月狼聖杯記

10章:背負うもの - 8 -

 雪崩により、貴重な輜重しちょう隊の半数近くが谷底へ消えた。
 運の悪いことに、縄で連結されていた十数基が共倒れになり、しかも積んであった荷が麦酒の樽や腸詰だったので、将兵らの意気は沈んだ。
 だが真の問題は、輜重しちょうなどではなかった。
 シェスラは凝然ぎょうぜんとして、滑落した氷の断崖を眺めおろしていた。
 部下の声にも応じず、断崖の底のかすかな音を拾おうとするように、耳をそばだている。
 貴重な時間は刻一刻と過ぎていく。今すぐ被害状況を把握し――行軍に支障をきたさぬよう修正を――すべきことは山とあるのに、秩序立って考えられない。
 霊感を巡らせ、精神感応を試みるが、ラギスの息吹を感じられず、手脚が凍っていくように感じられた。
 氷の絶壁は闇に吸いこまれ、何も見透せない。
 何も。
 吹きさらしの空間から、ラギスの助けを求める声が聴こえるような気がする。
 難度の高い冬季登攀。高山障害、疲弊、滑落、攀るにつれて苛烈さを増していった。幾多の困難に見舞われた。想定していたことだ。
 だが、ラギスを失うことだけは念頭になかった。
 彼だけは、絶対に、何があっても、隣にいると信じていた。
 最期に見た、ラギスの拒絶の顔を思い浮かべ、シェスラは、胸をめつけられるような息苦しさを感じた。
(――違う。あれが最期になるものか。ラギスが死ぬわけがない。ふたりとも、生きている)
 殆どいいきかせるように、心のうちで呟く。
 顔をあげた時、隣でアレクセイも呆然と奈落の底を覗きこんでいることに気がついた。
 目と目が遭う。
 お互いの顔に、その時感じていた不安と苦痛が、そのまま顕れていた。
 シェスラはアレクセイの肩に手を乗せた。するとアレクセイも、シェスラの背中に掌を押し当てた。言葉にしても効果のない、慰めと友情の仕草だった。
 ややして、シェスラは顔をあげた。
「二人共生きている」
 確信めいた口調で呟くと、アレクセイも頷いた。
「ええ。二人を探しましょう」
 心に焔が灯った。
 瞳にかがやきが戻ったのを確かめて、二人は殆ど同時に、部下を振り向いた。
 彼等も悄然しょうぜんと肩を落とし、世界のどん詰まりに堕ちたような顔をしていた。
 だが、凛と気高い王の顔を見て、はっと目を瞠った。
「足場の確保を急げ。天幕を張れる場所を探すのだ。各隊から被害状況を伝えさせよ」
 威風堂々と命じる主君を前に、将兵らも表情を引き締めた。
「道標となる篝火を焚け。ラギスとヴィシャスは生きている。二人を探すぞ」
「御意」
 彼等は、敬礼をすると的確に動き始めた。
 指示をだしながらシェスラは、燃料と物資が深刻な被害を受けたであろうことを予感していた。
 標高五〇〇〇メートルの高地で、食料が潰えれば死に直結する。
 それでもシェスラは、一片の躊躇なく、行軍を止める決断をくだした。
 彼は、占星術士のアミラダを自分の幕舎に呼び、二人の行方を占わせた。
 やってきたアミラダは、清めの香を焚き、錦紗きんしゃの布を敷いて水晶球を置いた。
 古いまじないの言葉を唱えれば、水晶のなかに囁きかけるような神秘の光が瞬いた。
「……幽かですが、二人の気配を感じます。はっきり読めないのは、身を隠しているのかもしれませぬ」
 固唾を呑んで見守っていたシェスラは、その言葉に、いくらか緊張を緩めた。
 生きている。ラギスもヴィシャスも生きている。
「このあたりの高山には、岩窟の住居がある。滑落を免れて、運良く避難したのかもしれぬ」
 シェスラの言葉にアミラダも頷いた。
「あれは頑健な月狼です。強運の持ち主でもある。困難に見舞われても、星が導いてくれるでしょう……」
 そこで言葉を切ったアミラダは、おや、と意外そうな声でいった。
「我が大王きみ、この辺りに集落があるようです」
「このような高所にか」
「はい。そこに、ラギスにちかしい者がいるかもしれませぬ」
ちかしい者?」
 思いもよらぬ言葉に、シェスラは目を瞠った。
「ラギスを視ようとして、囁きを拾いました。よほど縁ある者なのでしょう……もしかしたら、血縁者かもしれませぬ」
「まことか? ヤクソンに生き延びた者がいるのか?」
 シェスラが地図を広げてアミラダをうかがうと、彼女は、大ぶりの宝石をはめた人さし指で場所を示した。
「なんとしたことか……」
 呟いて、シェスラは黙りこんだ。
 彼は、ラギスに出会ったあと、徹底的にヤクソンの焼き討ちについて調べていた。掠奪に走った官吏の名も突きとめ、どのようにして村が葬られたか、全容を把握していた。
 十七年前、ヤクソンは全滅したのだ。
 生き残りがいるとは、信じ難い……
 けれども、アミラダは稀代のまじない師。彼女が発する全ての言葉には、言霊ことだま神威かむいがある。
「我が大王きみ、これは山神の思し召しです。救援をお求めなさい。ラギスに縁ある集落であれば、輜重しちょうを分けてくれるでしょう」
 シェスラは、何もかもを見透す銀色の眸を見つめ返した。
 確かに、雪崩による輜重の損失は深刻で、どうにかして補給が必要だった。
 高度をさげて後続の輜重隊を待つ手もあるが、行軍が大幅に遅れてしまう。
「判った。先遣隊を送ろう。もし本当に、このような高所に集落があり、そこに住む人々が、我々の友となってくれるならばありがたい」
 シェスラはすぐに、数名の先遣隊を送りだした。
 すべきことを済ませて幕舎の外にでると、急造の野営には皓々こうこうたる火が炊かれていた。
 兵士たちは、怪我人の救出や、輜重の整備、慎重な足取りで崖を降りて、味方を探している。
 月狼に転じたシェスラは、断崖に近づいていった。
 その姿を見た側近たちは、同じく月狼の姿に変わり、王の後ろにつき従った。
 アレクセイ、ロキ、ジリアン、オルフェ、グレイブ……そのほか大勢の仲間たち。
 彼らは、崩れ落ちた断崖の縁にたち、吹雪く夜空を仰いだ。
 オォ――ン……
 オォ――ン……
 月狼の遠吠え。
 仲間を呼ぶ声。
 励ます声。
 躰に雪を降り積もらせながら、咆哮した。
(ラギス。無事に戻ってきてくれ。ラギス――)
 心に唱えながら、シェスラは不可視の捜査網を展開し、つがいの気配を探し続けた。