月狼聖杯記
11章:神の坐す山 - 5 -
星暦五〇三年十一月二十三日。行軍五十三日目。
標高六一〇〇メートル。
氷点下四十度の、氷に鎖 された世界。
前人未到の想像を絶する過酷な世界で、死は常に隣に潜んでいる。凍てつく強風が吹きすさび、地獄の裂け目のような氷河の穴があちこちに口を開けている。
一歩を踏み誤れば命はない。
事実、雪に覆われた氷の裂け目に、何人かが落ちてそのまま戻らなかった。
空気は希薄で、手脚が動かなくなることもある。足を滑らせ、心臓が破裂しそうなほど脈打たせ、こんなはずじゃなかった、なぜ、こんなにも辛い思いをして攀 っているのだろう?
なぜこのような場所へ――
根本的な疑問が芽生え、様々な想いが錯綜 する。
ここへくる前の穏やかな暮らし。家族や恋人の優しい笑顔、笑い声。暖炉の灯された温かな家。美味しい料理、寝る前の一杯……走馬灯のように駆け巡る。
だが考えている暇はない。
仲間の背中を見て、自分も一歩を踏みだす。歩き続ける。
誰の足跡も道標もない雪山を、覚悟を決めて、生来の直感を頼りに突破していく。限界を超えた力が試される。
頑健なラギスは、夜の獣化を買ってでた。外気に面する端を陣取り、皆の風よけになってやるのだ。
交代で月狼の姿になり、仲間を風から護る壁になった。交代したあとは、火酒を燃料代わりに煽り、体温低下から身を守った。
それでも、寒さにやられて死ぬ者がいた。
雪山では、弱い者から死んでいくのだ。
特に若い兵士のなかには、眠ったまま目を醒まさない者が少なくなかった。
夜は息があったのに、朝には冷たくなる仲間を見ると、憤懣 やるかたない気持ちにさせられた。
弔いはできない。
行軍を引き返すことはできないので、屍体はその場に残されていく。
進むしかない。
歯を噛み締めながら攀 っていく。
息絶えた仲間を残し、休んでは進み、進んでは休む。
負けてたまるかという矜持。
得体の知れぬ闘争心。
何と闘っているのか。
判らない――強いていうなら、月狼の意地だ。
本能に衝き動かされ、体力を消耗しながら、一歩、また一歩を踏みだす。
己の体重を運んでいく。
その作業には、途方もない体力、そして強靭な精神力も要求される。
これが冬のネヴァール山脈。
魔物の棲む霊峰。
過酷な行軍にラギスは耐えていたが、それでも雨風を防ぐ屋根と壁と、一応の寝床があった奴隷宿舎の方が、いくらかマシだと愚痴をいいたい気持ちにはさせられた。
だが、この先に待っているであろう家族を思うと、疲弊した躰に力が漲るのを感じるのだった。
期待し過ぎてはいけない。落胆に打ちのめされないように――
自戒しても、やはり期待は膨らむ。凍える登攀で、秘境にいるかもしれぬ家族の存在は、渇望ともいえる希望の光だった。
灯火は小さいが、温かく、眩 い。
だが、先ずは無事に辿り着くことだ。
行軍を再開してしばらく、また吹雪に阻まれた。
小休止になり、全員が疲れたように荷をおろした。
総司令官であるシェスラも、冷えた飯を喉に流しこみ、一兵卒と同じに崖下で仮眠をとった。
過酷な状況に等しく全員が晒されているが、彼だけには、他の者にはない全軍指揮の圧と責任ものしかかっていた。
眠りは誰よりも少なく、浅い。
比較的、まとまった時間眠っていられる時は、月狼の姿でラギスの傍にうずくまることもあった。
その夜もそうだった。
豪雪の狭間に沈んだ谷は、暗闇に沈んでいる。音すらも吹雪に呑まれて、何も聴こえない。
浅い眠りのなかにいたラギスは、心地いい温もりを感じて、自らすり寄った。芳しい香りに意識を呼び起こされ、うっすら目を開けると、柔らかな白銀毛に包まれていた。
「……ん?」
前脚に頭を乗せているシェスラが、ねぼけ眼のラギスを見つめている。
ふっ、
と、月狼の王は微笑し、首を伸ばして、無精髭の生えた頬をぺろりと舐めた。
「?」
親しみに満ちた仕草に、頬を舐めた相手が誰なのか、一瞬、ラギスは忘れかけた。
「“……すまない、起こしたか?”」
「いや……何かあったのか?」
日中シェスラは、側近らと慎重に行路を講じていた。当初の予定を変更して、高山の秘境へ向かっているため、誰も正確な道を知らないのだ。上層部の真剣な様子は、全将兵らにも伝わっていた。
「“問題ない。眠っていて良い……歩き通しで、疲れただろう”」
「あんたもだろう。どうだ、里への道は問題ないか?」
ラギスは頭を起こして訊ねた。
「“うむ、あと二日もすればアガの里に着くだろう”」
「そうか……」
安堵したラギスは、肩の力を抜いた。
「“心配するな。眠れ”」
「……おう」
ラギスは頷いて、頭をさげた。シェスラの胸のあたり、一番柔らかな銀毛に顔をうずめる。
「あったけぇな、シェスラ……」
寝そべったまま白銀の毛並みを撫でてやると、シェスラは四肢から力を抜き、ラギスの頬をぺろりと舐めた。長い尾が、子をあやすようにラギスの身体を優しく撫でた。
標高六一〇〇メートル。
氷点下四十度の、氷に
前人未到の想像を絶する過酷な世界で、死は常に隣に潜んでいる。凍てつく強風が吹きすさび、地獄の裂け目のような氷河の穴があちこちに口を開けている。
一歩を踏み誤れば命はない。
事実、雪に覆われた氷の裂け目に、何人かが落ちてそのまま戻らなかった。
空気は希薄で、手脚が動かなくなることもある。足を滑らせ、心臓が破裂しそうなほど脈打たせ、こんなはずじゃなかった、なぜ、こんなにも辛い思いをして
なぜこのような場所へ――
根本的な疑問が芽生え、様々な想いが
ここへくる前の穏やかな暮らし。家族や恋人の優しい笑顔、笑い声。暖炉の灯された温かな家。美味しい料理、寝る前の一杯……走馬灯のように駆け巡る。
だが考えている暇はない。
仲間の背中を見て、自分も一歩を踏みだす。歩き続ける。
誰の足跡も道標もない雪山を、覚悟を決めて、生来の直感を頼りに突破していく。限界を超えた力が試される。
頑健なラギスは、夜の獣化を買ってでた。外気に面する端を陣取り、皆の風よけになってやるのだ。
交代で月狼の姿になり、仲間を風から護る壁になった。交代したあとは、火酒を燃料代わりに煽り、体温低下から身を守った。
それでも、寒さにやられて死ぬ者がいた。
雪山では、弱い者から死んでいくのだ。
特に若い兵士のなかには、眠ったまま目を醒まさない者が少なくなかった。
夜は息があったのに、朝には冷たくなる仲間を見ると、
弔いはできない。
行軍を引き返すことはできないので、屍体はその場に残されていく。
進むしかない。
歯を噛み締めながら
息絶えた仲間を残し、休んでは進み、進んでは休む。
負けてたまるかという矜持。
得体の知れぬ闘争心。
何と闘っているのか。
判らない――強いていうなら、月狼の意地だ。
本能に衝き動かされ、体力を消耗しながら、一歩、また一歩を踏みだす。
己の体重を運んでいく。
その作業には、途方もない体力、そして強靭な精神力も要求される。
これが冬のネヴァール山脈。
魔物の棲む霊峰。
過酷な行軍にラギスは耐えていたが、それでも雨風を防ぐ屋根と壁と、一応の寝床があった奴隷宿舎の方が、いくらかマシだと愚痴をいいたい気持ちにはさせられた。
だが、この先に待っているであろう家族を思うと、疲弊した躰に力が漲るのを感じるのだった。
期待し過ぎてはいけない。落胆に打ちのめされないように――
自戒しても、やはり期待は膨らむ。凍える登攀で、秘境にいるかもしれぬ家族の存在は、渇望ともいえる希望の光だった。
灯火は小さいが、温かく、
だが、先ずは無事に辿り着くことだ。
行軍を再開してしばらく、また吹雪に阻まれた。
小休止になり、全員が疲れたように荷をおろした。
総司令官であるシェスラも、冷えた飯を喉に流しこみ、一兵卒と同じに崖下で仮眠をとった。
過酷な状況に等しく全員が晒されているが、彼だけには、他の者にはない全軍指揮の圧と責任ものしかかっていた。
眠りは誰よりも少なく、浅い。
比較的、まとまった時間眠っていられる時は、月狼の姿でラギスの傍にうずくまることもあった。
その夜もそうだった。
豪雪の狭間に沈んだ谷は、暗闇に沈んでいる。音すらも吹雪に呑まれて、何も聴こえない。
浅い眠りのなかにいたラギスは、心地いい温もりを感じて、自らすり寄った。芳しい香りに意識を呼び起こされ、うっすら目を開けると、柔らかな白銀毛に包まれていた。
「……ん?」
前脚に頭を乗せているシェスラが、ねぼけ眼のラギスを見つめている。
ふっ、
と、月狼の王は微笑し、首を伸ばして、無精髭の生えた頬をぺろりと舐めた。
「?」
親しみに満ちた仕草に、頬を舐めた相手が誰なのか、一瞬、ラギスは忘れかけた。
「“……すまない、起こしたか?”」
「いや……何かあったのか?」
日中シェスラは、側近らと慎重に行路を講じていた。当初の予定を変更して、高山の秘境へ向かっているため、誰も正確な道を知らないのだ。上層部の真剣な様子は、全将兵らにも伝わっていた。
「“問題ない。眠っていて良い……歩き通しで、疲れただろう”」
「あんたもだろう。どうだ、里への道は問題ないか?」
ラギスは頭を起こして訊ねた。
「“うむ、あと二日もすればアガの里に着くだろう”」
「そうか……」
安堵したラギスは、肩の力を抜いた。
「“心配するな。眠れ”」
「……おう」
ラギスは頷いて、頭をさげた。シェスラの胸のあたり、一番柔らかな銀毛に顔をうずめる。
「あったけぇな、シェスラ……」
寝そべったまま白銀の毛並みを撫でてやると、シェスラは四肢から力を抜き、ラギスの頬をぺろりと舐めた。長い尾が、子をあやすようにラギスの身体を優しく撫でた。