ラギスは私の大切なつがいだ。故郷をずっと想っていた。二人が生きていてくれて、本当に良かった」
 シェスラが思いのこもった声でいうと、母とアモネは、感極まってまたしても額づいた。よせよせ、とラギスが腕をとるも、母は泣き崩れていた。
「お前が生きていてくれて、大王様に想われて、こんなに嬉しいことはないよ……っ」
 殆ど聞き取れぬ声で咽び泣く母に、ラギスは驚かされた。母は、シェスラへの敬慕から涙を溢れさせたのだと思ったが、そうではなく、ラギスを想って泣いているのだ。
 心が震えて、ラギスの瞼も熱くなった。
 シェスラは慈愛に満ちた眼差しでラギスと、その家族とを見やり、母の背に優しく掌を置いた。
「ラギスの家族は、私の家族でもある。困ったことがあれば、いつでも力になると約束しよう」
 母の涙は止まらなくなった。おいおいと泣き崩れ、その母を慰めながらアモネも泣いてしまい、ラギスも視界が潤みかけたが、唇をひき結んでこらえた。
 最高の夜だった。
 ホシウスやその家人らは、悠揚ゆうゆう迫らぬ態度と礼儀正しさで、慎ましい暮らしながら、精一杯の料理でもてなした。
 炉に吊るしたしぎの鍋料理、茱萸ぐみのソースをかけた山女魚やまめ、子牛の葡萄酒の煮こみ、角牛の炙り焼きといった、素晴らしいご馳走が供された。
 母は喋らないが、にこにこと穏やかな表情で、皿を手渡したり、手の汚れを拭う手巾をよこしたり、細やかな気遣いを見せる。
 目があうたびに、にこにこと笑みを浮かべ、美味しい?と眼差しで問いかけてくる。
 アモネも面映ゆそうに尾を揺らしながら、ラギスの傍で勺をしてくれる。
 ありふれた家常茶飯かじょうさはんのことだ。どこの家でも日常的にかわされるであろう、ささいなこと。単純なこと……けれどもラギスは、感動と哀切、悲喜こもごもの激情に全身がしびれるような思いを味わった。それも、いうにいわれぬ安堵と幸福感の方が遥かに勝っていた。
 あの遠い過ぎし日、無邪気な幼少時にもなかった、喜びと感動とを噛み締めていた。
 食後の団欒だんらんに、アモネが木彫りの手風琴を聴かせてくれた。
 優しい音色に耳を澄ませながら、ラギスの心は、永久とこしえに美しい故郷、ヤクソンの森を彷徨った。
 演奏の合間に、アモネとホシウスの間で、秘密めいた視線が素早く交わされたことに、シェスラは気がついた。おや、と思って隣をうかがうと、ラギスはいつになく柔らかな表情で目を閉じていた。
 おやおや、これは……彼が知った時の反応を思って、シェスラは僅かに口角をあげるのだった。