月狼聖杯記

10章:背負うもの - 9 -

 貪るように霊液サクリアを飲んだあと、ヴィシャスの意識は落ちた。
 その隙にラギスは、近くにあった木材家具を壊して板切れにし、折れた脚頸に添え木をして、絹布を巻きつけた。お世辞にも丁寧とはいえない手つきだったが、ヴィシャスは文句をいうことなく仰臥ぎょうがしていた。
 気を失っていて幸いしたかもしれない。目が醒めていたら、死にたくなるほどの激痛に呻いたことだろう。
 応急処置を終えたあと、ラギスは月狼に転じて、ヴィシャスの躰を包みこんだ。四肢が痛まぬよう、体温と毛皮を提供してやる。凍傷の前兆を帯びて変色し始めている指を、舐め、息をふきかけ、温めてやった。
 巌穴にちる静寂しじま
 じっと息を潜めていると、壁に、ほぼ一定の間隔で文字が刻まれていることに気がついた。
 名前だ。
 信仰に名を連ねる者たちの……寝室と思ったこの部屋は、霊廟れいびょうだったらしい。色彩は永い歳月のあいだに淡い色に変色している。
「“おう、墓場に困ることはなさそうだな”」
 と、ラギスは憎まれ口を叩いたが、ヴィシャスの呼吸は弱々しく、いい返してくることもなかった。
 高慢で気に食わない男だが、生きている者は温かい。今夜体温を失わなければ、きっと大丈夫だ。
 この時ラギスの脳裏に、十七年前に過ごした洞穴がった。
 あの時は、独りきりで震えていた。
 冷たくて、淋しくて、膝を抱えながら、憂愁と絶望に満ちた、白い焔の唸り声を聴いていた。不安に押し潰されぬよう、家族の無事を自分にいい聞かせながら……
 ビョーグのことを考えていると、彼と野をはしり回ったことが思いだされた。
 畑仕事や家畜の世話など、面倒なこともあったはずだが、追憶のなかでは楽しさは倍増される。
 無邪気に過ごせたあの頃が、これまでの人生で、一番楽しい時だったように感じる。
 安らかさと親しみに満ちた居心地の良い家で、毎日母の温かい料理を食べていた。
 母は手先の器用な女性で、団欒の場所には手製の毛織物が敷かれ、調度にかけられた全ての布には、繊細な刺繍が施されていた。
 在りし日の遠い記憶。父や兄と共に森に入り、大猪や鹿を仕留める緊張と昂奮とを、今も覚えている。美しい幽邃ゆうすいの森は、いつでもきらめく焔の高揚を与えてくれた。
 遥かなるヤクソンに心を飛ばしていると、不意に、幻聴が聴こえてきた。

 オォーン……オォーン……

 月狼の遠吠え。
 仲間を呼ぶ声。
 励ます声。
(探しているだろうか……)
 巌壁のなか、荒々しい心は鎮まり、夜闇と夢幻境のような静けさと、吹雪の音、かすかな月狼の声を聴いていた。
 そうするうちに、静かな反省と悔悟とに浸された。
 頭のなかで、シェスラの面影が蘇り、冷厳とした表情の奥に傷ついた心を隠し、ラギスをじっと見つめているように感じられた。
(……額面通りに受け取り、俺は意固地だったやもしれん)
 ラギスは心のうちでそう呟いた。
“約束する”
 シェスラの真意を崇高なものとして受け入れ、実現不可能なほどの高みを求めすぎていた。
 犠牲もなく、痛みもなく、全てがラギスの都合のいいように――
 そこに気がついて、ラギスは喉奥で唸った。
 シェスラとて悩まなかったはずがない。ラピニシア奪還を為さねばならない――想像を絶する重責のなかで、自分を見失わず、痛みと犠牲を覚悟のうえで、ペルシニア侵攻の決断をくだしたのだ。

“私は、そなたほど高潔な男を知らない”

 ドミナス・アロで、剣を渡してくれた際にシェスラがラギスにいってくれた言葉だ。
 それはお前だ。
 お前はなんと気高く、冷静だったんだ、とラギスは思った。お前を駆り立てるものが、愛国心なのか、王としての責務なのか、月狼の意地なのかはわからないが、そいつは力強く美しいものに違いない。
 それに比べてラギスは……
 身にとり憑いて離れぬ意馬心猿いばしんえん。自分一人だけが思いあがり、痛手をこうむったと思いこんでいた。
(いい気なものだ)
 黒狼の顔が、回想の辛さに歪む。
「“……いい気なものだ。癇癪を起して喚いて、ヴィシャスを巻き添えに――情けねぇ、恥ずかしくはないのか”」
 呟いて、うなだれた。
 赦しを請うのはシェスラの方だと思っていた。その思いあがりが、身にこたえる。