月狼聖杯記

11章:神の坐す山 - 2 -

 生還から二日後。
 沈痛催眠を投薬されていたヴィシャスは、寝台のうえで目を醒ました。手厚い看護が功を奏し、危険な峠を越えたのだ。発熱は続いているものの、回復に向かっている。
 彼は起きて先ず、シェスラの幕舎ばくしゃに赴き、ラギスに働いた無礼と滑落に巻きこんでしまったことを謝罪した。そして言葉をちょっと躊躇い、霊液サクリアを授かったこと、命をして氷の絶壁を攀ってくれたことを包み隠さず話した。
「いかようにも厳罰をお受けいたします」
 深々と頭をさげて、ヴィシャスはいった。
「ほぅ? 除隊を命じたら、そうすると?」
 悠然と座すシェスラが意地悪く訊くと、ヴィシャスは沈痛な表情を浮かべた。瞑目し、項垂れる。いたしかたがないというように、反駁はんばくもせず悲しげに耳を伏せて。
 傍に控えている乳兄弟も、心配そうにその様子を見守っている。
 重苦しい沈黙のなか、シェスラは跪く忠実な騎士をじっと眺めおろした。
「私の選んだ聖杯に不満があるというのなら、これまでだ。どこへなりともいくがいい」
 ヴィシャスは顔をあげた。
「我が大王きみから離れて、生きる喜びなどありましょうか。どうぞいつまでも、お傍に置いてくださいませ。貴方様にお仕えすることこそ、私の宿願であります。ラギスさまにも忠をもってお仕えすることを誓います」
 シェスラは口角をあげた。その答えを知っていたかのように。
「よく戻った」
 たった一言だが、声には優しさが滲んでいた。
 成り行きを見守っていたアレクセイとラファエルも、ほっと安堵したように、表情を和らげた。
 涙が、ヴィシャスの頬を流れた。生甲斐のある喜びが激しく胸に溢れ、言葉にならなかった。額を足元に敷かれた毛織織物に埋めるほど、深く、ぴったりと平伏した。
 生まれた時から続く主従の心は、強い。
 相容れぬことが起きても、金継きんつぎをするように修復され、今日の彼等がある。

 明くる星暦五〇三年十一月十七日、セルトを立ってから四十七日。軍旅は再開された。
 一行は高度を緩やかにあげつつ、進んでいた。予定外の進路変更は、失った輜重しちょうの補給のため、後続部隊と合流するのだろうと兵士らは思っているが、詳細は明かされていない。
 遠回りは誰にとっても面倒なものだが、今回ばかりは仕方がないと文句もでなかった。
 しかし、別の方面で不満がでた。ラギスの生還を喜ぶ者がいる一方で、舌打ちをする者が一定数いたのである。
 特に麓の擾乱じょうらんで目をつけられ、登攀組に配属された傭兵部隊は、決闘の件を根に持っており、邪魔者が戻ってきやがったとうそぶいた。
 悪口雑言あっこうぞうごんは、次第に陰湿な嫌がらせにまで発展し、いつも陽気なラギスの連隊には、憂鬱のかげがあった。
 ラギスを侮蔑視している傭兵は、彼を見かけるとわざわざ傍にやってきて、
「かわいそうになぁ。黒狼隊は、掠奪禁止なんだろ? 自分たちは闘技場で殺しまくっていたくせに、お貴族さまみたいに、私闘厳禁なんざ笑えるぜ」
 憫笑びんしょうと嘲笑を向けられ、ラギスのこめかみに青筋が走る。ぶん殴ってやりたいが、謹慎明けだぞ、と自制が働いた。悪罵あくばをぐっとこらえ、無言で通り過ぎる。
 しかし、ラギスの忍耐は頻繁に試された。
 悪意は伝播でんぱするもので、一人が罵倒を始めると、他も調子づいて、追従ついしょう的な態度をとる。
 元より、ラギスの毀誉褒貶きよほうへんは極端で、ネロア防衛での獅子奮迅ぶりを知る者は敬意を示すが、そうでない者からは、騎士たちの間でもそしる声の方が高かった。
 敵愾心てきがいしんを煽るラギスの荒い気性もることながら、シェスラからの君寵が、他の騎士らの嫉視を買っていたのだ。
 陰口ごときに怯むラギスではないが、連隊の仲間にまで飛び火すると、無視することもできなかった。
 気に病んだラギスは、隊員を呼び集め、頭をさげるにまで至った。
「他の連中に、俺ばかりでなく、お前たちまで馬鹿にされているのは知っている。俺の浅慮がいけなかった」
 ラギスの謝罪に、とんでもない、とジリアンは憤慨した。
「ラギス様のせいではありません! 浅慮は向こうでございましょう」
「俺もそう思うが、これでは軍旅もやり辛いだろう。何かあれば、俺を呼んでくれ。話の引き合いにだしてくれてもいい、俺は一向に構わねぇから」
 ラギスの言葉に、違うぞ、と今度はロキが口を挟んだ。
「隊の問題は、全員の問題だ。お前一人を矢面に立たせて、それで良しということじゃない。ああいう手合いは、放っておけばいいんだ。どうせ戦争が終れば、傭兵混成部隊も解散するんだから」
 ウンウン、と皆が頷いた。
「我が大王きみの特別待遇だと妬んでいる者も、ラピニシアの闘いが終わったあとでは、態度を改めることでしょう」
 グレイヴの言葉に、ウンウン、と今度も皆が頷いた。
 ラギスは皆の理解に感謝しつつ、頭を掻いた。今回ばかりは、自分の不器用さが悔しかった。
「悪ぃな、俺は融通の利かない上官かもしれん。そもそも、上官って柄じゃねぇしよ。けど俺は、掠奪は絶対にやらねぇ。俺の連隊にも許さねぇ。帰ったら、俺の奢りで擾乱じょうらんを許すから、つきあってくれねぇか」
 皆の顔が耀いた。
「貴方にお仕えできることを、心から誇りに思います」
 ジリアンは翡翠の眸を煌めかせていった。
「いったな。帰ったら、お前の金で破産するほど飲んでやる!」
 と、ロキが高笑いを放ち、周囲の笑いを誘った。
 明るい笑い声が冬の木立に反響する。
 心にいとが張られていく。
 生まれも育ちもまるで違う集まりだが、この瞬間、一つ屋根の下に生をけた者同士のような、強烈な連帯感に結ばれていた。
 結成間もない黒狼隊は、この時こそ軟弱とそしりを受けるが、いずれ――光りを放つ連隊となる。