RAVEN

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 十二月八日。東京。引っ越しを終えたあくる朝。七時。
 いつもより早く目が醒めた流星は、顔を洗って着替えると、静かに部屋をでた。廊下の突き当りにあるレイヴンの部屋の扉をしばし見つめるが、物音は聴こえてこない。まだ眠っているのだろう。
 さて、どうしよう? 本人から許可は得ているが、引っ越しの翌朝から好き勝手に歩き回るのもいかがなものだろう。
 ひとまずリビングにいくことに決めた流星は、階段を降りる途中で、思いがけず美しい光景に見惚れた。
 吹き抜けのリビングは広く、開放感があり、レースのカーテンにされた朝陽が、部屋のなかほどまで入りこんでいる。窓枠から垂れさがるサンキャッチャーが、部屋のあちこちに七色の光を投げかけ、なんだか魔法の世界にやってきたみたいだ。
 静かで、空気はひんやりしている。流星は布張りのソファーに身を沈めると、光の筋のなかできらきらと輝く塵をぼんやり眺めた。
 と、物音が聴こえた。青碧せいへきの瞳と遭った瞬間、流星の全身を小さな雷が貫いた。天使が階段を降りてやってくる。清らかな朝陽を浴びて、葡萄酒色の髪は煌き、端正な卵型の顔は黄金に縁取られ……なんて美しいのだろう。
「お早うございます、流星さん」
 天使がほほえんだ。
「お早う……」
 流星はうっとりした表情で返事をした。今日のレイヴンは、薄い色のデニムパンツに白い長袖のシャツをあわせ、ふかっとしたカーディガンを着ている。なんら変哲のない部屋着なのだろうが、彼が着ているとそうは見えないから不思議だ。
 レイヴンを目で追いかけていると、彼は、白い御影石の天板が置かれたアイランド式の調理台に、カップを並べ、珈琲サーバーのスイッチを入れた。と、目が遭った。ちょっと見つめすぎたかもしれない。
「流星さんも、珈琲を飲みますか?」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
 くっきり青い瞳に柔らかく笑みかけられ、流星の鼓動は跳ねた。
「何か食べますか?」
「いや、いらない。俺、朝は何も食べないんだ」
「僕も軽く胃にいれるくらいです」
 そういいながら、レイヴンはカップに煎れたての珈琲を注いだ。香ばしい匂いが漂い、鼻腔をくすぐる。
「これを飲んだら、モデルをお願いしてもいいですか?」
 カップを受け取りながら、流星は目をぱちくりさせた。一瞬、何のことだと思ったが、そういえば約束したことを思いだした。
「あぁ……本気だったんだ」
「もちろん」
 力強く肯定され、流星も腹をくくった。今日からレイヴン専属のモデルデビューである。
 一休みしたあと、二人は早速アトリエに向かった。
 煉瓦に囲まれた部屋は、まさしくアーティストのアトリエで、流星は興味深く部屋を見回した。
「おぉぉ~っ……ここがRAVENの仕事部屋かぁ」
 様々なキャンパスが幾つも壁に立てかけられ、木組みのラックには、無数の画材が所狭しと並べられている。高い勾配天井には天窓がついており、真鍮製のファンが回っている。正面には鉛枠にはめこまれた古風な格子窓があり、美しい庭がよく見える。窓の傍に長方形の寄木細工のテーブルが置かれ、緻密な工具類、硝子や鉱石が散らばっている。
「散らかっていてすみません」
 と、レイブンは照れたようにいった。
「とんでもない! 見せてもらえて光栄だよ。それにすっごく素敵な部屋だ……うわぁ~……」
 子供みたいにはしゃいでいると、おかしそうに笑っているレイヴンと目があった。流星は朱くなったが、憧れのレイヴンのアトリエにいるのだと思うと、どうしたって胸が高鳴ってしまう。
「感無量だよ。俺を連れてきてくれれ、どうもありがとう」
「喜んでもらえて良かった」
 レイヴンは嬉しそうにいうと、iMac Proを操作して音楽をかけた。Boseの無線スピーカーから、アップテンポのEDMが流れだす。慣れた手つきで、鉛筆や絵筆の乗った可動式の机を傍に寄せ、イーゼルにかけられた薄いつづれ織りのカバーをとりはずすと、B3のスケッチブックをのせた。
 デッサンの準備が整うと、机の上を眺めている流星を見て、
「お待たせしました。そこに座ってください」
 流星は、指示された通りに、窓辺の肘掛け椅子に腰をおろした。
「目線はあっち、窓の外を見ていてください。空想している表情を描きたいんです」
「これでいい?」
 窓の方を向いたまま訊ねると、OK、とレイヴンが答えた。次に紙を捲る音、鉛筆を走らせる音が聴こえてきた。
 そっぽを向いて座っているだけなら楽勝だ。そう思ったが、意外と難しい。座っているだけといえばそうなのだが、妙に緊張する。目があわないせいか、いつもより視線に敏感で、レイヴンに見つめられていると思うと、普段は意識していない髪の一筋にまで神経が通っているように感じられた。
「楽にしてもらって大丈夫ですからね」
 気遣いの滲んだ言葉に、流星はぎこちなく頷いた。モデルなんてやったことないものだから、身体のあちこちに変な力が入ってしまう。
「流星さん、Prime会員ですか?」
「え? うん」
「僕、寝ながらPrimeの海外ドラマを観るのが日課なんですけど、The Walking Deadって知っています?」
 思わず振り向きそうになり、流星はちょっと笑った。
「全シリーズ観てるよ」
「僕もです」
「おおっ」
 ……と、雑談が始まった。
 気を紛らわせようとしてくれたのだろうが、二人とも想像以上にゾンビトークで盛りあがり、レイヴンは途中で鉛筆を落とすし、流星もモデルをしていることを忘れて、手を叩いて爆笑したりした。
 そうしてしばらく経った頃に、レイヴンは静かに鉛筆を置いた。
「流星さん、お疲れ様でした」
「もういいの?」
 驚いた顔で流星が振り向くと、レイヴンはにっこりした。
「二時間経ちましたよ。今日はもう十分です」
「もうそんなに経ったんだ」
「はい。結構描けましたよ、どうでしょう?」
 スケッチブックを覗きこみ、流星は感嘆の声をあげた。
「すごい、俺がいるぞ! 短時間で、こんなに何枚も描けるものなんだ」
 彼はアングルを変えて、三枚も描いていた。どれも、そのまま額に入れられそうな出来栄えである。
「明日もよろしくお願いします」
「了解。思ったより緊張しなかったよ。というか、ずっとTWDの話をしていたな」
 流星が笑うと、つられたようにレイヴンも笑った。彼は普段から海外ドラマを制作中のBGM代わりにしているらしく、TWD以外の海外ドラマにも詳しかった。少なくとも、流星が観ている海外ドラマは全て知っていた。
 時刻はちょうど十二時を過ぎたくらいで、二人はそのままリビングに戻り、専属のシェフによる手料理(贅沢なことである)を馳走になった。
 料理はどれも、とても美味しかった。庭で育てているという、新鮮な葉物野菜、トマトにラディッシュのサラダ、チキンの香草焼きに、焼き立ての暖かいアップルパイまででてきた。
 窓辺で食後の珈琲を飲みながら、贅沢な午後を満喫する流星につきあい、レイヴンも雑誌を捲ったり、時々雑談して笑いあったりした。
 しばらくするとレイヴンはアトリエに戻り、流星は近所の探索にでかけた。
 日が暮れる前に家に戻ると、レイヴンはちょうどシャワーを浴びたところらしく、下はスエットのパンツに上半身は裸という恰好でリビングに入ってきた。
「あ、お帰りなさい」
「ただいまー……」
 流星は呆けたように返事をした。
(やっば、鼻血でそう……っ)
 引き締まった身体はしっとりと濡れて、非常に目のやり場に困る。さっと目をそらすと、レイヴンは傍にやってきて、悪戯っぽい瞳で流星の顔を覗きこんだ。
「呼びましたか?」
「呼んでいません。服を着なさい」
 流星は半目で睨んだが、レイヴンは楽しそうに笑った。
「顔が赤いですよ」
 流星は口をへの字にした。思わず涎がでそうなほど美しい青年が、半裸で目の前をうろついているのだ。赤くなるなという方が無理な話である。
「俺はゲイなんだぞ。じろじろ見られたくなきゃ、少しは気を遣ってくれ」
「流星さんになら、見られても平気ですよ」
 引くかと思ったが、レイヴンはむしろにっこり笑った。逆に流星の方が面食らってしまう。反応に迷っていると、レイヴンは機嫌良さそうに部屋をでていき、間もなくVネックのTシャツに着替えて戻ってきた。
「夕飯にしましょう」
 そういってレイヴンは、無地のエプロンを首にかけ、キッチンに立った。てっきり夜もシェフがいるのかと思ったが、違うらしい。
 彼は、昼間のうちにシェフが作り置いてくれた鍋を温め、野菜を刻んでちょっと手間を加えたりして、あっという間に美味しそうなシチューやサラダを食卓に並べた。
 どれも、文句のつけようがないほど美味しかった。流星はすっかり満足し、食後もしばらくリビングで過ごし、夜の十時を過ぎる頃には部屋に戻った。
 ここ最近の慌ただしさが嘘のように、穏やかでのんびりとした、それでいて刺激的な一日だった。
 横になって目を閉じても、レイヴンの姿が浮かんでくる。上半身を惜しげもなくさらしたレイヴン……想像を凌駕する究極の人間美が、瞼にしっかりと焼きついて離れてくれない。
 どきどきしている心臓を宥め、しまいには素数を数え始め、やがて流星は眠りに就いた。